2. 夢を描いたスケッチブック
スケッチブックに、窓から見える少年の姿を描いていく。
運動場を元気よく走り回るその姿は、見ているだけで僕を明るい気持ちにさせてくれた。
少年と一緒に絵を完成させて以来、僕はこうして、昼休みによく美術室で自主的に絵を描いていた。
僕の描く絵には臨場感と奥行きというものがいつも欠けていた。
それは丁寧に描こうとするあまりに引き起こる弊害だったのだろう。
絵は、ときに現実とは違うように描くことが大切なのだ。
それを少年から学んだ僕は、最近ではラフ画を描くようにしていた。
素早く、大まかな絵を描く練習。
あまり描き込みすぎないように注意していると、昼休み終了五分前を告げるチャイムが鳴り響いた。
道具を片付け、教室へと向かう。
いつも思うことだけれど、もう少しスケッチブックが小さくならないものだろうか。
今度、文房具屋に行って小ぶりの物を買ってこようかな。
そんなことを考えながら階段を下りていると、ズルリと、足が滑った。
「……ぁっ」
胃が浮くような感覚に、血の気が引いた。
ドサドサッ、と音を立てて画材道具が下の階の廊下へと散らばる。
それとほぼ同時に、僕は床に体をしたたかに打ちつけた。
横腹に走る鈍い痛みに呻きつつ、何とか起き上がる。
「……大丈夫か!?」
階段から落下した僕に気が付いたらしい男子生徒が駆けてきた。
それはあのとき、一緒に絵を描いた少年だった。
「あ……お前は……!」
少年は僕の顔を見て目を見開くと、いきなり、僕の体を抱え上げた。
突然のことに目を白黒させていると、少年がいたわるような視線を向けてきた。
「すぐに保健室、連れて行ってやるからな!」
僕は痩せている方だけれど、背は人並みにある。
同じくらいの身長の少年は、けれど力強い足取りで僕を抱えたまま走っていく。
すごいな、と思った。
そして何より、逞しく感じた。
力強い彼の腕に、僕は力を抜いて全体重を任せることにした。
「足をちょっと捻っちゃったみたいね。でも大丈夫よ、すぐに良くなるから」
足首にシップを張ってもらったところで、少年が画材道具を両手に保健室に入ってきた。
僕を保健室まで運んだ少年は、床に散らばっていた道具をわざわざ取りに行ってくれたのだ。
「それじゃあ、先生はちょっと行かなければならない所があるから」
保健室の先生はそう言うと、部屋から出て行った。
少年と二人きりになった僕は、彼にお礼を言った。
「別にいいよ、気にすんな。ところでさ、スケッチブック……見せてもらってもいいか?」
「え……」
スケッチブックには今まで描き溜めた様々なイラストがあるわけで、それを見せるのはちょっと恥ずかしい。
何より、これには彼の絵が描かれているのだ。
それもたくさん。
そんなものを見せられるわけがなく、僕は慌てて首を横に振った。
けれど少年は僕の手からスケッチブックを奪い取ると、中を開いて見てしまった。
「うわああっ、見ないでぇッ」
「何で? 上手なんだし、良いじゃん。……と、これって」
少年の目が僕へと向けられた。
きっと自分が描かれていることに気が付いたのだろう。
恥ずかしさにいたたまれない気分になっていると、少年が嬉しそうに笑った。
「そっか、俺のこと描いてくれてたんだ。サンキュー、格好良く描いてくれて」
「え……。気持ち悪くないの?」
「何で?」
何でって……。
だって、遠くからずっと観察されてたんだよ?
首を傾げながらそう言うと、少年は「馬鹿だなぁ」と言って微笑んだ。
「気持ち悪くなんてないさ。むしろ、お前の絵の題材にされたなんて最高に嬉しい」
「……そ、へ……変だよ、君」
「そーかぁ? 俺なんかを描いてるお前の方が変だと思うけどな」
「そんなことない! だって君、すっごく格好良いもん!! ……あいたたっ」
力んで言うと、横腹が痛んだ。
先程痛めたのは足首だけではなかったらしい。
苦痛に堪えながら視線を少年の顔へと向けると、彼は僕に背を向けていた。
「……? どうか、した?」
「なんでもねぇ……っ」
少年はそう言って俯いてしまった。
そんな少年の前の壁には、等身大以上の鏡が取り付けられている。
そこには僕たち二人の姿が映し出されていた。
少年はそのことに気が付いていないようだ。
僕は鏡に映し出されている彼の顔を見て、思わず吹き出してしまいそうになった。
彼の顔が、理由は分からないけれど真っ赤に染まっていたのだ。
どうやら顔を僕から背けているのは、そのことに気づかれたくないかららしい。
笑ってしまいそうなのを堪えていると、鏡の中の彼と目が合った。
「ッ〜〜〜! こ、の……ッ」
鏡によって顔を見られていたことに気が付いたらしい少年が、先程以上に真っ赤な顔を僕へと向けた。
キッと睨み付けられ、僕は耐え切れずに笑ってしまった。
「悪趣味だぞッ」
「遠くから見つめて絵を描くのはいいのに、鏡に映っている君を見ることは駄目なの?」
「うるさいっ! ……ああ、もうっ」
少年は苛立たせ気味に地団駄を踏んだ。
それから唇を尖らせたまま、ベッドに座った。
「ちぇー、何だよ。助けてやったのに、からかってきやがって」
「別にそんなつもりは……。ねぇ、それより、今の君を描いてもいい?」
「は?」
素っ頓狂な声を上げられる。
僕自身、自分の提案に驚いていた。
でも今の彼を、絵として残しておきたいと思ったんだ。
「……いいよ」
「本当? ありがとうっ」
僕はスケッチブックを片手に、鉛筆を取り出した。
本当なら、足首の治療も終わったことだし、授業に戻るべきなのだろう。
でも今はこうして、彼と一緒にいたかった。
それは彼も同じらしく、文句ひとつ言わず、モデルとなってくれている。
「いつもみたいに、格好良く描いてくれよな」
「僕はいつも、見えてるままに描いてるだけだよ?」
「それって……俺のことがそう見えてるってことだよな」
「え? うん、だからさっきも言ったじゃんか」
「そっか……。へへ」
嬉しそうに笑う彼の顔を見ながら、つられるようにして、僕も笑っていた。