断罪を待つ咎人の気持ちを、は強く感じていた。
全てを彼に話すと心に決めて、跡部邸へと帰りついた。
跡部の帰りを待ちつつ、湧き上がってくる恐怖と戦っていた。
恐怖に負ければ、何もいえなくなる。
そうなれば、このまま彼を騙し続ける事になる。
しかしこれ以上、彼を騙して居たくはない。
の内にある、跡部を想う心が恐怖の源であり、そのくせ恐怖を押さえつける力であった。
怖い。
けれど、逃げてはならない。
恐れるな。
想いゆえに揺れる心を必死に押さえつけている。
私室として宛がわれていた部屋の中央にあるソファーにクッションを抱いて座ったまま、は必死に自分と戦っていた。
そんなの様子をずっと伺っている人物が居る。
のお目付け役、沢木だ。
沢木は、が跡部を騙し続ける事に苦痛を感じ、苦しんでいる事に気付いていた。
当たり前だ。
あれほどあからさまに辛そうにしているのだから。
限界が近くなっていた事にも、とうに気付いていた。
もう、これ以上は替え玉の仕事は出来ない。
解ってはいたが、その事を夫妻に伝える事をしなかった。
夫妻の事だ。
それを知れば、彼女に大きな枷を強いて替え玉の仕事を続けさせるだろう。
苦しむを見ていて、これ以上彼女を苦しめるような事にはしたくなかったのだ。
犬も3日飼えば情がうつる。
は人間で犬ではないが同じ事。
共に暮らし始めて、もう二月。
梅雨の季節は過ぎ、今はもう夏だ。
その期間を共に暮らしてきたのだから、まだ幼さの抜けない少女に対する情が沢木の中に芽生えるのは当然の成り行きというものだろう。
このままにしてはおけないと、沢木なりに考え始めていた。
故に彼は行動を起こすことにしたのだ。
を苦しみから解放する為に……。
冷徹そうに見えて、実は沢木は情の篤い男であるようだ。
沢木は、の許へと近づいた。
「さん……」
本当の名でに声を描掛けると、彼女はじかれたように沢木の方へ視線を向ける。
「なん……ですか?」
ここ最近、沢木に本当の名で呼ばれることは殆どなかった。
だから余計に、は不安になってしまう。
真実を跡部に伝えると心に決心した事がばれてしまったのだろうか?
しかし、沢木の口から出てきたのは全く関係のない言葉。
「今からご夫妻の所へ出かけてきます」というもの。
「何か、用事ですか?」
ほっとして沢木に返事を返す。
「貴女がこの家から早く出られるように、ご夫妻と相談してまいります。もう、ここで暮らしてゆくのはお辛いでしょう?」
沢木の口からもたらされた言葉に、は驚いて瞳を見開いた。
「どうして……?」と、そんな言葉しかの口から出てこない。
沢木はそんなの傍らの床に膝を付く。
そして、の膝の上にあった彼女の手を優しく握って彼女の顔をうかがう。
「もう、貴女の心は限界にきているでしょう?景吾様を騙し続けるこの生活は苦痛でしょう? 貴女はとても真面目な優しい子だ。ずっと、良心の呵責に苦しんでいた事に気付かないほど私は鈍くはありません。辛い思いをさせてしまった事、私も心苦しく思っていました……」
じっとと視線をあわせて言葉を紡ぐ沢木。
はその言葉を黙って聞いていた。
「思えば、あの時、貴女をお嬢様と間違えてしまった私が全て悪いのです。貴女の存在をご夫妻が知らなければ、このような事をする事もなかったでしょう……。 全ては、私が悪いのです。そして、自分の身 可愛さに、貴女をお金で操ったご夫妻が悪いのです。貴女は…さんは何一つ悪くはありません……」
更に言葉を重ねる沢木。
しかし、は一生懸命頭を降り始めた。
「いいえ、沢木さんっ! 私だって、さん達の話に頷いちゃいけなかったっ!どんなに辛くても、自分の力でどうにかするべき事だったんです。なのに…なのに私、楽な道を選んでしまったんです……。私が悪いんです。実行してしまった、私が一番悪いんです」
そう言葉を紡いで居るうちに、の両の目には涙が浮かんでいた。
「そんな事…ありませんよ……。貴女は悪くないんです。 ……でも、このままでは堂々巡りになってしまいますから、今はここまでにしておきましょう。 それでは、私はご夫妻の所へ行ってまいりますね」
の頬に零れ落ちた涙をポケットから取り出したハンカチで拭いながら、沢木はそう言って立ち上がる。
「早いうちに、貴女がこの家から出てゆけるように話をつけます。絶対に、あなたを苦しみから解放してあげます。……罪滅ぼしになる筈もないでしょうけれど……。ですから、待っててくださいね」
沢木はそう言うと、を残して部屋から足早に去っていった。
はそんな沢木を、ただ呆然と見送るだけ。
程なくして、の耳に車のエンジン音が聞え、遠ざかってゆく……。
結局、沢木はその日、屋敷に戻ってくる事はなかった。
沢木のその行動は、皮肉にもの決心を固める事になってしまう。
騙されていた事実を知らないまま、が居なくなってしまった時、跡部はどうなってしまうのだろう。
本物の嬢はまだ見つかっていない筈。
彼女と入れ替われるならましだろうが、もしそうでなかったら?
