次の日の朝は、どんより曇り空。
まだまだ青空まで遠いのかもしれない。。
天蓋つきの程好くスプリングの効いたベッドで、柔らかくふかふかの布団に包まれて眠ったは、熟睡中の熟睡で、沢木に起こされるまで眼を覚まさなかった。
「おはようございます、お嬢様」と沢木がにこやかに朝の挨拶をする。
時間は、7時をを過ぎた頃。
少し前までは、この時間に眼を覚ましたら大慌て、仕事に大遅刻だったというのに、今はそれがない。
3ヵ月後、元の生活に戻る事を考えると、このような生活は流石にだらけてしまいそうだと思うので、明日からは以前と同じ時間に起きるようにしようか。
そんな事を考えながら、は「おはようございます、沢木さん」と沢木に頭を下げる。
「さぁ、身支度を整えてください、朝食の準備ももうすぐ整います。昨日の様に、我侭は仰らないで下さいね」
昨日…と言われて、は表情を引き攣らせた。
無理もない。
散々な一日だったのだから。
先ずは、昼間。
うっかりベッドで寝入ってしまったら、跡部景吾にセクハラを受けた上にファーストキスを奪われた。
ショックではトイレに篭り、1時間以上泣き続ける羽目に。
更に夜。
昼間の事で頭に来ていたので、一緒に食事をしたくないと言ったら食事抜きにされて、空腹のどん底に叩き落された。
それだけなら、まだましだったかもしれない。
しかし、何を考えたのか、跡部はに食事を与えてくれる。
案外意地悪な人じゃないのかもしれないとが気を許した途端、不意打ちで口の端を彼にぺろりと舌先で舐められた。
再びはトイレに篭って、今度は2時間以上泣き続ける事に。
は思う。
自分に食事を持ってきてくれたのは、確実に彼がをいじめる為の物であったと。
とはいえ、……が泣きやんだあと……沢木に、もう一度自分の立場がどんな物であるのか、と言うのを説かれた事もあり、昨日のように自分を露にする事はしないようにしようと、心に誓って就寝した。
つもりだったが、思い出すだけでも腹が立つ。
の中で、跡部の印象が、セクハラ魔でスケベでヘンタイ男でサディストというものに固まってきている。
いや、だが、我慢しなければ。
3ヶ月、我慢していればあの男から解放されるのだし、大金も手に入って腕のいい医者まで紹介してもらえるのだ。
妹ののために。
嫌だけど……。
それはそれは嫌だけれど……。
嫌だけれど!!!!!
「……さん、私情は控えて下さい。これは貴方のお仕事なのですから」
の顔色で、考えている事がわかったのだろう。
沢木がに近づき、小さな声で言った。
「はい…」とはシュンと肩を落としたが、すぐに頭を切り替え、ベッドから降りることに。
ベッドルームの隣にあるプライベートルームを抜けなければ、洗面所のあるバスルームには行けない。
はベッドルームの扉を開けた。
「よぉ」
すぐ閉めた。
……今、なんか居た……?
「……お嬢様、何をやってらっしゃるんですか?」
丁度、沢木もの後ろに立っていたので、ドアの向こうにい何が居たのか、当然気付いている。
「……い…いま…向こうに……」
顔面蒼白になって頭だけを沢木に向けて言葉を紡ぐ。
「……お仕事ですよ。我慢してください」と、沢木に小さな声でせっつかれて、は小さくため息を吐く。
そして、意を決してドアを開けようと……したら、勝手にドアが開いた。
ごちん
「ぎゃふん」
という、軽快で小気味良い音との間抜けな声が、その場にいた皆の耳に聞えた。
勢いよく開いたドアの角が、の額…ちょっぴり右側だったので、鼻に当たって鼻血ブーは免れた…に激突したのだ。
ドアノブに手を掛けようと、ちょっと俯き加減だったので額にだけにクリーンヒット。
目の前火花散った……。
痛みのあまり、ドアの角とぶつかった額を押さえてしゃがみ込む。
流石の彼もそんな彼女の様子を見て一言。
「わりぃ……」
そして、突然の展開に驚いていた沢木も我に戻り、「大丈夫ですか?!」との傍にしゃがみ込んだ。
詳しく、今起こった事の一連について説明しよう。
先ず、プライベートルームを通らなければいけないバスルームへ向かう為、がベッドルームとプライベートルームを繋ぐドアを開いた。
すると目の前には、綺麗にアイロンを掛けられた紺のスラックスと、やはり綺麗にアイロンを掛けられ糊の効いたワイシャツを、多少ラフではあるが着込んでいる跡部の姿が。
