「クイック・クイック・スロウ。ほら、腕が下がってますよ!」
「は…、はいっ!」
「足元は見ない!背筋を伸ばして!」
「はいぃぃっ!」
一体、何をしているのかというと……。
社交ダンスの猛特訓である。
そう、は社交ダンスのレッスンに勤しんでいた。
練習を始めて、もう、4日目。
厳しいコーチの叱咤激励にめげもせず頑張っている。

事の始まりは、子供染みた口喧嘩を跡部と繰り広げ、清音に水をぶっ掛けられた日。
跡部は会社へと出かけた後、一人で朝食を取り終えて私室に戻った時、沢木に聞かされた。
「一週間後に、跡部家の本家で行われる社交パーティーに出席する予定が決まっております」と……。
その言葉を聞いて、これは大仕事だな…などと、あまり深く考えずに「はい、解りました」と答えたが、その直後に爆弾が投下された。
「そのパーティーでは、社交ダンスも必要になるそうです」
「社交ダンス?!」
沢木の言葉に、は目を白黒。
自慢ではないが、に社交ダンスの経験など皆無。
小学校や中学校でやるような、フォークダンスくらいなら…後はお遊戯ダンス…やった事はあるが……。
「私、そんなのやった事……」
おずおずと言う
すると沢木は、「解っておりますよ。ご安心ください」と言って、にこりと笑う。
その笑みに、何故か感じた悪寒。
「今日からみっちり、社交ダンスのレッスンをしていただきます。一週間後に間に合うように……」
そんな台詞を口にする沢木の背後に、黒い物の幻影を見た。
一週間以内に、きっちり社交ダンスを踊れるようになれよ…と言っているような……。
は間違いなく、それを見た。
「…はい……」
恐怖に顔を引き攣らせながら、が言えた言葉はその一言だけだった。

そして、その日から、社交ダンス会の権威らしいコーチによって、はスパルタ式に社交ダンスを叩き込まれる事に。
一番驚くべきは、何故か用意されていたダンスレッスン用の、鏡張りの壁に囲まれた大きな部屋。
何のためにこんな部屋が用意されているのかと、一緒にいた沢木に聞けば、今後必要になるだろうと考えて作られた物との事。
つまり、跡部に子が生まれれば、その子にも社交ダンスを教える必要が出てくる。
跡部自身も、そんな教育を受けていたそうだ。
そのために必要になるだろうと考えて作られているらしいのだ。
相変わらず、金持ちの考えることは解らないと、思わざるおえないだった。

社交ダンスの練習時間は一日約八時間。
普通の人間なら、かなりの疲労に見舞われるのではないだろうか。
しかし、は体力にかなり自信があった。
なにせ、朝から夜中まで働き通しをやっていたのだから……。
の凄い所は、その日の夜はクタクタになって眠ってしまっても、次の日には疲労は殆ど回復しており、元気にレッスンを受ける所だ。
若いって事はいいことですね…などと、沢木がポツリと口にした事を、は知らない。

一方の跡部は多忙を極めていた。
会社でプロジェクトが一つ動いており、それを3ヵ月後の結婚式の前までに終わらせなければならなかったからだ。
おかげで跡部は、朝出勤すると帰ってくるのは夜中。
と顔を会わせるのは、朝の朝食の時だけ……。
もちろん、大人気ない言い合いをしながらの朝食である。

