昨日の雨が嘘のよう。
今日は一日快晴のようだ。
雲ひとつ無い空は随分と久しぶりな気がした。
朝食をとり、暫くの間 談話をした後、跡部の母に見送られて、跡部と共に出かけたのは……高級繁華街。
が今まで一度も来た事のない場所。
もともと、都内出身ではないであるから、当然の事。
以前は、関東圏ではあるが、他県の鄙びた町に住んでいた。
このような、高級繁華街になど、仕事で無ければ来る機会は無いだろう。
まあ、今でも仕事をしているのだけれど……。
初めての土地に思いがけずやってこれて、少しだけは浮かれ気分だ。
そんな自分の様子を、跡部が微笑みながら見ていることに気付かず、は車窓から町並みを眺めていた。
は今、車に乗っている。
運転手付きの高級外車だ。
跡部専用の車であるらしい。
ちなみに、にも…に宛がわれている物なのだが…車は、やはり高級外車で用意されているが、運転手は沢木がやっている。
そのような役割を、沢木が担うよう相談されているらしかった。
「そういえば…何処へ行くの?」
が車窓の外から跡部に視線を移して問う。
デートに出かけると、何故か跡部の運転する車に乗せられたのだが、どんなデートコースを回るのか聞いていない。
そのことに気付いての問いだった。
に視線を向けられた跡部は、慌てて表情を隠す。
別にそんな必要などなかったはずなのだが……。
「先ずは、俺の行きつけの店にいく」
跡部はそう言葉短く答える。
やはり金持ち。
このような高級繁華街に、行きつけの店を持っている。
彼の体を飾っている衣服や装飾品…彼が身につけている装飾品は腕時計とベルトくらいな物だが…は、全て高級品なのだろうな…などと、今更ながらに思ってしまっただった。
「どんな物を、買うつもりなの?」
なんとなく、跡部が買うものがどんな物なのか、興味がわいてはそんな問いをかけてみた。
「さあな、気に入ったモンがあれば買う、なけりゃ買わねぇ」
視線をには向けず跡部がそう言葉を返す。
その言葉を聞いて、きっと、どんな物でも買えてしまうからそんな事が言えるのだろうなとは思う。
やはり、生きている世界が違う人なのだと、実感しただった。
おそらく、替え玉という仕事を引き受ける事が無ければ、出会う事も無かったのだろう。
すれ違う事があったとしても、知り合いになる事など無かったと思う。
そんな事を考えていてボーっとしてしまったの様子を見た跡部が「どうした?」とそんな問いをかけながら覗き込んでくる。
はっとなっては慌てて、「なんでもないっ!」と頭を振って誤魔化した。
暫くの後、車はとあるブティックの前に止まった。
とても重厚感あふれる2階建ての建物だ。
車を二人して降りる。
跡部はそのままブティックへと入っていこうとするが、は躊躇してしまって足を途中で止めてしまう。
その様子に気付いた跡部が足を止め、振り返ってを見やる。
「どうした?」と跡部が問うてくるが、は慌てて「なんでもない」と頭を振って足を進めた。
石油王の娘が、高級ブランドのブティックには言った事無い筈がないのだから、戸惑ってなどいられないのだと、そう気付いたからだ。
跡部も、深く追求することはなく、が自分の隣に並ぶまで待って、それから二人並んでブティックに入ってゆくのだった。
高級ブティックに入るなど、今までが想像もしなかった事で、酷く困惑した。
お客も、今は跡部とだけ。
あまり、一般の人間は入らない店なのかもしれない。
そんなをよそに、跡部は自分の買い物を済ませてゆく。
は、目に付いたTシャツの値札をちらりと盗み見た。
………ありえない…。
目の飛び出るほどの値段。
Tシャツなんて、下手をすれば100円で買える。
今、跡部が次々と購入している服のどれも、これ以上の値段をするに違いない。
眉一つ動かさず、さも当然のごとく振舞う跡部の様子を見ながら、は金銭感覚の違いに驚かずにはいられない。
はブティックの中を見回す。
どれもこれも、が簡単に手に入れることのできない物ばかり。
とはいえ、分相応と言う言葉もある。
どうせ自分は貧乏人。
こんな所で、手の届かない物をみて物思いに耽っても詮無い。
そう考えて、は思案をやめた。
と、そんなの視線に留まるものが。
は、それに引寄せられるように近づいた。
それは、ニット帽。
ショーケースに飾られた、幾種類ものニット帽。
