意識が覚醒に向かう。
瞼を開けば、薄明るい部屋の見慣れない天蓋の天頂部。
首を動かして辺りをうかがえば、すぐ隣の目の前に眠る跡部の端正な顔。
彼は一糸纏わぬ姿で眠っていた。
しかしそれはとて同じ事で。
は、朦朧とした意識の中で、昨日の出来事を思い出した。
昨日、は跡部に抱かれたのだ。

それは、彼を騙してしまった、自分への罰……。
そしてせめてもの償い……。
の両の目に、涙が浮かんでくる。
けれど泣いている場合ではない。
その涙を堪えながら、は起き上がるべく体を動かした。
その途端に走る、腰と下腹部の痛み。
「っ…たぁ……」
思わずうめく
けれど、このままここに居るわけにはいかない。
彼が眠っている間に、ここから出てゆかなければ。
跡部が目を覚ませば、はここから追い出されてしまうに違いない。
ならばその前に出て行ってしまおう。
その方が、良いと思った。
きっと彼は、の顔を見ることすら、もう嫌になっているだろう。
金の為に人を騙そうとした、最低な女など……。
嫌な顔を見ていたくなどないはずだ。
はそう思ったのだ。

辛い体に鞭を打って、は起き上がろうとした。
するとその時、腰元に圧迫感。
なんだろうかと思ってそちらを見れば、それは跡部の腕だった。
彼の腕が、の腰元にまわっていたのだ。
はその手から逃れようと、ベッド脇へと這いずりながら移動する。
すると、跡部の腕に力が篭った。
まるで、を逃さないというかのように。
ぐいと、の体を跡部の腕で引寄せようとしている。
何故?と、は疑問に思ったが、そんな事を悠長に考えている場合ではなかった。
は、跡部の腕をそっと自分の腰元から引き剥がし、自由になった後に、再びベッド脇へと這いずってゆくのだった。

何時の間に脱がされてしまったのかは解らないが、の衣服はベッドすぐ傍の床に散らばっていた。
ベッド脇にたどり着いたは、辛い体を我慢してベッドから降りる。
足腰に力が入らず、床へへたり込んでしまったが、とりあえず衣服を身に付ける事に。
上下の下着とスカートは無傷だったけれど、ブラウスはそうではない。
彼に引き裂かれてしまっているのだから。
とはいえ、今 身につけられるのはそのブラウスしかないので、そのブラウスに袖を通して左手で前を隠すように閉じた。
そして再び、は体に鞭を打って動き始める。
どうにかこうにか立ち上がり、フラフラとした足取りでベッドルームのドアへ。
そのドアを開ける直前に、は跡部の眠るベッドを降り返る。
跡部はまだ、夢の世界に居るようだ。
この分なら、まだまだ彼は眠っているかもしれない。
ほっとしながら、はドアを開け、その隣にあるプライベートルームへと移動するのだった。

プライベートルームをよたよたと通り抜け、今度は廊下へ続くドアの前へと立つ。
と、その時だった。
ノックも無く、そのドアがゆっくりと開いたのだ。
驚きに固まる
彼女の目の前に現れたのは、昨日、家を出て行ったまま帰ってこなかった沢木であった。
「沢木さん……」
……さん……」
二人の声が重なる。
沢木も、まさかドアを開けたらが居るとは思わなかったようで、驚いた顔だ。
しかしすぐに我に戻り、彼女の姿を見て今度は悲しそうに顔をゆがめた。
引き裂かれたブラウス。
首筋から胸元にかけて散らばる無数の紅い痕。
彼女の身に何が起こったのか、一目瞭然だった。
「……さん、外へ……」
沢木は着ていたスーツのジャケットを脱ぎ、彼女の肩へ掛けてやりながら、彼女をそう促した。
は彼の言葉に従い、プライベートルームから外へ。
の足がおぼつかない事にも、沢木は即座に気付く。
沢木は、彼女の受けた仕打ちがどのようなものだったのかがうかがい知れた気がした。

「色々とお話したいのはやまやまなのですが、その前に、この屋敷から早く出なければ……」
どうやら沢木は、を跡部邸から連れ出すつもりで居るらしい。
はこくりと頷く。
「すみません、本当は、新しい服に着替えさせて差し上げたいのですが、時間がないのです。そのジャケットをちゃんと着たら、私の背中に……」
沢木はそういうと、に背を向けて身を屈める。
「……はい……」
沢木の言葉の通り、は沢木のスーツのジャケットを着込んで前のボタンを止めると、彼の背に身を預けた。
の体重が自分の背に乗ったことを確認した沢木は、そのまま彼女を背負って立ち上がる。
そして、沢木は足音を極力立てないように廊下を歩き始めた。

沢木は、を秘密裏に屋敷から連れ出したかったらしく、車を屋敷から離れた場所に置いていた。
車まで、は沢木に背負われたまま。
を背負った沢木は、使用人用の出入り口を使って、屋敷の外へ。
車のある場所まで急ぎ足で向かうのだった。

 

