気が付けば、は跡部に覗きこまれていた。
体は温かいのに頭と足首が冷たい。
しかし、今の状況が一体どんな事になっているのか、頭がボーっとしていてどうも理解が出来ない。
「大丈夫か?」と、跡部に心配そうに言われても、ボーっと彼の顔を見やるだけ。
そんな彼女の様子に、跡部がますます心配になるのは当然であろう。
今、はソファーに横たわっている状態だ。
その頭と足首には濡れタオルが置かれ、体は冷やし過ぎないように薄手の布団にくるまれている。
さて、何故このような状況になったのか、暫し時間を遡って説明をすることにしよう。
不毛な我慢大会を終わらせる為、さっさとバスルームからリビングルームへと退散してきた跡部。
彼女を湯船から早く上がらせる為に、バスローブを羽織るだけという簡単な井出達で、髪の毛ざっと拭いたきりのままで。
そして、回収した自分が脱ぎ散らした衣服をリビングルームにあるソファーに投げ捨て、肩に引っ掛けておいたタオルで念入りに髪の毛を拭きなおしていた。
そうしている間に、彼女が風呂からあがっているだろうと、そう思って。
しかし、彼の思惑は外れた。
髪の毛をある程度拭ききり、今度はドライヤーで髪を乾かさねば…という状態になった頃になっても、バスルームから彼女が出てきたような気配を全く感じないのだ。
ドアの音一つくらい、聞えてもおかしくないだろうに、それすら聞えてこない。
いや、流石にもう湯船からあがって脱衣所で体を拭いている頃だろう。
しかし…、もしも……と、跡部の脳裏に嫌な予感がよぎる。
まさか、そんなはずは無い。
きっと彼女は脱衣所にいる筈だ。
跡部はバスルームへと続くドアの前に立ち、耳を澄まして中の様子を伺ってみる。
けれど、ドアの向こうはしんとしているように感じた。
衣擦れの音が一つも聞えてこないのだ。
風呂場の水音は聞えてくるのに……。
まさか…と、再びもたげる不安。
もし、彼女が着替えの最中であったら?
いや、だが、もし彼女がのぼせて倒れていたら?
暫し悩んだ跡部だったが、意を決して、バスルームへと続くドアのドアノブに手を掛けた。
そして、ドアを開きその先の脱衣所へと向かう。
脱衣所に、彼女の姿は無かった。
その途端、跡部は焦り浴室へ続くドアを勢いよく開く。
そうすれば、浴槽の縁に体を預けるようにして倒れこんでいる彼女の姿が目交いに。
それからの跡部は、彼をよく知る使用人の清音や友人達ですら見たことのないような慌てぶりだった。
自分のバスローブが濡れてしまうのも構わず、浴槽の中の彼女を抱き上げ、脱衣所までそのまま抱えて連れ出し、脱衣所では、置いてあったバスタオルで彼女の体の水分をふき取り、更にバスローブを取り出して彼女に着せてやる。
彼女の全裸を見ることが出来た筈なのだが、そのような不埒なことなど頭の隅にすら思いつく事もない。
ただ、自分が彼女に悪戯を仕掛ける度に、必ず何かしら事件が起こってしまうようだと、それだけは痛感した。
バスルームからリビングルームへと移動した跡部は、ソファーにを横たえる事に。
もちろん、そこに投げ散らかしていた自分の衣服は床に叩き落として。
一旦はそこにあったソファーを枕にした状態で、彼女を寝かせてやる。
そして、跡部はリビングルームの壁に据え付けられている内線電話でフロントに電話をかけた。
彼女がのぼせてしまった事を伝え、更に、氷水となにが扇げるような物を持ってくるようにと指示をする。
暫くの後、部屋に氷水と小さ目のハンドタオルが二枚の入ったプラスチックの桶と団扇、更に気を利かせて、飲料用の氷と水分をすばやく補給できるスポーツドリンクまでボーイがカートに乗せて運んできた。
「頭と足を冷やして、ですが体は冷やさないように気をつけてください」
ボーイはそう言ってのぼせた時の処置法を跡部に伝える。