妹のが、欲しがっている物。
思春期なのに、抗がん剤の副作用で髪の毛が全て抜けてしまう。
そんな彼女の為に、必要な物。
―――ねぇ、可愛いニット帽があったら買ってきてくれないかなぁ?―――
の言葉を思い出す。
あの子の為にニット帽を買って届けなければいけない。
たった一人の、大事な妹の為に……。
数日前、と交わした会話を思い出して、目の前が霞んだ……。
その頃の跡部は、自分の買い物を終えて、変えた視線の先に居た彼女を見て、小首を傾げた。
ニット帽の置かれたショーケースを見て泣きそうな表情をしているのだから……。
跡部は、ゆっくりと彼女の元へと近づく。
そして、声をかけようと思った。
けれど、すぐに止めた。
「どうした?」と問うても「なんでもない」と返されて、誤魔化されるのが落ちだと思ったからだ。
それは先ほどから繰り返してきた、彼女とのやり取りでもあった。
「気に入ったものでもあったか?」
跡部は少しだけ考えて、そんな何気ない言葉をかけた。
弾かれるように、彼女が振り返って跡部を見上げる。
彼女の瞳が、揺らいでいる事に、跡部はすぐさま気が付いた。
けれど、その理由など、解る筈もなく……。
「欲しいものがあるなら、買ってやる。どれだ?」
そう、やはり何気ない言葉だけをかけて、彼女の隣に立ち、ニット帽を見やる。
ショーケースに飾られたニット帽は、どれも普通のニット帽。
一体、どんな因縁があるのか、想像するにはあまりに材料が足りなさ過ぎる。
ただ、一つだけ解るのは、彼女の内には何かしらの苦悩がある、という事だけ。
そうでなければ、あれほどまでに悲しい、泣きそうな表情など出来ない筈だ。
それを聞き出すには、まだまだ、自分では力不足なのだとも、解った事。
信頼も、信用もなにもない。
体は彼女の傍らに立てても、心は傍らに立つことを許されていない。
それは痛いほど解っていた事。
しかし、いつかは体だけでなく心も彼女の傍らに。
そう心に決めて、今は何も彼女には聞かない。
彼女が、真実を話してくれるまで……。
一方のは……。
突然、跡部に声をかけられて、酷く戸惑っていた。
泣きそうになっていた事が、バレていないとは思えない。
自分が泣き虫な性格である事は痛いほど知っている。
すぐに涙がこみ上げてきてしまう。
零さないように耐えているけれど、目の前が霞んでしまっているのだから、涙は目元にあふれてたに違いない。
けれど、跡部は全くその事には触れず、「欲しいものがあるなら、買ってやる。どれだ?」とに問いかけた。
それは、を驚かせるのに十分な言葉だった。
「どうした?」や、「泣いてるのか?」と、そう言われると、思っていたのに。
全く違っていて、何気ない言葉をにかけてきたのだから。
は、呆気に取られ暫し呆然となったのだが、慌てて我に戻り「が欲しがってたなって思って、見てただけ」と頭を振った。
と、そこではしまったと思った。
慌てて我に戻った時に、思わずの名を出してしまったのだから。
「?」と、案の定、跡部が誰だ?と問うようにその名を口にする。
「と…、友達っ!」
はとっさにそう答えた。
すると、跡部は成る程と納得したようで。
しかし、が安心するにはまだ早かった。
「高校ん時の友達か?」と、そんな問いを跡部から掛けられてしまったからだ。
ちなみに、は高卒で、大学進学も就職もしていないニートでもあったらしい。
お嬢様のだ、すぐに嫁ぎ先が見つかり結婚するのだと、夫妻は彼女を大学進学させなかった。
おかげでは騙す相手を跡部家の面々のみだけで済んだと言う訳である。
跡部が、高校の時の…と問うたのは、そんなの事情を思い出しての事だった。
彼の問いに「ううん」と、は頭を振る。
が、それもやはり失敗だったのではと、は思う。
けれど、一度口にしてしまっては、取り返しなどきかない事。
「ちっちゃい頃からの仲良しなの」と、はそう説明した。
殆ど本当の事だが、妹という言葉さえ含まなければ、余計な辻褄合わせをしなくても済みそうだと、は考えてそう答えたのだ。
「幼馴染か……、名前からして…女だよな?」
なぜ、跡部がそんな事を気にするのか、にはよく解らなかった。
もし男だったら…と、跡部が少し嫉妬心を抱いてしまった為なのだけれど…。
そんな跡部の心情など、に解る筈もない。