適当な理由をつけて、ただ、彼の前から忽然と居なくなる事になってしまったら?
もしかしたら、婚約者に逃げられ捨てられたと、酷く心が傷ついてしまうかもしれない。
跡部から注がれる真摯な愛情は、彼の思いの強さだ。
そんな彼の心を踏みにじるような事など、には出来やしない。
出来る筈がない。
だって、跡部の事を愛しているのだから……。
そしては決心した。
もう、恐怖に心が揺らぐ事はない。
彼を傷つけない為にも、全てを話すと。
例え彼に嫌われたとしても、それは自業自得というものだ。
どんなに怒られ、怒鳴られ、詰られてもいい。
軽蔑されて冷たい視線を向けられても……。
どんな事をされても、は全てを享受する事に決めたのだった。
もう、心に迷いはない。
全てを彼に打ち明ける。
どんな事になっても、後悔はしない。
後悔をするはずがない。
全ては自分が選んだ事。
どんな事が起こっても、は全てを享受する。
どんな事が起こっても……。
それでが傷つく事になっても、それ以上に跡部が傷つくに違いない。
そう考えれば、自分が傷ついたってたいした傷じゃない。
自分が負う傷は、跡部を傷つけてしまった罪故のものだ。
負って当たり前の傷だ。
もう、恐れはしない。
跡部の為に……。
その日跡部は、いつものように夜遅くに帰宅した。
最近は仕事が立て込んでいるお陰で、帰宅時間が遅いのだ。
愛しい妻となる娘は、もうとっくに眠っているのだろう。
そう思って、いつものように帰宅したその足で愛しい彼女の寝室へ行き、寝顔を拝もうと思っていた。
けれど何故か、遅い時間にも拘らず、彼女は起きていた。
「あ、お帰りなさいっ!」
突然の跡部の訪問に、彼女は驚いたようではあったが、そんな言葉で跡部を出迎える。
「なんだ、お前…こんな時間まで起きてたのか?」
跡部も、やはり驚いていて、彼女に対してそんな問いを掛けた。
すると彼女は「うん…」と頷く。
彼女は俯きそうになったのだが、すぐに頭を上げて跡部を見据える。
そんな彼女の様子を見て、跡部は不安を覚えた。
彼女の瞳に、今までと違う何かを感じたのだ。
何かを決意しているような……そんな強い瞳の力を。
更に、遅い時間であるにも変わらず、何故か彼女は寝間着に着替えていない。
部屋着のまま。
そして、彼女は言う。
「話したいことがあるの……」と……。
彼女のいでたちと言葉が、跡部の不安を更に強くした。
「今日はもう遅い。話は明日にしねぇか?幸い、明日は久しぶりの休みだし、お前の話もゆっくり聞いてやれる」
話があると待ち構えていたに対して跡部はそんな言葉を返した。
けれど、は今、全てを話してしまいたかった。
一晩でも眠ってしまえば、固めた決意が崩れてしまうように思えたからだ。
あの恐怖に、再び陥ってしまうように思えたからだ。
それでは駄目だと、は思った。
「どうしても、今 話したいの。話さなきゃいけない事なの。話さなきゃ駄目なの」
はそう強く懇願するように跡部に向かって言葉を紡ぐ。
真実を話すと、は決めたのだ。
だから、その言葉に、強い思いを込めた。
どうしても今、話さなければいけない事。
そんな風に強く懇願されてしまうと、跡部はそれに頷かざるおえなくなる。
更に、彼女の目には強い意志と必死さもあった。
なにより、予感を感じたのだ。
これから彼女が話す事は、彼女の苦しむ理由だと。
自分の事が関わっている、彼女の心に隠された謎だと。
「俺は今から風呂の時間だ。だから、お前は俺の部屋で待ってろ。その位、待つ時間はあるだろ?」
跡部は彼女に向かってそんな言葉を投げかける。
すると彼女はコクリと頷いて「解った」と答えた。
そして、二人で跡部の私室へと向かことになった。
何時もならゆっくりと入浴する所をシャワーだけで全てを済ませた跡部。