驚いたは、一瞬それを見なかった事にして、ドアを閉めたのだ。
のその行動に腹を立てた跡部は、そのドアに近づきドアを開け……。
その瞬間、ドアの目の前に経っていたのおでこ…ちょっと右寄り…にドアの角がクリーンヒットしたのだった。
ああもう、朝から散々だ。
昨日も散々だったのに、今日も散々だ。
怒りにのあまり、ムッツリとした顔で、はプライベートルーム中央のソファーに座っている。
沢木が持ってきてくれた濡れタオルを、たんこぶの出来てしまった額に当てながら……。
「…大丈夫か?」との隣に何故か当然のごとく座っている跡部が遠慮がちに問うてくる。
どうやら、本当に悪いとは思っているようだ。
は返事も返さず無視。
沢木としては、大丈夫です、の一言ぐらい言って欲しいのだが……。
お怒りモードのには、そのような殊勝な真似は出来ないらしい。
「大丈夫ですよ、景吾様。傷らしい傷は瘤くらいですから、冷やしていればすぐに治ります」
沢木はそう言葉を紡ぎながら、フォローに回る。
「…そうかよ」と、跡部は少々憮然とした様子で、沢木に言葉を返す。
相変わらず、はぶすくれて跡部からそっぽを向いている。
「悪かったって謝ってんだろ、いい加減に機嫌直せよな」
相変わらず、態度を変えないに痺れを切らし、跡部はそう言いながら彼女の傷を冷やしている方の腕を掴む。
「やだ、触んないで!」
は腕を掴んだ跡部の手を振り解こうと抵抗。
すると、跡部の機嫌メーターが急降下。
怒りメーターが急上昇。
……26の大人が堪え性なさ過ぎやしないだろうか……。
「この俺様が悪かったって、謝ってやってるってのに、何だその態度は!」
不機嫌を顕にして跡部はそう言いはなった。
「お、俺様ぁ?いい年して、何子供じみた一人称つかってんのよ、馬鹿じゃないの? それに、『謝ってやってる』って何よ?謝るってのは悪いと思ってるからするもんでしょ?『やってる』って言葉が付くんなら、悪いなんて思ってない証拠だわ!」
一方のもそんな台詞で応戦。
「俺様がどんな一人称使おうが俺様の勝手だ!つーか、元はといえば、お前の態度が悪いからそうなったんだろうが!」
「朝っぱらから、行き成りあんたの顔見せられたら、見なかった事にしたくなるのは当然でしょう!?」
「アーン?!この俺様の美しい顔を見なかった事にだと?!」
「最悪、ナルシスト!自分の事を自分で美しいなんて普通言わないわよ!」
「事実だから言ってるだけだ。てめぇだって、俺と最初顔をつき合わせた時に見とれてたくせによ!」
「……あ、あれは……。でも、性格が悪いから、顔が良くても台無しよ!」
「認めたな?俺様の美貌を!」
「うるさいな!だから、顔が美人でも、性格ブスなら意味がないって言ってるでしょ?!」
「俺様は性格だって美しいんだよ!」
「嘘吐かないでよね!昨日の事といい、態度が悪すぎるのよ!」
「あぁ?!態度が悪いのはお前だろ!目上の、しかも夫に対して使う言葉遣いしてねぇクセに!」
「アンタみたいなクソ男に使う敬語はないわ!」
「クソ男だとぉ!」
そんな、内容が一転二転どころか、四転五転してゆく……大人気ない……口論を繰り広げると跡部。
二人の様子を、おろおろと見守るしかない沢木。
ヒートアップした二人の頭をどう冷まさせてやればよいのやら……。
悩んでいる所に、コンコンというドアをノックする音と、そのすぐ後にドアが開いて「失礼します」と壮年の女性が入ってくる。
跡部専属の使用人、清音だ。
「……また、坊ちゃまが何かやらかしたんですか?」
喧々囂々の言い合いを繰り広げると跡部の姿を見た清音が、ため息と共にそんな一言を漏らす。
「坊ちゃまと呼ぶんじゃねぇ、清音!」と、との言い合いの合間に、清音へのツッコミを入れる跡部。
清音はそんな言葉を簡単にスルー。
「とりあえず、事態を収拾しましょうか」
と跡部の子供じみた言い合いはまだまだ続くだろうと予測した…今の二人の状況を見れば誰だって解る…清音は、そう言うと何故かバスルームへ。
そして、バケツを持って――バスルームの一角に、掃除用具が入っていて、その中の一つ――再び戻ってくる清音。
「あの…、ちょっと…それは……まさか……」
