それからの時間は、あっという間だった。

は昼も夜も働いている。
替え玉をやっている間は、仕事など出来よう筈もない。
昼間の仕事は、派遣の仕事であるので仕事を入れてもらわないよう頼むだけでいいだろうが、夜の仕事は辞めるしかないだろうと、は考えた。
は夜の仕事先を、昼間の仕事の派遣先が遠方になるので、と嘘の理由で仕事を辞めようとする。
すると仕事先である居酒屋の大将に、その派遣期間が終わり、また夜も働けるようになったら戻ってきてほしいと言われた。
それまで、長期の休みという形にしておくからと、そう優しく言われれば、は「はい」としかいう言葉しかないだろう。

そして、仕事の問題を片付け終えれば、今度はお嬢様らしい立ち居振る舞いについてを 家で学ばなければならなかった。
テーブルマナーだのといったものなのだが、それについてはは全く問題がない。
両親が亡くなった後、引き取られた先の叔母夫婦に叩き込まれていたからだ。それは、叔母夫婦の世間体を良く見せるために叩き込まれた事ではあったのだけれど。
こんな時に役に立つのだから、世の中とはどんな事が起こるかわからないものだなと は心中で思った。

そして、同棲初日、の婚約者 跡部景吾との対面の日……。

その日は、生憎の雨模様。
梅雨明けまではまだ遠いのか。
昼下がり、雨にぬれる高級住宅街の家々を走る車の窓から眺めやりながら、はまだ降り止まない雨の行く末を思った。

「間もなく、跡部景吾様の邸宅へと到着します。心の準備をなさってください。くれぐれも、替え玉である事を悟られないように」
車を運転する男の言葉に、は「はい」とだけ返答。
この男の名は、沢木基之。
家に仕えている使用人らしい。
何時頃から、使え始めているのかは定かではないのだけれど……。
この、沢木と言う男も、一緒に跡部の家に住むらしい。
の身の回りの世話役というのが、表の仕事。
しかし、実際はがボロを出さないか、またはその時のフォローをする為にいる、いわばお目付け役というものだ。
「屋敷の中に、一歩でも入れば、貴方はさんではなく、お嬢様となるのです。しっかりと、役目を果たしてくださいね」
さらに沢木にそう言われ、は「わかりました」と小さく答えた。

の心中は酷く不安で仕方がなかった。
本当にうまくいくのか。
うまくいったとして、どんな生活をする事になるのか。
見当もつかないことだらけで、不安で不安で。
しかし、愛する妹 の為に、自分はやり遂げなければならない。
やるしかない。
妹の為に。
にとって、たった一人の家族の
失いたくないのだ。
どんな事をしても、自分は妹のを守らなければならない。
不安はある。
しかし、どんなに不安でも、遣り通すしかない。
遣り通すしかないのだ。
はそう考え直すと、深く息を吸い込んで、更に強く吐き出す。
そうやって、心の奥底の不安を吐き出してしまうかのように………。

その屋敷は、とても大きな邸宅だった。
跡部財閥の御曹司、跡部景吾とその妻 の二人で住まう為に作られた屋敷であると、は沢木から聞かされていた。
それにしたって大きすぎはしないかと、は思う。
家の邸宅に何度か招かれていたので、ある程度の豪華で大きな屋敷に耐性は出来ていたつもりの だったが、この屋敷の大きさには面食らってしまった。
でも、跡部の本家の邸宅はこれの二倍はあるらしい。
あっけにとられていた の隣で、沢木がこっそりと教えてくれた。

庶民の感覚とはかけ離れた世界である事が、屋敷を見ただけで実感できてしまう。
しかし、ここまで来てしまった以上、後に引けない状況で。
は腹をくくるしかなかった。

雨の中、傘を差して車から玄関へ…行くのが普通なのだが、それはなかった。
車は、玄関先に横付けされ、しかも、玄関先には雨避けになる屋根までついているのだ。
すこしだけ、車と屋根の間に隙間があったけれど、それすら、何時から待機していたのか、この屋敷の使用人らしい女性に傘を差しかけられたおかげで、体が雨に濡れる事が全くなかった。
そして、玄関先に降り立ったとたんに、傘を差しかけてくれた女性もそうだが、それ以外の使用人らしい人々から、恭しく頭を下げられ、「ようこそおいでくださいました、 様」と挨拶される。
その状況に、面食らわない訳がない。
だが、すぐに立ち直り、「今日から、よろしくお願いします」と、そんな彼等に の頭を下げた。

