5. 義務と意思の狭間にて
新製品のバイブは非常に人気で、どこの店でも入荷してすぐに売り切れになるほどだった。
つまりは、在庫が足りないわけだ。
バイブを作っている工場では朝から晩まで大忙しらしい。
これなら僕の体で試した意義もあるというものだ。
僕はいつものように素早く仕事をこなし、休息をとっていた。
「葵さん、コーヒーは…」
「あ、お願いしていいですか?」
「はい。お任せください」
女性社員は一礼をして去っていった。
「葵くん」
「あ、はい?」
振り返ると、そこには笑みを湛えた社長が立っていた。
まぁ、振り返らずとも僕のことを君付けで呼ぶ人は他にいないから誰なのかはすぐに分かるのだが。
「何か…?」
「君に渡さなきゃならないものを持ってきたんだよ」
社長がそう言って差し出してきたのは茶色い封筒。
「これは?」
封筒を受け取り、小首を傾げた。
何か社長に渡されなければならないもの…?
戸惑っていると、社長は小さく耳打ちした。
「ほら、協力代」
「あ…っ」
すっかり忘れていた。
バイブの性能を僕の体で確かめる代わりに、渡されるはずの現金。
それがこれか。
僕はそっと封筒を破ると中を覗いた。
そしてそこにある万札の束に目を見張った。
「こ、こんなにもらえません…っ!」
「いいんだよ。僕がもらってほしいんだ」
社長の微笑みに、僕は黙り込んで袋の中を見つめた。
こんなにもらってしまってもいいのだろうか。
「葵さん。コーヒーお持ちしまし…きゃぁっ!?」
コーヒーを運んできた女性社員が躓き、その拍子にコーヒーがこちらへと零れてきた。
「葵くんっ」
「っ……!?」
僕にコーヒーがかかる寸前に、社長が間に割り込んだ。
僕にかかるはずだったコーヒーは社長の腕へとかかり、社長は熱さに顔を少しだけ歪めた。
「社長!?」
「も、申し訳ありません!」
女性社員は顔を青ざめさせて頭を深々と下げた。
「謝る暇があるなら早くタオルを持ってきて下さい! さ、社長。行きましょうっ」
「う、うん…」
僕は社長を連れて水場へと向かった。
「熱かったぁーっ」
流水で腕を冷やしながら、社長は息を吐き出した。
社長の腕は火傷というほど酷いものではなかったが、赤くなっていた。
そんな腕を見ながら申し訳ない気分になる。
「…どうして、庇ったりしたのですか? そんなことをすればどうなるかなど、分かっていたでしょうに」
「でも、こうせずにはいられなかったんだ」
笑顔で平然と言ってのける社長に、呆れを通り越して怒りが沸きあがってくる。
「ふざけないで下さい! 僕はこんな風に庇われることを望んではいません!!」
自分のせいで他人が怪我をするなど、考えられない。
「貴方はこの会社の社長です。僕一人がいなくなったところでそこまで支障はないでしょうが、貴方が大きな怪我をして休むことなどになれば、どれほどの支障を来たすと思っているのですか!?」
「そんな…怒ることないじゃないか」
「社長! お願いですから、もう庇ったりしないで下さい…っ」
正直な話、会社の運営に支障を来たすだとかはどうでも良かった。
ただ単に、社長の苦しそうな顔を見るのが耐えられなかっただけだ。
社長はしばらくの間戸惑った様に視線を泳がせ、首を横に振った。
「社長…?」
「それは断わらせてもらう。君を守りたいと思ったのは僕の意思だ。君にどうこう強制されるべきものじゃない。それに、君は自分がいなくても支障を来たさないと言ったけど、それは大きな間違いだ。君は秘書なんだよ? 君が休んだって、僕と同じように会社の運営に支障は出る。それを理解してほしいね」
社長はやけに真剣な瞳で見つめてきた。
その瞳に、鼓動が早まるのが分かった。
「それにね…せっかく助けたんだ。君の叱咤も魅力的ではあるけど、まずはお礼を言ってもらいたいな」
そう言って優しく社長は微笑んだ。
僕は視線を社長から外し、それから再び社長を捉えた。
「…庇ってくれたことに関しては、感謝します」
「もう、強情なんだから」
社長はそう言って眉尻を下げた。