「……自分から、本当の事を……?」
走る車の中、車を運転しながら沢木はに問いかけてくる。
は、「はい…」と頷いた。
「何故そのような事を……。全て私に任せてくだされば、貴女は傷つかずに済んだ筈なのに……」
の姿を見れば、真実を知った跡部によって彼女がどんな仕打ちを受けたのかが解る。
沢木に全てを任せていれば…自分から真実など告げずに居たならば、こんなことにはならなかった筈なのにと……。
「これで…良かったんです。少しは、彼の心も晴れるだろうから……」
は言う。
その言葉で、沢木はがどんな思いで跡部の仕打ちを受け止めたのかを悟った。
「……申し訳…ございません……。昨日の内に、あなたを連れ出せていれば……。ご夫妻の所で騒ぎに巻き込まれてしまって貴女を迎えに行くのが遅くなってしまって……。いえ、そもそも…、私が貴女をお嬢様と間違わなければ……。ご夫妻に、貴女の存在を知らせなければ……、こんな事には……」
詫びても、後悔しても、どうしようもない事だと、沢木にも解っている。けれど、言わずにはいられない。
「いいんです…沢木さん……、私は、大丈夫ですから……」
もう、謝らないで下さいと、は言った。
お金の為に夫妻の言葉に頷いたのは、まぎれもなく自分自身でもある。
沢木だけが悪い訳ではないのだと。
彼女のそんな言葉を聞いても、沢木は申し訳ない気持ちで心がどうしようもなく痛んだ。

「そういえば……、さんの所で騒ぎって…なんだったんですか?」
まるで話をそらすかのように、が突然そんな事を口にした。
いや、は話をそらしたのだ。
これ以上は、話していても答えの出ない押し問答だと思ったから…。
そんなの意図に、沢木はすぐさま気付いた。
それが彼女の気配りである事も。
沢木は彼女の意図を汲み、邸で起こった事を話し始めた。

 

を替え玉より解放するべく、夫妻と話をしようと彼らの屋敷へと向かった沢木が邸に到着した時、邸は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
あたふたとしている顔見知りの使用人を捕まえて話を聞けば、夫妻が使用人たちを全て解雇したのだという。
話に驚いて、沢木は夫妻の元へと急いだ。
そして、夫妻と面会し、何故このような事態に陥ったかを知った。

石油油田を手に入れる前、夫妻は不正な取引に手を染めていたらしい。
不正な取引で得た金で、石油油田を手に入れたと言う事らしいのだ。
その事が、跡部家に知られてしまったらしい所まで事態が進んでいるらしい。
随分と過去の事であるが故、もう時効になってしまった事ではあるらしいが、そうなれば騒ぎになるのは間違いなく。
まだ、娘のの行方はわからぬままだというのに、夫妻はその騒ぎが収まるまで姿を消すのだと言った。
もちろん、跡部の御曹司である跡部景吾との婚約も、破棄。
もお役ご免となったのだ。
沢木はすぐさま、を跡部邸から連れ出そうと考えたのだが、夫妻が姿を隠すのに助力しろと命じられ、仕方なくそちらに従った。
故に、彼は明け方まで跡部邸へ帰ってくる事が出来なかったのだ。
沢木が、をこっそりと跡部邸から連れ出そうと考えたのは、夫妻の失踪と共に、娘のも失踪…というシナリオであれば、誰もの替え玉だったと気付かずに済むと思ったから。
結局、が真実を告げていた為に、その思惑通りにはいかなかったけれど……。

「大変だったんですね…」
沢木の話を一通り聞いたは、そう小さく呟いた。
「ええ…まぁ……」
沢木は少し曖昧に言葉を返す。
一番大変だったのは、のほうだろうにと、そう思ったからだ。
「貴女をお家まで送った後は、ご夫妻と共に潜伏生活ですから、何かあったら連絡を…とは言えません。 本当は、貴女に償いをしなければいけないのに……」
沢木は更にそう言葉を重ねた。
けれどは、頭を振るってこう答える。
「沢木さんのお気持ちだけで、十分です。私の事は気にしないでください」と……。
しかしそれでは、沢木の気持ちが収まらない。
「いいえ。騒ぎが収まったら、貴女に会いに行きます。必ず、貴女に償いをします……」
沢木は力強く言葉を紡ぐ。
そんな沢木の想いを、は受け取っていた。
だからは「はい…」と頷く事にしたのだ。

そして、沢木につれられては、再びあの半地下のアパートへと戻ってゆくのだった。

 

 

 

 

 

が跡部邸を出て行って、半刻ほどが経った頃まで、時間を遡る事にする。
 

腕にあったはずの温もりがないことに気付き、跡部ははっとなって瞼を開く。
目の前にあるのは、真っ白なシーツの波。
跡部は慌てて半身を起こし、辺りを見回す。
けれども、昨晩抱いて眠った筈の少女の姿はどこにもなかった。
まさか、あれは夢だったのか?
そんな考えがよぎり、跡部はベッドのシーツを捲って昨晩の痕跡を探す。
痕跡は、やはりあった。
大量ではないけれど、シーツにある赤黒いシミ。
彼女の破瓜によって生じた出血の痕。
昨晩の事が、夢ではない証拠であった。

