時を遡る。
が沢木と共に跡部の部屋から出て行った暫く後の事。
跡部に寝間着を用意しろと命じられて清音がやって来た。
ノックの音と「失礼いたします」の挨拶と共に。
「様と随分と仲良くなられましたのね」
今日、デートから帰ってきた二人の様子を見ていた清音はとてもとても嬉しい気持ちだった。
故にその言葉が出て来たわけだ。
「ああ。いろいろとあったが、災い転じて…でな」
本を読むのをやめ、傍らにやって来た清音に視線を向けた跡部は言う。
「何があったのかは、詳しくは聞きませんが、良い事ですわね」
清音はそう言葉を返すとにっこりと微笑んだ。
「まぁな」
跡部はその言葉に軽く相槌を打つ。
すると、清音はふと思い出したように言葉を紡ぐ。
「ああ、そうですわ。マルガレーテの事で、お話しようと思ってたんです」
「マルガレーテ?」
それは、跡部の愛犬の事だ。
今現在、彼の実家で飼われている。
「ええ。マルガレーテはこちらの屋敷に引き取る予定でしたけれど……」
「ああ、あのまま実家においておく。は犬が駄目だし、それに、お袋もあの屋敷に一人きりでいる事が多いし、マルガレーテが居なくなったら余計に寂しくなるだろうしな……」
清音の言葉に、跡部はそう言って頷いた。
「かしこまりました。では、その通りに…」
「ああ、そう実家にも連絡をしてくれ」
跡部の指示を受け、清音は部屋を辞する。
もちろん、跡部の寝間着はちゃんと置いて。
再び跡部は一人きりになる。
「…犬が苦手…か……」
跡部の口からポツリと漏れた言葉。
正直言うと、跡部は犬のような愛玩動物がとても好きだ。
だから、実家ではマルガレーテをとても可愛がっていた。
出来る事なら、この屋敷にマルガレーテを連れてきたかったのだが、彼女が犬を苦手である以上、それは出来ない。
彼女の場合、苦手を克服できるか?と考えると、難しいものがあると思える。
それは、跡部が昼間、浴室で彼女の肩の傷を見た時にわかってしまった事だ。
4歳の頃に受けた傷が、十数年の時を経ても目に見えて解るほど残っている。
よほど酷い噛まれ方をしたのだろうと、その傷を見ただけで想像がついた。
彼女はきっと、とてもとても恐ろしい思いをしたに違いない。
死の恐怖を感じてしまうほどのものであったかもしれない。
あの子のように……。
そんな事を思った跡部の脳裏に、小さな小さな子供の…女の子の顔が霞める。
それは、随分と昔の話。
まだ、彼が中学3年生だった頃の話だった。
夏休みも終わり、中学最後の全国大会も終わった。
テニス部を引退はした跡部は、暇つぶしにととある公園のテニスコートに足を伸ばしていた。
供に、樺地崇弘という後輩を連れて。
190cmを超える巨体ではあるが、跡部より一つ年下、中学二年生である。
なかなか信じてもらえないのだが……。
と、そんな事はさておいて。
本来なら、高校受験だのと忙しい時期なのだろうが、跡部には全く関係のないものだ。
なぜなら、彼の通う氷帝学園は小中高大一貫校。
推薦進学枠には入れれば、受験など無しに高等部に進学できる。
跡部は成績もよく、生徒会長として活躍していた。
更に、テニス部の部長としても成績を残していたお陰で、容易に推薦進学枠に入ることが出来たのだ。
お陰で、跡部の残りの中学生生活はとても余裕のある物に。
テニスの腕を上げる為のトレーニングに明け暮れる時もあれば、今日のように公園のテニスコートに顔を出して年上相手に野試合をしてみたりと、大好きなテニス三昧の日々を送っていた。
「あれ、跡部さんじゃないッスか」
野試合を終え、樺地とともにテニスコートから去ろうとした跡部の耳に、聞き覚えのある声が聞えた。
声の主は跡部の見知った人物。
つんつんと短く借り上げた黒髪と、人懐こそうな表情を持つ男子。
「…桃城…」
跡部は彼の名を呼んだ。
桃城武という名の彼は、ライバル校である青春学園中等部の二年生テニス部員。
「全国大会ぶりッスね。樺地も」
人懐こそうな表情そのままに、桃城は跡部にそう言葉を掛けてくる。
更に桃城は跡部の後ろに控えている樺地にも忘れずに声を掛けた。
「何か用か?」
跡部はそっけなく、桃城にそんな返事を返す。
「別に、用って訳じゃないですけど。ただ、見かけたんで声を掛けただけですよ」
跡部のそっけない言葉にも動じず、桃城はニッカリと笑った。
そして更に言う。
「野試合でもしてたんスか?」
桃城の言葉に「まぁな」と、やはり跡部はそっけなく言葉を返す。
「で、結果は?」
跡部の様子を意にも介せず、桃城は問う。
「フン、俺様を誰だと思ってやがる?勝ったに決まってんだろ、なぁ、樺地?」
桃城の言葉を鼻先で笑い、先ほどの野試合の結果を口にする跡部。
背後の樺地に同意を求めると「ウス」と彼は頷いた。