跡部が、目の前にいる婚約者が、全くの別人で替え玉である事を知らないように……。
「女の子だよ」と、はそう答えを返す。
すると、「そうか、ならいい」と跡部は言う。
としては何がいいのか皆目見当も付かないのだけれど、跡部としては彼女に男の影があっては困るとそう思っての言葉だった。
跡部はに恋愛感情を抱いている。
結婚し夫婦になる事が決まっているとはいえ、立場や体だけの関係などでは満足など出来よう筈もなく。
心も手に入れてしまいたいと、考えているのだ。
跡部の気持ちに気付きもせず、はただただ、目の前の男の不思議な言動に戸惑うばかりである。
「その友達…今度紹介しろよ」
の心中などつゆ知らず、跡部は更にそんな事まで言う。
「なんで?」とは思わず問いかける。
「お前の友達なら、この先 交流があるだろうからな。面識あったほうがいいだろ?」
跡部はそうに答えた。
妻の友人となれば、確かに交流があってもおかしくは無い。
そう考えての言葉だと、は納得した。
しかし、を紹介など…出来るはずもない。
彼女は友人ではなく妹なのだから。
「む…無理だよ」と、は慌てて頭を振る。
そういえば、頭を振る動作が多いような気がするなと、心の隅で苦笑。
「何故だ?」と、跡部が問う。
「入院中だから」
跡部の言葉に、はそんな真実で答えた。
例えどんなに跡部がに逢いたいと言っても、入院を理由に拒む事が出来ると考えたからである。
「入院?どこか悪くしてるのか?」
跡部の言葉には「急性リンパ性白血病…」と、小さく答えた。
その病名を口にするのは、にとって悲しい事。
たった一人の家族を奪ってゆくかもしれない病気なのだから。
それを聞いて、跡部は納得した。
彼女の涙の理由も、その友人に起因するものではないかと……。
友人ではなく、実は彼女の実妹であるなどとは、考え付きもしてはいない、いや、考え付く筈もないのだが……。
「あの子の髪、もうすぐ全部抜けちゃうんだって……。だから、ニット帽欲しいんだって……」
―――ごめんね…―――と、泣きそうになったの耳に届いたの言葉が、彼女の脳裏にリフレインする。 病院で、彼女の髪を洗ってあげていた時の事だ。
あの言葉は、きっと、に苦労をかけていることに対する謝罪の言葉……。
の瞳にまた、涙がこみ上げてきた。
こんな所で泣くなんてみっともないと…そう思うのにこみ上げる涙は堪えようが無くて。
はその涙を見られまいと俯いた。
彼女の黒髪が、ベールのようにその顔を隠す。
そんなの頭に、優しく乗せられた大きな掌。
それが、跡部の物であると、にはすぐに解った。
父によく似た温もりの掌だから……。
その掌は、すぐにの肩に移動してしまったけれど。
跡部の手が、の肩に回ったのだ。
驚く間もなく、跡部に肩を抱かれて共にブティックの外へと向かう。
どうやら、なきそうになっているをブティックの外に連れ出そうとしているようだ。
は黙って、彼についてゆく事にした。
背後で、「ありがとうございました、またのおこしをお待ちしております」という、ブティックの店員の声が聞えた。
ブティックから、さほど離れていない場所にある路上駐車場に、先ほどここまで二人を運んだ車が停めてある。
外には、運転手の宮村と言う男が待機していた。
運転手の宮村は、何故か俯いているの姿を見て、たいそう不思議がって小首を傾げたが、跡部が何も聞くなという酷く鋭い視線を向けるので、何も言わず二人が車に乗れるよう、後部座席のドアを開く。
跡部に促されて、は車に乗り込む。
しかし、跡部は車には乗り込まず、ポケットからハンカチを取り出してに渡し、更に彼女の頭を優しく撫でて車のドアを閉めてしまう。
驚いて、は窓の外の跡部を見る。
けれど、跡部はに視線も向けず、運転手の宮村に何事か言った後、ブティックへと戻ってしまった。
まだ、彼の買い物は終わっていないのだと、は思った。
それなのに、が泣き出しそうになったせいで、一旦買い物をやめて、彼女だけ外に連れ出したのだと。
あんな所で泣きそうになるなんて、正直恥ずかしい事だと自身もそう思っていたので、そうしてくれた事はとても嬉しい事だった。
更に、コレで涙を拭けと言わんばかりに、ハンカチまで手渡してくれるなんて……。
そんな気遣いの出来る優しさがあるのだなと、が跡部のひととなりに触れた瞬間でもあった。
さて、ブティックへと戻ろうとしている跡部はというと。