では、一体どこへ行ってしまったのだ?
そう思いながら、跡部はベッドから降り、床に散らばる昨晩自分が着ていたバスローブと下着を回収して身につける。
そして、隣のプライベートルームへと向かう。
プライベートルームには、清音が居た。
跡部の起床を促しに来たのだろう。
「おはようございます、景吾様。ゆっくりとお休みになられましたでしょうか?」
しかし、跡部はそんな清音の言葉を無視してその隣を通り過ぎる。
そんな彼の様子のおかしさに、清音は「景吾様…?」と怪訝な顔で視線を向けたが、跡部は気にすることも無くプライベートルームから出て行ってしまった。

プライベートルームから出た跡部は、迷う事無く彼女の私室として使われていた部屋へと足を向けた。
走るに近い足取りで、急ぎ足で。
そして到着したその部屋のドアを乱暴に開く。
けれど、目の前の空間はしんと静まり返り、人の居る気配を全くさせていなかった。
灯りも灯っておらず、カーテンも開かれていない。
跡部は部屋の中を少女を探す。
隣のベッドルームにも、人の気配はなく、バスルームもクローゼットルームにも誰もいない。
彼女は、部屋のどこにも居ないのだ。
この時点で、跡部は彼女がこの屋敷を出て行ってしまったことに、気付いてしまった。
彼女は、跡部に何も言わずに出てってしまった。
彼が眠っている間に……。

「…景吾様…どう、されたんですの?」
様子のおかしい跡部に付いてきたのだろう。
清音が跡部に問いかける。
「警備会社に連絡して、今朝方に出入りした人間が居ないか、居るなら誰なのかを調べろ」
跡部は、清音の問いに全く答える事無く、そんな言葉を返す。
跡部邸の警備は、全て警備会社によって一任されている。
もちろん、その警備会社の中でも一番のセキュリティを導入し、屋敷には物取り一人侵入することは難しい。
入り口という入り口には監視カメラが取り付けられており、誰かが出入りすればそのカメラで一目瞭然、という訳なのだ。
突然の事に戸惑う清音に、跡部はさっさとしろと叱咤して、自分の指示に従わせる。
訳の解らないままの清音ではあったが、主人の愛する少女に何事かがあったのだという事だけは理解できたようで、彼の指示通りに動く事にした。

清音が、警備会社に連絡を取り合っている間に、跡部は私室でバスローブ姿から私服へと着替えた。
そうしている間に、清音は警備会社との連絡を終わらせて彼の居る私室へと戻ってくる。
そして、清音の口から、やはり…と思える事が伝えられた。

沢木が朝方に、彼女を連れ出していたと言う事を……。
何の理由で、彼が昨日から一晩中 跡部邸にいなかったのかは解らないが、戻ってきた彼が、彼女を連れ出したことは事実で。
「すぐに車を用意しろ」
跡部は清音にそう指示を出す。
「景吾様、これは一体どういう事なのですか?様になにが……?」
おかしなこの状況を理解しようと試みた清音が、跡部にそんな問いを掛けてくる。
清音は、彼女がの替え玉であった事をまだ知らない。
故に彼女をと呼んだのだ。
しかし、今はその事を話している暇はない。
「詳しい話はアイツを連れ戻した後に話す」
跡部に、そんな言葉の切り返しをされてしまえば、清音は黙ってわかりましたというしかなくなるのだった。

邸へ向かうと、跡部は用意された車に乗って屋敷から出かけてゆく。
清音は、そんな跡部をただ見送るしか出来なかった。

夫妻なら、彼女の身元を知っている筈だ。
だから、跡部は邸へと向ったのだ。
夫妻から彼女の居場所を聞き出して突き止めてやる。
なんなら、あの夫妻と取引をして、彼女をの位置に摩り替えてしまってもいい。
彼女の立場がどうであろうと、跡部には全く関係ない。
彼女という存在が、隣にあればそれでいいのだから。
誰よりも愛しい彼の少女さえ手に入れば……。

 

跡部が到着した時、邸はしんと静まりかえり、人の気配が一つもなかった。
まるで、引越しして誰も居なくなってしまったかのように。
屋敷の門は錠で硬く閉ざされ、何人も出入りが出来ないようにされていた。
玄関のベルを鳴らしても、誰も反応をしない。
全く、家に誰も居ない状態なのだ。
居留守なのだろうかとも考えたが、だからと言ってどこからか忍び込めば、不法侵入、犯罪者になってしまう。
跡部は数度玄関のベルを鳴らしてみたが、結局 何の反応も無く。
行き詰ってしまった状況に跡部は、らしくもなく途方に暮れたのだった。









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<あとがき>
はい、前途多難な二人の恋。
想いは同じなれど……。
……可哀想だね;
更に言うと、話がね、長くなりそうなんですよね…。
キリ良く終わらせたかったけど、ムリポ……(ノ_<。)

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