「聞くだけ、野暮ってもんでしたか」
桃城は笑いながら言う。
「そんじゃ、俺は用事があるんで」
更に桃城はそんな事を言うと、笑みを絶やさないまま軽く手を上げてその場から立ち去ろうと跡部に背を向けた。
が、「あれ…?」と何かを見つけて怪訝そうに小首を傾げる。
意味深な桃城の様子が気にかかり「どうした?」と跡部は桃城に声を掛けた。
「あ…いえ、あの子……。さっきもうろうろしてたんすよね…」
桃城の視線の先には、小さな女の子の姿があった。
跡部達の居る場所からさほど距離は離れていない場所に立ち止まり、辺りをきょろきょろと見回している。
年の頃は…3歳か4歳程度の、小さな子供だ。
「近くに親が居るんじゃねぇのか?」
跡部は言う。
あれほど小さな子供なら、近くに親が居て当然だろう。
そう思っての言葉だった。
「それが、おかしいんスよ……」
小さな子供が一人でうろうろしているのはおかしいと、桃城も思ったようで親はどこに居るのか聞いてみたらしい。
少女は向こうに居ると指を刺してそちらの方へと行ってしまったという。
親が居るのなら大丈夫だろうと思い、桃城は少女を見送った。
けれども、再び一人で少女は目の前に現れ……。
だから、桃城が気にしたと言う訳だ。
「……迷子…でしょうか…?」
樺地が少女に視線を向けながら言う。
「やっぱ、それっぽいよなぁ……」
桃城も相槌を打つ。
少女は暫しきょろきょろとしていたが、すぐにその場から居なくなる。
丁度、十字路になっていた道の角を曲がって跡部達の視界から消えたのだ。
「やっぱ、追っかけてみよう……」
そう、桃城が口にした時だ。
狂ったように吼える犬の声と、叫び声が3人の耳に届いた。
それは、あまりに悲痛な叫び声。
喉の奥から発せられたものだと解る叫び声は、子供特有の甲高さがあった。
聞えてきたのは、迷子のようにうろうろしていた少女が消えた角の向こうから。
ほぼ、間違いなく、彼女のものだと思われた。
そして、更に聞えた吼える犬の声。
まさか、犬に襲われたのか?
この声を聞いた皆がそう思っただろう。
跡部も、桃城も、樺地も、その他のこの公園に居た人間達全てが。
その叫び声を聞いたとたん、跡部の足がそちらに向かって動いたのは、当然の事。
もちろん、桃城や樺地もだ。
全速力で、少女の消えた十字路まで走る。
そして、少女が居るであろうその方向に視線を向けた。
やはり、思ったとおりだ。
中型くらいの大きさの茶色い毛色の犬。
その犬に上から圧し掛かられ、踏みつけられた上に左肩を深々と噛み付かれている、あの小さな女の子の姿が3人の目に飛び込んできた。
犬に出会って、逃げようとしたのだろう。
少女はうつぶせに押し倒されていた。
少女の肩に、犬は唸りながら牙を突き立てている。
このままでは、この少女の命が危ない。
即座に、皆が思った。
「樺地!」
「ウス!」
跡部の言葉に、樺地は即座に反応した。
少女から犬を引き離さなければならない。
その役目を負うのは、樺地がいい。
跡部はそう思ったのだ。
樺地はとても力が強く、犬の口を無理やりこじ開ける事が出来るだろう。
更に、彼は巨体であるにも拘らず、フットワークが良い。
反射神経もある。
もしも、犬が樺地に向けて襲い掛かっても、それを振り払う事は出来る。
樺地も、跡部と同じく思ったのだろう。
だから、名を呼ばれただけで即座に反応できたのだ。
犬は相変わらず、少女の肩に食いついて離れない。
樺地は、犬の口をその大きな手で掴むと、無理やりこじ開けようとする。
強い力のお陰で、犬の口は徐々に開き始めた。
樺地は、更に強く強く力を入れ、犬の口を更に大きく開く。
そうすれば、少女の肩はどうにか解放された。
少女の肩が解放された瞬間を見て、いつの間にかその場に居た跡部が、彼女を犬から引き離す。
それを確認して、樺地はすばやく犬の口を少し乱暴に解放した。
次の瞬間、犬の尻に蹴りが一発。
桃城のものだった。
犬には申し訳ないが、こういう場合は已むおえないだろう。
桃城の蹴りが効いたのか、犬はキャインと甲高い鳴き声を上げ、その場から走り去ってゆく。
「あの犬…捕まったら処分されちまうんだろうな……」
逃げてゆく犬を見詰めて、桃城がぽつりと言った。
「そんな話は後でしろ!」
背後から、跡部の怒鳴り声。
みれば、跡部が少女の肩口にハンカチを押し当てていた。
「桃城、このガキの親を探して来いっ!子供が居なくなったって探してる奴がどっかに居る筈だ!樺地、119番だ!そしてすぐに俺のテニスバッグからタオルをもってこいっ!」
跡部はすばやく二人に指示をする。
跡部の腕の中では、少女がひたすら泣き叫んでいた。
「わかりました」
「ウス」
桃城と樺地は同時に頷く。