その言葉に、跡部は頷き、更に「何か変わった様子があったらまた連絡する」と言うと、ボーイに退出する様に促す。
ボーイは、軽く跡部に頭を下げると部屋から出てゆく。
跡部はその間にも、彼女の看病を始めるのだった。
コーヒーテーブルの上には先ほどボーイに運んでもらった物が全て乗せられていた。
跡部は早速、氷水の入った桶の中にあるハンドタオルを取り出し、固く絞って彼女の両の足首、額にそっと当ててた。
更に隣のベッドルームから薄手の布団を一枚 拝借し、彼女の体にそっと掛けてやる。
そうすれば、彼女の体の全てが冷えてしまう事はないだろう。
跡部は彼女が意識を取り戻すまで献身的に看病を続けたのだった。
そして、彼女が眼を覚まし今に至る訳である。
けれど彼女は跡部の呼びかけにも答えずボーっと視線を中に泳がせているだけ。
大丈夫なのか、のぼせた事が原因で何か体に悪い障りでも起こっているのだろうか。
心配で仕方がない跡部は彼女の頬にそっと手を伸ばし撫でてみる。
頭にこもっていた熱は随分引いたようで、のぼせたばかりの頃の熱さは無い。
次第に、の意識ははっきりとしたものになってくる。
おかげで、心配そうに自分を覗き込む顔も、優しく自分の頬を撫でる彼の指先の感覚もしっかりとわかり理解が出来てきた。
そして、自分が何故こうなったのかも……。
「…私……のぼせてた………?」
の呟いた言葉に跡部が「ああ…」と申し訳ないという表情をして答える。
「看病してくれたのも…アナタ?」と、が更に言葉を重ねれば、ゆっくりと頷く跡部。
そうなんだ…と納得しそうになって、ははっとする。
そして慌てて飛び起きた。
が、くらりと眩暈がして再びベッドへ倒れこむ。
「いきなり起き上がるんじゃない」
跡部はそう言いながら、飛び起きたせいで額から転げ落ちたタオルを拾い、更にそれを一旦コーヒーテーブルの上にある氷が解けかけた水の中につけてタオルを冷やしなおし、固く絞って再びの額に乗せた。
冷たいタオルがとても心地よかった。
けれどそれ以上にには気に掛かる事がある。
「私…お風呂で倒れてたんだよね……?」
は横になったまま跡部に問う。
跡部はのその問いの意図になんと無しに気付いてしまった。
「……ああ。で、その風呂場からお前を引き上げたのも、体を拭いてバスローブ着せてここに運んだのも俺だ」
彼女が一番聞きたかった事が跡部の言葉で返ってくる。
つまり…それは……の裸体を彼に見られてしまった事に他ならない訳で……。
「うそぉ……」
そんな泣きそうな声を上げて、けれど体を起こすのは辛いは跡部の背を向け、ソファーの背に自分の顔を埋めてしまう。
最悪だ、嫁入り前なのに、全裸を男の人に見られてしまったなんて……。
更に、彼の全裸も見せつけられていて……。
どうしてこんな事になってしまったのだろう。
はショックを隠しきれない。
「もう、お嫁にいけないよぉ」とそう小さく呟き、はめそめそと泣き出してしまった。
泣き出してしまった彼女の様子を見て、またまた跡部は慌ててしまう。
「嫁には、俺ん所に来るんだから心配はねぇだろ」と彼女の頭を優しく撫で、さらに優しい口調で言う。
自分でも驚くほど優しい声で言ってやったのだが、彼女は泣いたまま。
「喉は渇かねぇか?ああ、もう昼過ぎちまってんな、腹も減ってんじゃねぇか?」
優しい口調で、幼子をあやすように言葉を紡ぐ跡部。
相変わらず、彼の手は彼女の頭をやさしくやさしく撫でている。
「飲みたいもんはあるか?食いたいもんがあったら言ってみろ、すぐに持ってこさせるから、な?」
「何が食べたい?ん?」と、そんな優しい言葉をかけて、必死に彼女をあやす跡部。
普段の彼を知る者達が見たら、ここにいる男は跡部景吾と言う皮を被った別人ではないのかと思ってしまうだろう。
それほど、跡部の様子は優しげだ。
の心がゆっくりと落ち着いてくる。
彼のその掌が、死別した父親によく似ていたものだから余計に落ち着くのが早かった。
