3. このキスを覚えてる


俺の事故の後遺症は至って見られなかった。
『ある一人の存在』に関してを除いては。


「春姫、本当に栢山のこと覚えてないのか……?」

机を向かい合わせにして俺と弁当を箸でつつきあっていた西野が、気難しそうに眉間にしわを寄せて訊いてきた。
その問いかけに頷くと、西野は深々と息を吐き出した。

「なあ、西野。栢山ってどういう人物なわけ?」

あの日以来、病室にやって来た栢山という名前らしい男とは全く話をしていない。
そのせいなのか友人からことあるごとに「最近なんで栢山と一緒にいないの?」と訊かれるのだが、栢山という人物そのものを俺は全く覚えていないし彼と俺との記憶を失う前の関係も分からないのだから答えようがない。
だからこそ西野にこうして訊いているわけだが、彼は唇を真一文字に結んだまま一向に話す気配を見せない。

「何で教えてくれないんだよ?」
「……春姫が栢山のことを忘れているってこと、どうしても信じられなくってね」

西野は机に両肘をつくと指を組み合わせ、口元を隠すようにその手に顎を乗せた。
そんな風に疑い深く観察するように見られても、俺にはどうしようもない。
それが事実なのだから。

「それに、俺が言っていいことなのかも分からないしね。ここはやっぱり、栢山が話しかけてくるのを待つべきなんじゃないかな」
「……そんなこんなで、もうあれから一週間くらい経っちゃってるんだけど?」

それでもまだ、友人からの栢山についての質問は止むことがない。
だからこそ余計に気になるのだ。
俺と栢山という男は、そんなにも親しい間柄だったのだろうか。

「そんなに気になるのなら、訊いてきたらどう?」
「訊くって……?」

西野は軽く肩をすくませた。

「そのまんまの意味だよ。栢山に会いに行って、本人の口から直接教えてもらいなよ」

俺は黙り込んで西野の顔を見つめた。
直接訊きに行く……か。
それも悪くないかもしれない。
そうと決まれば、膳は急げだ。

「行ってくるね、西野」

俺が弁当を片付けて椅子から立ち上がると、西野は笑みを浮かべてくれた。






中庭の木陰で一人涼んでいる栢山の姿を見つけて、おそるおそる近づいていく。
栢山は寝転んだ体勢のまま、俺のことを見上げた。

「……なに?」
「話したいことがあるんだ……」

よっ、と掛け声と共に栢山は上半身だけを起こすと、俺のことを真っ直ぐに見つめてきた。
その視線にドギマギしながら彼の前に腰を下ろす。

「栢山……さ、ん」
「さん付け、なんだ?」

自嘲的な栢山の微笑みに、チクリと胸の奥が痛んだ。

「えっと、その……俺、貴方のこと全然覚えてなくって……」
「知ってるよ。この前、痛いほど実感した。……今もね」

寂しそうな顔をする栢山は、やはり、俺の記憶にはない。
思い出してあげたい。
けれど、それはどうしても出来ないことだった。

「それで、俺に話って何?」
「俺……栢山さんとどういう関係だったのかを知りたくて……」
「恋人同士って言って、信じるか……?」

栢山の言葉に絶句する。
仲が良かったのだろう、ということは予想していた。
けれどまさか、それが恋愛方面での仲の良さだとは思っていなかったのだ。

「……お、れ……」
「驚いたか? まあ、仕方ないよな。別にお前、男色ってわけじゃないんだし。俺のことが記憶にないんだ。同性を好きになるだなんてこと、今のお前には考えられないだろうな」

栢山は薄く微笑みながら俺の頬に手を伸ばしてきた。
思わず目を瞑ると、頬に触れた彼の指先に、少しだけ力がこもった。

「……んな顔、すんじゃねぇよ」

喉の奥から搾り出したような栢山の声に瞼を開くと、彼の顔が、すぐ近くにあった。
やわらかな、彼の唇が自分のものに触れる。
栢山は存分に俺と唇の表面を擦り合わせると、舌を滑り込ませてきた。
飴でも舐めていたのだろうか、口内にオレンジの味が広がった。
その風味は何故だか懐かしくて、安心して……頭の中が、次第に麻痺していくのが分かる。

「んっ……」

舌を絡められ、ゆるく吸い上げられると甘い痺れが全身へと広がっていく。
何だろう、この感覚……。
俺、このキスを……覚えてる?

「ぁ……っん……」

いつの間にか、自ら舌を絡め返していた。
触れ合わせている舌はひどく熱を孕んでいて、体が自然と火照っていく。
栢山にキスをされるのは、同性だというのに不思議と嫌じゃない……。
ひどく曖昧な、けれど確かに芽生えたこの感情。
栢山と俺が恋人同士だったというのは本当のことなのかもしれない。
唇を離すと、互いの間に糸が引いた。
陽光に煌くそれから、視線を栢山の瞳へと向ける。

「……悪い。記憶ないのに、こんなことして」
「……嫌じゃ、なかったから」

本当に、自分でも不思議だけれど。
彼との口付けが気持ち良いと、素直に思えたのだ。

「……良かった。もしお前に拒絶されたら、俺……きっと立ち直れなかった」

栢山は心底安心したように、けれど辛そうに微笑んだ。
そんな顔を見せないでほしかった。
申し訳なくて、でもどうすればいいのか分からなかったから。
どうしたら、彼を元気にさせることが出来る?
ううん、どうやったら、彼のことを思い出すことが出来る?

「……俺、栢山さんのことを思い出したい」
「俺も、お前に俺のことを思い出してほしい」

互いに見つめあって、黙り込む。
……変だな。
こうして見合っているだけなのに、鼓動が速くなる。
記憶にはないのに体が覚えているっていうのは、こういうことをいうのかな…。
そこまで考えて、一つの答えに辿り着く。
俺は思わず栢山の手を握り締めた。

「な、どうした……?」
「頭で覚えていないのなら、体から思い出していけばいいんだよ!」

キスを懐かしいと感じた。
彼の眼差しに胸が熱くなった。
記憶にはない、けれど体には染み付いていること。
そういったことを繰り返していけば、彼のことを思い出せるのではないだろうか?

「……なるほど、ね。今までに俺としてきたことをすることで、過去のことを思い出そうって言うのか。確かに、何もしないでいるよりかは思い出せる確率が上がりそうだな」
「でしょ? だから……協力してくれる?」
「いいよ。俺だってお前に思い出してほしいんだし、そのためだって言うならいくらでも協力する」

栢山にそう言ってもらえると心強い。
記憶を失う前の俺と栢山との出来事を知っているのは、もう彼しかいないのだから。

「それじゃあ、宜しくな」
「こちらこそ宜しく、栢山さん」


互いに強く、握手を交わした。




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