清音の持つバケツには水がなみなみと注がれている。
彼女の意図を察した沢木が「それは流石に不味いですよ」と止めようとするのだが……。
「お掃除は私がしますわ。ご安心くださいませ」と、清音はそう言いはなってずかずかと、まだまだ言い合いが終わらない…も跡部も、息を切らし始めている…二人のもとへ。
ソファーの背もたれ側から、勢いよくバケツの水が振りまかれる。
跡部、の順で水をぶっ掛ける清音。
―――一番最初に水を掛けられた跡部の方が、掛かる水は多かった―――
「うわっ」
「きゃっ」
水を掛けられた順番に、悲鳴を上げると跡部。
そして、自分たちにそんな災難を振りまいた女性の方を見やる。
「清音…てめぇ……」
びしょ濡れにされて、跡部が怒りのあまり低い声で唸った。
「あら……まだ、頭冷えませんの?なら、もう一杯」
跡部の怒りなど何のその、清音はしれっとそう言うとくるりと踵を返して、バスルームの方を向く。
「いや、まて。冷えた。冷えたから、もうやめろ」
清音という女性は有言実行タイプ。
それをよく知っている跡部は、清音の言葉がハッタリでないことをよく解っていた。
なので跡部は慌てて言葉を紡ぐ。
「そうですか」と、清音は足を止めて振り返った。
そして更に言葉を重ねる。
「でしたら、景吾坊ちゃま、お支度なさってご出勤なさいませ。もう、ご朝食をとるお時間などはありませんわよ」
「お前が水をぶっ掛けなきゃ、十分飯食えたけどな」
清音の言葉に、即行にツッコミを入れる跡部。
しかし全く動じていない、清音。
びしょ濡れになってしまった跡部。
一旦 軽く髪を洗わなければならない。
そして、それを乾かしてセットして…とすると、朝食を取る暇がなくなる。
跡部も清音も、それを見越しての言葉だった。
「文句はご帰宅なさってからお聞きします。早くお支度くださいませ」
そうぴしゃりと清音に言われ、跡部はやれやれとため息。
そして、先ほどから一言も喋らなくなったを見やる。
は、突然の事に呆然となっていた。
「おい」と跡部はに声をかける。
それでも我に返ったらしい。
はっとなって、反射的に跡部の顔を見る。
ふと、跡部はそんなの姿を見て気付く。
そしてその言葉を口にする。
「……ブラ透けてんぞ」
跡部に言われて、は慌てて両腕で胸元を隠した。
そして、跡部は身支度を整える為に自室へと戻る。
濡れたワイシャツが体に纏わりついていて気持ち悪い。
「……ったく…、何も水ぶっ掛けなくてもいいだろうが…」とブツブツと悪態を吐きながら、廊下を歩く跡部。
その後ろには、全く何も気にしていない清音がついてきている。
「それにしても…だ……」と、ふと跡部は気が付いたように言葉を漏らす。
「それにしても…なんですか?」と、清音が跡部に問う。
「寝るときもブラしてんのは、反則だろ」
「論点がおかしすぎます、坊ちゃま」
跡部の漏らした一言に、清音は即座に突っ込みを入れた。
一方、部屋に取り残された…というか、もともとこの部屋は――の私室なので、居るのは当たり前だが…、と沢木。
「シャワーを浴びますか?」と沢木に問われ頷く。
そして一言。
「清音さんって……、絶対逆らったら怖い人ですよね……」
すると沢木も……。
「敵に回したくないのは景吾様よりあの方ですね」
そう言って小さく身震いをした。
………ところで、額の瘤はどうなったのか?
その後、数日で腫れも全て引き、跡が残るような事はなかった。
<あとがき>
………orz<土下座
清音さんが…凄いです。
やる事も凄い。
跡部の事を知り尽くしているので、あしらいがうまいのです。
そして跡部……やっぱセクハラ。
しかも、子供っぽすぎ。
本当に26なのか?ってくらい子供っぽくなってきましたよ。
いいんですよ、26歳っても、結構若いんですよ。
感覚的に、若いんですよ。
何より、男は幾つになっても子供なんですよ(まだ言うか)
ヒロイン……、清音さんのインパクトが強くて、印象が弱い……。
沢木さんも同じくですね。
存在が薄かった……。
この先、ヒロイン、跡部、沢木、清音が中心になると思うんですが、下手をすると沢木が存在なくなるかも…w
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