樺地は早速、もともと居た場所に置きっ放しにしているテニスバッグへと急いで戻る。
テニスバッグから携帯電話とタオルを取り出して、先ずは救急車を呼ぶ。
「桃城、多分こいつの名前は『』だ。靴のかかとに書いてある」
跡部は少女の靴のかかとにマジックで書かれたその文字を目ざとく見つけ、桃城に伝える。
彼女の持ち物に書いてある名前であるなら、彼女のものだと思ってほぼ間違いないと思ったからだ。
「『』ちゃんッスね!解りました、すぐに探してきます!」
桃城は頷くとすぐさまその場から走り去りながら大きな声で「ちゃんのパパかママ、家族の人は居ませんか?!」と言いながら『』という少女の両親を探す。
その頃には、樺地が救急車を呼び終えてタオルを3枚ほど片手に跡部達の元へと戻って来ていた。
樺地からタオルを受け取り、その一枚を少女の傷口に中てて圧迫し、止血を試みる。
少女の傷はひどく深いらしく、血がなかなか止まらないからだ。
ハンカチでは埒が明かないと思ったからこそ、跡部は樺地にタオルを持ってこさせたという訳だ。
更に跡部は、樺地に救急車が到着したならば、救急隊員を誘導するように指示を出す。
樺地は「ウス」と頷き、即座にそれを実行すべくその場から走り去って言った。
腕の中で、少女はひたすら泣き叫んでいた。
恐ろしかっただろう。
それに、肩はひどく痛むのだろう。
「パパ」「ママ」「いたい」という言葉が、泣いて叫ぶ声に何度も何度も混ざった。
「よし、もう大丈夫だ。パパもママももうすぐ来るし、すぐに病院に行って手当てしてもらえるからな」
跡部の言葉が、少女に届いてはいないだろう。
けれど、跡部は少女を宥めるように何度も何度も声を掛け、少女を抱きしめ背中を撫でたり頭を撫でてやった。
少しでも、少女が落ち着くようにと。
それから、間もなくだった。
救急車の音がどんどんと近くなってくる。
公園に救急車がやってきたようだ。
更に、「!」という男の声が、跡部の耳に届く。
何処かで見たことのあるような顔をした、年の頃30代くらいの男だった。
どうやら、少女の父親らしかった。
その背後には桃城の姿が。
少女の家族はすぐに見つかったようだった。
「ああ、っ!パパ達が目を放してしまったせいでこんな……」
少女を抱いて手当てをしている跡部の目の前に膝を付き、今にも泣き出さんばかりの声で言葉を紡ぎながら男は己の娘を覗き込む。
「ほら、パパが来たぞ。もう、大丈夫だ」
跡部は少女に声を掛ける。
それと同時に、「こっちです!」と桃城の声。
カラカラという車輪の音。
ストレッチャーを押し運ぶ救急隊員と、それを誘導している樺地の姿があっという間に近づいてくる。
跡部は駆けつけた救急隊員に少女を引き渡す。
救急隊員は、少女をストレッチャーに乗せると、再びもと来た道を戻ってゆく。
少女の父親は「ありがとうございました!」と跡部達に深々とお辞儀をし、すぐさま娘を追ってその場から走り去る。
それから程なくして、救急車の音が聞え、あっという間に遠くなっていった。
結局、あの後すぐに跡部は桃城と別れ樺地と共に家路についた。
長居をして騒がれるのは面倒だと思ったせいもある。
少女を手当てした際、彼女の血液が着ていたジャージに付着してしまったからという事もある。
手に付いた少女の血は、途中で見つけた水道で洗い流し、跡部は車を呼んでさっさと公園から立ち去ったのだった。
家に帰りついた跡部の服についた血糊を見て、使用人たちが驚いたのは言うまでもない。
過去を思い出し、跡部はふと思う。
あの少女も、犬に左肩を噛まれていたなと…。
『』という名の少女。
風呂場で愛しい婚約者の肩の傷を見た時にも、一瞬あの少女の姿が脳裏を掠めた。
たまたま、偶然、同じ場所を噛まれただけだろうと、跡部は思った。
彼女と少女では年が二つくらいは違う筈だ。
少女はまだ赤ん坊に近いくらいの年頃で、その当時ならば彼女は小学生に上がってる位の年頃。
幼い子供は1年ですら年の差で体格が違う。
故に跡部は偶然同じ年頃に、偶然同じように公園という場所で、偶然同じ左肩を噛まれたのだとそう思い込んだのだ。
彼の少女が成長し、自分の目の前にいることを知らずに………。
<あとがき>
むっは〜っ!
これが書きたかったエピソードなんです!!
運命の二人〜〜って感じで(爆)
10歳差って事は、跡部があれほど度肝を抜かれるほどの男っぷりを発揮していた中学生時代、ヒロインはまだまだ赤ん坊と言ってもおかしくない位の子供だったんですよ!
いいよね、10歳差ってさ。
年の差カップル万歳ヽ(´ー`)ノ
年の差カップルって好きなんですよ〜。
こういうカップルは楽しくて仕方ありませんですよww
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