今朝はこんな言い合いをしていた。
「おい、最近 お前の調子はどうだ?」
「……なんの?」
行き成り跡部にそんな事を問われて、はそっけなく反応する。
「社交ダンスの上達具合はどうだって聞いてんだよ」
そう言われて、はああ、と気付いたようで。
「……ぼちぼち」とそう言って答えた。
しかし、その返答は跡部にとっては眉をしかめるような物でしかなくて。
「アーン?ぼちぼちだぁ?」
跡部はそう言うとにキツイ視線を向ける。
「てめぇ、社交ダンス会で一番のコーチをつけてやってるのに、ぼちぼちたぁ、どういう事だ?」
不機嫌そうにそう言い放つ跡部。
「別に上達してないとは言ってないでしょ。ぼちぼち、やれてるって、そう言う意味で言っただけよ」
は不快そうにしている跡部を睨み返して言う。
「パーティーの時に、ヘマして俺様に恥をかかす気じゃないだろうな?」
「別に、アンタが恥かくぶんにはどうでもいいわよ」
跡部の言葉に、即答で冷たく切って返す
その態度に、跡部の怒りがヒートアップ。
「……てめぇ、夫に向かってアンタとはなんだアンタとは!」
「アンタの事なんてアンタで十分!前にも同じ事言ったでしょ?!」
「オイコラ、パーティーの時もその態度でいるつもりじゃねぇだろな?!」
「ご安心くださいな。そのくらいの分別はわきまえてます」
「ハッ、どうだか」
とまぁ、こんな風に言い合いが続いてしまうのである。
途中までは一貫性のある話題なのだが、暫くするとどんどん話題が変わってゆくのが二人の口喧嘩の特徴。

そして、その言い合いを終らせるのが、清音の一言だ。
「お二人とも、そこまでになさってお食事をお続けくださいませ。でないと、また……」
でないと、また…の後に続く台詞はおそらく「頭から水を掛けますよ」と言う言葉だろう。
それに気付いた二人は、言いたい言葉を飲み込み、食事に集中するのだ。
そうすると、朝食の場は一気に沈黙する。
食器の音が微かにするだけになるのだ。

そんな様子を見て沢木は思う。
この屋敷で、最強なのは家の主、跡部景吾ではなく、清音であると……。

そして、朝食が終わると跡部は出勤、は社交ダンスのレッスンの準備となる。
それが一日の始まりとなるのだ。
なんとも……、穏やかではない一日の始まりだと、思わないものは跡部邸には誰一人としていない。
跡部やでさえもそう思っている。
なのに、喧嘩をしてしまうのは……一番の要因は跡部の大人気の無さだろう。

スパルタな社交ダンスレッスンのおかげで、はそれなりの上達を見せている。
どうにか、社交パーティーまでに形にはなるだろうと、コーチは思っているようだ。
そして、ダンスレッスンを終えれば、はクタクタ、空腹となる。
ダンスレッスンでの入浴して汗を流せば、丁度夕食の時間。
昼食、夕食は一人で食べる。
跡部は帰宅時間が遅いので、外で食事を済ませてしまうからだ。
にとっては嬉しい事。
跡部景吾と言う男を、どうも好きになれない
どうしてああも大人気ないのだろうか……。
跡部はに不満を感じてしょうがない。
……しかし、よくよく考えれば、相手が大人気ないなら自分が大人になって対応すれば良いだけではないのだろうか、というツッコミができるのだが……。
は一向に気付いていないらしい。

入浴を済ませて、食事を終えればやっと一息つける……と思いきや、そうでもない。
「クイック・クイック・スロウ……」
私室の片隅で、そんなリズムを口ずさみながら、一人社交ダンスの練習をする
は元来努力家の気質で。
必要に迫られてやらされている社交ダンスではあるが、覚えられるのならしっかり覚えてしまいたいと、そう思ったのだ。
更に言えば、パーティーで失態を見せて恥をかくのも嫌だという心理もあるらしい。
なので、そんな復習を一人健気にこなすのだ。
そんなの姿を、沢木は微笑ましそうに見守るのだった。

社交ダンスの復習を終わらせたは、一人で見るにはありえないほど大きなテレビをソファーに座って見ていた。
沢木が用意してくれた、お茶を飲みながら……。
お茶を飲みながら見る、今日のテレビ番組はお笑いバラエティ番組。
……そういえばこの番組、妹のが面白くて好きだと言ってたな。
軽快な喋りで漫談をする、お笑い芸人達。
確かに面白いなと、は思う。
時折、聞えてくるギャグに笑ったりもした。
そして、その番組を見終えてしまえば、そろそろ就寝時間。
「お休みなさいますか?」と、いつも同室の隅に控えている沢木に問われ、は「はい」と頷いた。