その後、車を車庫に入れ終えた沢木と合流し、この屋敷の主である跡部景吾と対面となる。
大昔は、結婚式のその日に結婚相手と顔をあわせる事が多かったというが、今の時代にそんな目にあう人間などそうそういないだろう。
それを考えると、結婚を嫌がり姿を消したに同情を感じるだった。
それにしても、彼はどんな顔をした人物なのだろうか。
写真もなにも見せてもらってはいない。
とはいえ、どんな顔をしていても、相手はのではなくの夫になる男だ。
には関係ない。
夫妻に言われたとおり、3ヶ月の間、の振りをしてご機嫌伺いさえしてれば良いんだ。
は相手の容姿にめぐらせていた思案を、そう思うことで中断させた。

そして、屋敷の使用人の女性に案内され、彼が居るらしいリビングへと到着する。

リビングのドアをノックする、使用人の女性。
「景吾様、様をお連れいたしました」
女性がそういうと、「どうぞお入りください」という別の女性の声が聞えた。
返事を返したのは、この屋敷の主である跡部景吾ではないらしい。
しかし、達をつれて来た女性はそんな事など気にする事もなく、ドアを開け「失礼いたします」と言った。

「どうぞ」と促され、はリビングの中へと足を進める。
部屋に入る時に「失礼します」と言う言葉を忘れずに。
リビングの中にも、何人かの使用人が控えていて、先ほど返事を返したのはその中の一人なのであろうと予測がついた。
中央には、見るからに高級そうなコーヒーテーブルと、それを取り囲むやはり高級そうな革張りのソファーが据え付けられている。
それにしても、無駄に広いリビングだなとは思った。

リビング中央にあるソファーの一つ。
一人掛け用のソファーに、どっかりと腰を落ち着けている人物に、の視線が行き当たる。
色素の薄い髪の毛、更に瞳まで色素が薄いらしく、青色だ。
異国人の血でも混ざっているのだろうか。
は漠然と考えた。
美青年という言葉が、の脳裏を掠める。
事実、目の前の男の顔貌は整っていて美しい。
しかもオプションとばかりに、右目の下に泣きボクロまである。
悔しいほどに演出された美しさには、も思わず見惚れてしまった。
この男こそ、の夫になる男。
跡部財閥の跡取り、跡部景吾。

お嬢様、ご挨拶を…」と、後ろから沢木に言われなければ、はそのまま見惚れて動けなかっただろう。
はっと意識を取り戻したは、慌てて言葉を紡ぐ。
「お初にお目にかかります、景吾様。と申します。不束者ではありますが、どうぞよろしくお願いいたします」
その言葉は、沢木によって演出された、対面の時の台詞で。
何度も何度も練習していたので、はすんなりとその言葉を紡ぐ事が出来た。
すると、跡部景吾がの顔を見る。
酷く無機質な視線。
そして、口を開く。

「俺の隣を飾るには、妥当な所か。せいぜい社交界では愛想笑いを振りまいて、良妻を振舞う事だな」
彼の第一声は、そんな酷く冷たいもので。
その言葉を聞いたの脳裏で、カチンという音がする。
「どうせお前に出来るのは俺の隣を飾る事と子供を産む事だけ…。その為の人形である事をしっかり頭の中に叩き込んで忘れるな」
跡部の放った言葉に、は腸が煮えくり返るようだった。
彼ととの結婚が、政略結婚である事は承知していたが……。
妻を人形とは、なんたる言葉だ。
「ふざけないで」と、気が付けばは口を開いていた。
相変わらず、ソファーにふんぞり返っている跡部をは強くねめつける。
跡部が、眉をピクリと動かしたのが見えた。
「アンタの目はガラス玉?目の前にいるのが、人形に見えるの?子供を産める人形が居るとでも?」
抑揚を抑えていながら、それでも怒りに満ち満ちた台詞が、の口から吐き出される。
お嬢様…」と後ろで沢木が抑制するように言うが、完全に無視しては言葉の先を紡ぐ。
「私は人間よ!息だってしてる、心臓だって動いてる、心だってある!人形のように、唯一つの感情だけを表してるだけじゃない。泣いたり笑ったり、感情がちゃんとある、人間なのよ!人形じゃないわ!」
全ての言葉を吐き終えて、 は大きく肩で息をしながら、それでも跡部を睨んだ。

