18. 義務と意思の狭間にて
「おい、何だね君は…!?」
「通して下さいッ」
警備員の間を掻い潜って走る。
何度も引き止められそうになりながらも、それでも走り続けた。
「社長! 社長…どこですかっ」
どこに社長がいるかが分からないため、声を上げて捜しながら走るしかない。
広い館内を走るのは辛いが、仕方がない。
「社長…」
「君、いい加減にしなさいっ」
「やめ…っ!」
腕を掴まれ、足を止められる。
駆けつけてきた警備員に囲まれ、僕は身動きが取れなくなってしまっていた。
「やだ…離して下さいッ」
必死になって抵抗するものの、警備員なだけあって、そうそう離してくれるはずがない。
ジタバタと暴れていると部屋の襖が開かれた。
そこから現れたのは騒ぎを聞きつけた正装をした社長だった。
その姿を見た途端に、何かが頭の中で切れた。
「しゃちょぉおっ!!」
僕は思わず社長へと手を伸ばした。
けれどもその手が社長に届くはずもなく、警備員の手によって壁に押さえつけられてしまう。
「な、何をしているんですか!?」
「申し訳ありません、すぐに追い出させていただきますので…」
警備員と社長のやり取りを聞くこともせず、僕は社長の所へと駆けていくために必死で抵抗をしていた。
強い力で腕を掴まれれば痛みが走り、僕は何度も呻いた。
「離して…くだ、さい…ッ」
社長のもとへ行きたい。
行かないといけないのに…っ!
不意に、掴まれていた手の力が緩んだ。
身体を壁に押さえつけていた力がなくなり、自由になる。
何事かと不審に思っていると、警備員が頭を下げた。
「え…?」
「雅人様のお知り合いだったそうで…申し訳ありません」
視線を社長へと向ける。
そこには他の警備員に向かって険しい顔をしている社長がいた。
「彼は僕の大事な知人だ! 手荒なことをするのは許さないッ」
その言葉は嬉しかったけれど、ただの知人だと言われるとやはり辛いものがあった。
警備員たちは何度も僕と、そして社長に謝ると速やかにこの場を去っていった。
騒がしさが消え、あるべき状態であった静寂が訪れる。
小さくなり、やがて廊下の向こうへと消えた警備員たちに向けられていた社長の瞳が、僕を捉えた。
鼓動が、不自然に早まっていく。
「しゃ、ちょう…」
「何をしにきたの?」
社長は僕へと近づきながら訊いてきた。
「…ぼ、く…は」
社長が好きです。
そう伝えようと思っていたはずなのに、いざ社長を目の前にするとどうしても口にすることが出来なかった。
「葵くん? ここに来たからには何か用があったんだよね? それにあんな騒ぎまで起こして…君らしくないよ」
「…僕は、僕…っ」
視界が歪み、ポトリと雫が零れる。
僕らしいって何だろう?
こういうときにも取り乱さずに、冷静に対応すること?
社長に自分の本当の気持ちを隠し、ここに来た理由の適当な嘘をつくこと?
いつも通りの、冷静で優秀な秘書であり続けること?
―――そんなの、嫌だ。
僕は冷静でも優秀でもない。
ただ社長が好きで。
ただ…社長が欲しいだけ。
たとえその思いを告げることによって社長の僕に対するイメージが崩れてしまったとしても構わないと思う。
僕は涙を拭うこともせず、社長に告げた。
「僕、好きなんです…」
「え?」
「社長のこと…好き、です」
社長が息を呑むのが分かった。
それも当然だろう。
まさか僕がそんな浅ましい思いを抱いているなど、思わなかっただろうから。
「ごめんなさい。社長を好きになることが失礼だということは分かっているんです」
身分が違うから。
僕と社長はあくまで、雇う側と雇われる側だ。
そして、男同士だ。
「社長が僕をそういうつもりがなく抱いていたのも分かっています。仕事のためだって分かっています。恋人同士のふりだって、そうなんだって」
それでも、僕はそんな社長を愛してしまった。
「そう分かっていても、嬉しかったんです。貴方に抱いてもらえるのなら…好きだって言ってもらえるのなら、それでも良かった。でも…社長がお見合いをして結婚するって聞いて……」
我慢できなかった。
僕が一番社長に近い存在でいたかった。
秘書以上の存在として、いたかった。
「ごめんなさい…どうしても、お見合いを止めたかった。社長が結婚することを、僕は祝えません。嘘をつきました…っ」
僕は手の甲で涙を拭った。
けれど次から次へと溢れてくる涙を止めきれない。
「たとえ、たとえ…社長が僕を心から愛してくれていなくても構いません。ただ、お願いします。玩具の実験体でも、性欲処理のための道具でも構いません。手荒に扱ってもらっても構いません。ですから、僕を傍に置いておいてください…っ」
僕はそのまま床に崩れるように座り込んだ。
板張りの床の感触がやけに冷たい。