まるで、父親がその場にいるような……、そんな錯覚を起こしてしまっていたのだ。
目の前にいるのは、父ではなく全く違う男性であるというのに。
はゆっくりとソファーの背に向けていた顔を跡部の方へ向ける。
跡部の顔に、おぼろげに父の面影が映った。
の視線に気付き、跡部が優しく「どうした?」と微笑みかける。
「オレンジジュースが飲みたい…」との口から、そんな言葉が零れ落ちた。
「他には?」とそう優しく跡部が問いかければ、彼女は少しだけ考えて、「…ハンバーグ…」と答えた。
跡部はすぐさま「解った」と頷き、リビングルームの壁にある内線電話へとむかい、そこから彼女の望むものを持ってくるようにと指示を出す。
そんな跡部の様子を見ていたは、はっと我に返る。
今、自分の目の前に居るのは、父ではない、跡部景吾と言う別人だ。
父と同じ掌の感触が父との思い出を呼び起こし、更に、彼を父と錯覚して甘えてしまうなんて……。
のぼせて頭が回らなくなっていた直後であった事も、原因だっただろう。
けれど、流石には自分のしてしまった事を恥じずには居られない。
電話を終わらせた跡部が、の元へ戻ってくる。
そういえば、はまだソファーに横たわったままだ。
「ご…ごめんなさいっ!」
は慌てて起き上がり、跡部に頭を下げた。
のぼせた頭ももう冷えていて、突然起き上がっても頭を勢いよく下げても眩暈を起こす事は無かったのが幸いだ。
いきなり謝ってきた彼女に、跡部は困惑してしまう。
何故、彼女が謝る必要があるのか解らないからだ。
「なんで…謝るんだ?」
跡部は優しく問いかけてみた。
すると彼女は頭を下げたまま言葉を返す。
「調子に乗って、甘えちゃって……だから………」
ただ、ジュースが飲みたい、ハンバーグが食べたいとそう訴えただけで、何故調子に乗って甘えたと謝る必要があるのか…。
やはり、彼女は跡部が今まで見てきた女達とは違う。
跡部が以前 隣に置いた女達は、当たり前のように甘える人間ばかりだった。
だから余計に、目の前にいる謙虚な娘を愛しく思ってしまうのは仕方のない事だと、跡部はそう納得できる。
跡部は優しい笑みを浮かべて、彼女の隣に腰を下ろした。
そして、彼女の頭を優しく撫でながら言葉を紡ぐ。
「この程度、甘えたうちにはいらねぇよ」
言葉遣いは美しくないのに、声色が優しげなおかげで、とげが一つもない。
跡部の言葉は更に続く。
「それに、お前が甘えたいのなら、俺はお前が満足するまで甘やかしてやるぜ?」
優しく彼女の頭を撫でながら、甘く甘く言葉が紡がれる。
その言葉に、は恥ずかしい反面、疑問も感じてしまう。
何故、甘えたいのなら甘やかしてやると、そう彼が言ってくれるのか。
と、そこでの頭の中で思いつくことが幾らかあった。
今日の風呂場での一件もそうだが、昨日のパーティーの時にも彼の悪戯では酷い目にあっている。
その詫びであるのだろうか?
はそう思って、そうの事を問うてみた。
しかし、それは彼だけが悪いわけではないと思う事も、は跡部に伝えた。
自分にだって責はあると…。
彼から渡された酒を、おかしいと感じていながらも、慌てて全て飲み干してしまったのは、酒を渡した跡部の責の方が大きいが、それでもに責がないとは言い切れない。
今回だって、湯船に浸かっている間 跡部に何度も湯からあがる事を促されたのに、意固地になって湯からあがらなかった。
彼に裸体を見られることが恥ずかしかったけれど、それも急げば一瞬だっただろう。
それすらせずに結局のぼせてしまって……。
悪戯をしかけた跡部の責が減るわけではないが、それでもやはりにも責があると思わずには居られない。
跡部はの言葉を黙って聞き続けた。
そして、全てを聞いた後に口を開く。
「詫びってのもあるけどな。下心もあんだよ…」
跡部の言葉に、は思わず小首を傾げる。
詫びのほかに下心がある?