彼女の心の内に抱えている物を知る事が出来た事に、喜びを覚えたと同時に、酷く同情を覚えた。
大切な友人が、死ぬかもしれない。
そんな恐怖を抱えて彼女はいるのだ。
それは、随分辛い事なのではないかと、跡部は想像する。
想像しか出来ないのは、跡部自身が、まだ、そんな局面に立たされたことがないから。
けれど、今までの人生経験の中で、大切な存在を失った者を見る機会が無かったわけではない。
そんな記憶を使って、彼女の辛い心中を想像してみたのだ。
とある日の朝、彼女が吐露した努力しても無駄になるという言葉も、それに起因する物ではないかと、なんとなくわかった気がする。
もしかしたら、彼女は、友人を救うために沢山の努力をしたのかもしれない。
それでも、報われないかもしれない。
だから、そんな事をあの時 吐露してしまった……。
そう考えれば、辻褄の合う事だった。
―――あの子の髪、もうすぐ全部抜けちゃうんだって……。だから、ニット帽欲しいんだって……―――
彼女の言葉を思い出す。
白血病は血液のがん。
抗がん剤の副作用で髪の毛が抜けてしまうという話は、跡部とて知っている。
彼女の友人なら同年か…さほど差など無い年齢だろう。
まだまだ、年頃でお洒落がしたい年頃だろうに。
なのに髪の毛が全て抜け落ちてしまう……。
彼女がニット帽を見て泣きそうになっていたのも、その事を考えたせいなのかもしれない。
そうこう、跡部が考えていると、あっという間にブティックの出入り口に到着。
再び、ブティックに入って行く跡部。
中に入れば、先ほど出て行ったばかりの跡部が再び戻ってきた事に、少しだけ驚いた表情をした店員が数名。
そんな彼らを無視して、跡部は先ほどのニット帽の並べられたショーケースへと足を向けた。
すると、店員の一人がそんな跡部の下へ近づいてくる。
この店の支配人の女だった。
先ほどの跡部の買い物にも対応した女でもある。
「ニット帽を、ご購入ですか?」と、その支配人は問う。
おそらく間違いなく、先ほど跡部達が交わしていた会話を聞いていたに違いない。
跡部が「ああ」と答えると、「でしたら、このあたりのデザインは若い女性に人気のあるものですよ」と、支配人は可愛らしいなデザインのニット帽で統一された一角を紹介する。
そこに並んだ数々のニット帽。
たしかに、女受けのしそうな物ばかりだと、跡部は思った。
「そこにあるやつ全部もらう」
数にして十ばかりのニット帽。
それら全てを購入することにした跡部。
幾種類ものニット帽があれば、多少なりともお洒落に気を回せるだろうと、そう考えたからだ。
「はい、かしこまりました」と支配人は跡部の言う通りそのニット帽全てを手に取った。
跡部は更に、贈り物用に包んで屋敷に届けるように指示。
そんな時、支配人は何かに気が付いたようにブティックの奥へと引っ込んでしまった。
手に持っていたニット帽は近くに居た部下に持たせて。
支配人はすぐに戻ってきた。
その手にニット帽を持って。
それも、女受けのしそうな可愛らしいデザインのニット帽。
「これは、まだ日本では発表されていないデザインの物なんです」
支配人は言った。
なんでも日本では、全く出回っていないデザインのものらしい。
今現在では、これが日本にあるたった一つのものだと、支配人は言った。
「こちらは、サービスでお付けしておきますね」と支配人。
どうやら、支配人の気遣いであるらしい。
それが、商売の為なのか、病に侵された哀れな少女の為なのか、それは解らないが……。
いや、おそらく両方だろう。
跡部は支配人言葉に頷くと、カードで支払いを全て済ませてブティックから出てゆく。
あのニット帽を、友人に贈ってやれと言ったならば、彼女はどんな顔をするだろうか……。
そんな事を考えながら、跡部は彼女の居る車へと戻ってゆくのだった。
<コメント>
長くなった………。
最初書いてたのは短過ぎだったので、書き直したら………。
でも、結果的に書きたいエピソードが深くなってよかったですよ。
ヒロインちゃん、間抜けで泣き虫です。
強かであるけれど弱々しいヒロイン。
キャラの方向性が固まってきたかなぁ。
さて、デート編は続きますよ〜。
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