「ふりでもいいんです。だから…」
浅ましい願いだっていうのは分かってる。
それでも願わずにはいられないのだ。
「僕のこと、愛してください…」
社長は無言で僕のことを見つめていたが、不意に、冷たく言い放った。
「そんなこと、出来るわけがないだろ」
「―――…っ」
分かってた。
そう言われるって。
それでも…少しの希望でも縋りたかったんだ。
けれどもうそれは出来ない。
社長はお見合い相手と結婚をし、そして僕を抱くことはなくなるだろう。
そればかりか、僕を秘書からはずすのだろう。
会社もやめさせられるのかもしれない。
こんな風に身勝手な理由で、社長のお見合いを邪魔してしまったのだから。
社長が僕の前に座り込んだ。
肩に手を置かれ、僕は更に俯いた。
社長の顔が見れなかった。
どんな顔をしているのか、考えもつかない。
「…僕は君を玩具の実験体にはしないし、性欲処理の道具にも使わない。絶対にね」
そんな風に、強く言わなくたっていいと思う。
けれどこのほうが良いのかもしれない。
諦めがつくから。
けれど、僕の気持ちは未だに社長に傾いたままだった。
こんなにも僕は貪欲な人間だったのだろうか。
社長が欲しくて欲しくてたまらない。
なんて、醜いんだろう。
「僕は今までだって一度も君をそんな風に見たことはないし、これからもそのつもりはないんだ」
僕は社長の声を聞きながら、床の板の目を見つめていた。
社長は近くにいるはずなのに、声はどこか遠くから聞こえる。
「偽りでもいいから愛してだなんて、道具としてでもいいから使ってだなんて哀しいこと言わないでくれ。僕は君をそんな風に扱いたくなんてないんだから」
僕は床からゆっくりと視線を上げた。
社長の真摯な瞳が目に入る。
「僕は君のことが好きなんだから」
「え…あ、ん…っ」
乱暴に引き寄せられる。
唇に触れる柔らかく温かいものが社長の唇だと気づくのには、少しも時間が掛からなかった。
だって、覚えていたから。
頭できちんと何をされているのか認識出来なくても、感覚で分かるんだ。
こんなにも甘く心地よい快楽を与えてくれるものは、僕は社長しか知らないから。
「ん、ぁ…ふ…っ」
唇を強く吸われるようにされると、身体にぞくりと震えが走る。
少しだけいつもより荒っぽい切羽詰ったようなキスは、僕の思考を鈍らせていく。
どうしてこんなことをされているのかだとか考えることはせず、ただその快楽に身を任せて社長と舌を絡めあった。
「あふ…ん、ぁ…しゃ、ちょう…?」
唇を離し、はっきりしない視界のまま社長の顔を見つめた。
「何を勘違いしているのかは知らないけど、僕は彼女と結婚をする気はないよ」
「え…?」
「これは話してみて分かったことだけど、彼女も僕と同じように好きな人がいるんだよ」
「その通りです」
柔らかい、優しさを含んだ女性らしい声が聞こえてきた。
襖から華やかな着物に身を包んだ、髪の長い女性が出てきた。
声だけでなく、その仕草も表情も優しく柔らかいものだった。
「父は私を雅人さんと結婚させようと思っているようですが…私にも、そして雅人さんにも好きな相手がいます。それなのに、結婚をするだなんて可笑しな話でしょう?」
そう言って、女性は僕に近づいた。
「雅人さんから話は聞いてたの。思っていた通り、可愛い人だわ」
「か、可愛いって…」
「男の人相手には失礼かしら? でも、本当にそう思うの。雅人さんが愛するだけのことはあると思うわ」
「愛…あい、する…?」
その言葉に首を傾げる。
雅人さん…社長が、僕を愛している?
「…もしかして葵くん、僕の言ったこと全然聞いてなかった?」
むっとしたように言う社長に慌てる。
そんなことはない、と言いたいところなのだが実際に聞いていなかった。
とてもではないけれど、頭に入るような心境ではなかったのだ。
「まぁ、それも仕方ないかな。なら、改めて言わせてもらうよ」
社長は僕の両肩に優しく手を置き、耳元に口を寄せた。
「愛してるよ、葵くん。本当は会社のためだとか言って、君と触れ合いたかっただけなんだ。恋人のふりもそう。君とキスをしたかった。好きだと言いたかった。そのためだけに全部したことなんだ」
「…え?」
「ごめんね、嘘をついていて。でもこれが事実なんだ。僕は君のことが好き。…それじゃ、駄目かな?」
そう言って不安そうに首を傾げて見つめてくる社長に、僕は抱きついた。
硬くなる社長の身体。
けれどすぐに、いつもの温かさと優しさをもって、柔らかく抱きしめ返してくれた。
「好きです、社長。大好き…です」
「…僕も、大好きだよ」
社長は僕の顔を上げさせると、再び唇を重ねあわせてきた。
涙が頬を次々に伝っていく。
けれどそれは先ほどとは違う意味を持った、温かな涙だった。