寝間着に着替えていざ就寝。
そういえば、まだこの家の主は帰宅していない。
時計を見れば、時間は11時前。
毎日この調子らしい。
がこの屋敷にやってきた日は休日で、だからこそ彼は家に居たらしい。
時折、休日出勤になる事もあるらしいと、沢木が言っていた。
しかし、にはどうでもいいことだ。
「沢木さん、おやすみなさい」とそう言って、白いレースの天蓋の下ろされたベッドに潜り込む。
「お休みなさいませ」
そんな沢木の一言を聞いて間もなく、は眠りの国へと旅立つのだった。

は、とても寝つきが良い。
就寝の挨拶を交わしてすぐ、聞えるの寝息。
あまりの穏やかさに、沢木は思わず口元を緩めてしまう。
しかしすぐ、表情を引き締めると、部屋の明かりを落としベッドランプを灯し、の眠る寝室から出てゆくのであった。

ベッドルームの隣のプライベートルームに移動した直後、プライベートルームにある廊下へ繋がるドアが開く。
ノックもなしに入ってくるのは決まって彼、跡部景吾。
「お帰りなさいませ」と、沢木は彼の頭を下げ、ベッドルームへ通じるドアの隣に立つ。
跡部は「ああ」とだけ、沢木の挨拶に返事をすると、当たり前のようにベッドルームへと向かった。
跡部の背後には、清音が控えている。
それは、ここ数日の日課のようなもの。
が眠る頃、跡部は帰宅する。
彼は、帰宅するとすぐ、に…跡部にとってはに…会いにくるのだ。

ベッドルームへ入った跡部は、躊躇もなく、当たり前のように彼女の眠るベッドへ。
ベッドランプの薄明かりの中、レースの天蓋をまくり、彼女の寝姿を見やる。
「……全く、夫が疲れて帰ってきてるってのに、幸せそうに寝こけてやがって…」
忌々しげに跡部は言うが、だからと言って彼女を起こす気は無いようで。
彼女が昼間何をしているのか、それは清音から帰宅してすぐに聴いていて解っている。
こうやって今、彼女が熟睡しているのは、昼間のレッスンの疲れからだと、ちゃんと理解はしている。
彼女が、真面目な性格である事は、その事を考えればすぐに解る事で。
だから跡部は彼女を評価はしている。
評価はしていても、態度に出せないのは何故なのか。
彼女の態度が反抗的であるのは、初対面の時にやらかした事もあって当然だと思っている。
だったら、こちらは大人だ、大人らしい態度で接してやれば、そのような態度も幾らかは和らぐ筈。
なのに、跡部にはそれが出来ていない。
……何故なのか……。
解らない。

ただ解るのは、あの時……。

―――人形のように、唯一つの感情だけを表してるだけじゃない。泣いたり笑ったり、感情がちゃんとある、人間なのよ!人形じゃないわ!―――

そう言って跡部を真っ直ぐと睨んだ彼女のあの眼差し……。
それが跡部の奥底にある何かを壊した事だけ………。








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<あとがき>
話の流れが遅々としていてなかなか進みませんね……orz<失意体前屈
終わりまでのプロットは立てておいたはずなのに、別のネタで書きたくなってきて……。
うーん、どっちの案を採用しようか……。
あ、もちろん、悲恋、死ネタは書きませんよ。
ネガティブなのは、嫌なので。
私は、ポジティブに生きてゆきたいお年頃。
終わらせられる連載は、さっさと終わらせたいですね。
もちろん、クオリティは落とさずに。
……クオリティって呼べるようなクオリティなんてない小説ですけど……orz<失意体前屈

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