するとどうだろう。
跡部の口元が緩む。
そして軽く顔を伏せ、その顔を掌で覆う。
更に、聞えてくるのはくつくつと喉を鳴らすような笑い声。
一体何が可笑しかったのか。
には皆目見当も付かない。
生意気だと怒られるならまだしも、笑われるなど想定外だ。
は思わず拍子抜けして、今度は睨むのではなく戸惑いの視線を跡部に向ける。
ひとしきり笑って、笑いが収まると、跡部は視線をに戻した。
しかし、顔は笑ったままだ。
だから余計には困惑する。
「人形って言葉は、撤回してやるよ。確かに、お前は人間だ」
笑みを浮かべながらそんな事を言う跡部。
は更に拍子抜けしてしまう。
きょとんとした顔をしているを見て、跡部は「なんだ、人形の方が良いのか?」とそう問いかける。
は慌てて首を横に振り否定。
その仕種を見て、跡部はまたクスクスと笑う。
そんな跡部を見て、は酷く戸惑うのだった。

そして、 を世話係だという男、沢木と共にリビングから下がらせ、使用人のひとりに私室へと案内させるてやれば、リビングに残るのは数人の使用人と跡部だけ。
「景吾坊ちゃま好みの、可愛らしいお嬢様ですわね」と、使用人の中で一番年配らしい女が言った。
「坊ちゃまはやめろ、清音」と、跡部はその女を睨む。
清音と呼ばれた女はそれでも怯まず、「失礼しました」と言って微笑む。
跡部は小さくため息をついたが、それ以上は清音を詰る事はしなかった。
この、清音という女性は跡部が幼い頃から付いている、いわば養育係のような存在。
家に不在がちな両親に成り代わり、彼の躾、教養一切を取り仕切っていた。
教育を終えた今では、跡部の身の回りの世話をする使用人達の長として存在している。
「これから先、どの様なご結婚生活になるでしょうか……、楽しみでいらっしゃいますでしょう?」
清音に言われ、跡部はフッと口の端を上げて笑む。
「……退屈はしなさそうだ……」と、そう言葉を紡いで。

正直、跡部は親に無理やり決められた結婚相手に不満があった。

不満だったが、進んでしまった結婚話を今更なかったことになどできないのが現状なのだ。
ならば、感情全てを一切抜きにして妻となる女と接すればいいと、そう考えた。
社交界では自分の隣で愛想笑いを振りまかせ、跡取りとして必要になる子を産ませるだけの、人形のような存在として扱ってしまおうと。
故に、彼女に対して放った第一声があれだったのだ。
彼女自身に、人形としての立場である事を解らせてやりたかった。
もしかしたら、未来の跡部会長夫人になれる事を鼻にかけているかもしれない。
そんな鼻っ柱も叩き折っておきたかったのだ。

しかし、彼女の反応は予想外で。
跡部としては、萎縮して「はい」と言うか、傷ついたような顔をして俯いてしまうか…そんな反応を考えていたのだが、そうではなかった。
強い眼差しで跡部を睨み、自分は人間だと言い放った。
気の強い、特に勝気な女性は跡部の最も好む女性のタイプ。
跡部の妻となる、という娘は、そのタイプに当てはまるようだ。
彼女の前でくつくつと笑いながら、跡部は彼女へ酷く興味を惹かれてゆくのを感じていた。
清音にこれから先が楽しみだろう?と問われた時、退屈はしなさそうだと答えたが、退屈どころか、毎日が楽しくなりそうだと、跡部は思った。

これから先どんな事が起こるのか。
それは神のみぞ知る事。
跡部も、そしても、この出会いが自身の運命を変えてしまう事に、まだ気付いてはいなかった。









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<コメント>
跡部がやっと来た。
あーあーあー。
まぁ、話に無理があるのは最初っからだから、どうしようもないね(エヘ)
もうちょっと作りこんでから文章にすればよかったと、今更後悔。
まぁ、百流小説家の書く小説なんてこんなもんよね。
多分私、こういう恋愛系より心霊ファンタジー系の話書く方が向いてるのかもしれない…。
最初に亀更新って言ったけど、ごめんなさい、ネタが暖かいうちにかいとかないと忘れちゃうんで…。

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