洗濯したてのバスローブに身を包んで、髪をタオルドライ程度で終わらせて、バスルームから彼女の待つプライベートルームへと向かう。
シャワーを浴びている間も、今も、彼の中には不安の嵐が吹き荒れる。
彼女の決意した目に、予感を感じてしまったからだ。
決定的な、何かが起こるかもしれない…という予感が……。
そして、跡部はプライベートルームに据え付けられているソファーに一人座る彼女の元へ。
彼女の隣に座り、平常心を保ちながら言った。
「で…話したいことってのは、なんだ?」と。
すると彼女が、ごくりと喉を鳴らした。
跡部にも、それはすぐに解った。
そして、彼女は突然ソファーから立ち上がり、幾らか跡部との距離をあける。
更に彼女は跡部に向かって、深々と頭を下げた。
そんな彼女の行動の意図が跡部には解らない。
「…どうしたんだ、?なんで、俺に頭を下げる?」
跡部はそう彼女に向かって問いかける。
すると彼女は頭を上げる事無く「ごめんなさい」と言葉を紡ぐ。
「私は、さんじゃないの…」
頭を上げた彼女の口から放たれた言葉の意味を、跡部は理解が出来なかった。
「何を…言ってる…?お前は、だろ?」
赤の他人が、自分の目の前にいる筈がない。
家の一人娘として紹介されたのは彼女だ。
以前、跡部の実家であったパーティーに彼女を伴って出席した時、誰も彼女を偽物だとは言わなかったではないか。
彼女の顔を見知った人が、何人もいたが、誰も彼女を赤の他人だとは言わなかった。
跡部自身は、彼女に初めて出会うまで、顔を知らなかったけれど、彼の母親は写真で見知ってたと聞いている。
跡部の母ですら、彼女がであると言っていたのだ。
だから、彼女が赤の他人である筈がない。
そんなはずがない。
ただの冗談だと、彼女に言って欲しかった。
けれど彼女は、自分の発した言葉を冗談にすることはなかった。
「ただ、偶然……私はさんと瓜二つの容姿と背格好だったの。双子みたいに同じだって、さん達が言うくらいに……。でも、全く違うの。他人なの」
そう言葉を紡ぎながら、跡部に向けられている彼女の眼差しの強さが、それは真実だと伝えている。
「本当のさんは、今どこにいるのか解らないんだって。アナタとの結婚が決まってすぐ、姿をくらましたまま……見つからないんだって……。 私は、さんに雇われたの…。さんのフリをしてアナタと3ヶ月間過ごして欲しいって……。その間に、さんを見つけるつもりだったみたいで……。上手くいったら報酬を……お金をくれるって…そう言って……」
次から次に彼女の口から紡がれる衝撃的な言葉。
「そんなはず……、何かの…冗談だろ?…な、?」
どうしても信じられず、そう跡部は彼女に問いかける。
けれど、彼女は冗談ではないと首を横に振った。
「真実なの。すべて……本当なの。私は、さんじゃない。お金で雇われた、赤の他人……」
彼女は言葉を紡ぐ。
これは嘘偽りのない、真実なのだと……。
彼女の目を見れば、嘘をついているようにも思えない真剣な眼差しで。
勘の鋭い跡部は、その眼差しが嘘ではないと言う事を見破ってしまった。
話していることは全て事実。
彼女の告白は、全て……紛れもない………。
彼女の語る全てが事実であると、彼女自身に強く肯定された時、跡部の思考は真っ暗な闇へと落ちていった。
<あとがき>
すすすす、すんません、短くなるといいながら、編集編集で長くなっちゃいました;
沢木さんもなにやら行動しちゃってます。
けれど、ヒロインちゃん跡部に告っちゃいましたっ!
そして跡部が……;
あい、次の話は鬼畜で行きます。
当サイト初の鬼畜でございますよぉぉぉぉ〜〜ヽ(´Д`;≡;´Д`)丿
ここからが正念場(神威がね)
鬼畜ってうまくいくかなぁ…;
頑張ります!
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