では、一体どんな下心があるのだと言うのか。
の視線から、その疑問を感じ取ったのであろう跡部は少しだけ照れたように視線を彼女から逸らした。
しかしすぐに視線を戻し、の頭を撫でていた掌を今度は彼女の頬に添える。
の視線をじっと見詰めて跡部は言った。
「お前の事が好きだから……、お前に好かれる為ならなんだってやりたいんだよ」と……。
彼の吐いた甘い言葉に、が顔をあっという間の朱に染めたのは、言うまでもない。
そんな彼女の様子を見て、跡部はフッと笑みを浮かべる。
「ホント、お前って可愛いな……」
跡部はそう言うと、彼女の頬に添えていた手を今度はその頤にかける。
そうして、うつむいてしまった彼女の顔を自分の方へと向き直らせたのだ。
「お前が好きで、お前が可愛いから、優しくしてやりたいと思う。……反面、いじめてやりたくなる、大人気ない俺も居るんだけどな」
跡部は彼女と視線を絡ませて、更に言葉を紡ぐ。
「ホントに、大人気ないね…」
は跡部に向けられる視線にどうしても耐え切れず、顔は跡部に向けたままだが視線はまったく別の場所に逸らして言葉を返す。
「それでも愛情表現なんだよ」と、跡部は彼女が逸らした視線の先に自分の顔を移動させて言う。
「でも、昨日や今日みたいに、シャレにならねぇような悪戯はもう、絶対しねぇよ」
再び彼女と視線を絡ませて、跡部は言葉を紡ぐ。
「……シャレになるような悪戯はするんだ……」
揚げ足を取る彼女の言葉も、跡部は全く気にしては居ない。
跡部は「かもな」と悪戯な笑みを浮かべた。
「…大人気なさすぎ」
はそう言うと少しだけ頬をふくらませ、跡部を睨む。
座高の高さの違いから、彼を見上げる形で。
跡部からすれば、上目遣いで睨まれている訳だが、それは彼にとって扇情的な構図でしかなく。
思わず押し倒して体を繋げてしまいたいという欲望に駆られたが、もちろん最大限の理性で我慢する。
しかしせめて、キスくらいはと思いもしたが、行き成りでまた泣かれでもしたら…と考えて、彼女に問いをかけることにした。
自分を睨みつけている可愛らしい娘に、にこりと笑いかけて跡部は言う。
「なぁ、キスしても良いか?」
突然、脈絡も無くそんな事を言われたは、ハトが豆鉄砲を食らったような顔になる。
そんな彼女の様子を見てクスリと笑い、もう一度、跡部は問う。
「キス、しても良いか?」
じっと情熱を込めて彼女の瞳を見詰める跡部。
その視線から、自分が彼に求められているのだと、理解してしまったは、どうしたら良いかパニック状態だ。
頷くべきなのか、断るべきなのか。
どうしよう、どうしようと、の心の中は大騒ぎだ。
彼女の混乱が、雰囲気から見て取れた跡部は思わず苦笑。
どうやら、まだまだ彼女との距離は遠いらしい。
キスを求めるのも、まだ時期尚早。
そう考えた跡部は「今の言葉は忘れてくれ」と、言葉を取り消して、彼女の頤に添えたままだった指を離す。
すると彼女はほっとしたように息をついた。
彼女の様子に、ほんの少しだけ傷ついたような気がする跡部だが、思いが通い合ってないのだから仕方がない。
「行き成りで、悪かったな」
跡部はそう言うと、彼女の頭をやさしく撫でた。
時間はたっぷりとある。
これから、ゆっくりと距離を近づければいい。
跡部に頭を撫でられて、恥ずかしそうに頬を朱に染めている彼女の様子を見ながら、跡部は心の中でそう決意を固めるのだった。
<あとがき>
最初はドタバタで苦め。
けれども後半は……、
あ…あまーーーーーいぃぃぃ。
書いている間、どれほど口から砂糖を吐いた事か……。
最初はキスさせようかと思ったんですがね…。
よくよく考えたら、出会って1週間だってのにキスまでいかせていいものか…と…、そう思ったのですよ。
まぁ、初日に跡部が奪っちゃいましたが…。
それに更に加えたいエピソードがぶっ飛んでしまう恐れがあるので、跡部ごめんね、キスはお預けじゃ!(フォッフォッフォ・誰の笑いだよ)
ヒロインちゃん、跡部の裸見た事も自分の裸を跡部に見られた事もいつの間にか忘れていますね…。
まぁ、あんなに甘くされたら仕方ないですがw
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