5. 忘れられないひとがいて、忘れたくないひとがいる


あの日以来、僕が先生のもとを訪ねることはなくなった。
本当は会いたくて仕方がなかった。
けれど、どんな顔をして会えばいいのかが分からなかった。
あの女子生徒のことについて質問をする勇気も、僕にはなかった。



「は……ぁ」

先生と出会わなくなってから、一週間が過ぎていた。
まだ七日間しか経っていないのに、もうずっと会っていない気がする。
先生には未だに気持ちが傾いたままで、それが辛かった。
こうやって距離をとれば忘れられるかな、とも思った。
けれど離れれば離れるほど、会えない時間が長くなればなるほど、思いは募り、大きくなっていく。
苦しいよ、先生。
無意識に助けを求めた相手が先生で、あまりの情けなさに失笑する。
始めはただ、傍にいられれば満足だったのに。
今は先生が自分だけのものでないと満足なんて、出来ない。
でもそれが僕には出来るだけの力がない。
悔しくって、僕は階段に座り込んで涙を堪えた。

「そんなところで座りこんでいると、蹴り飛ばされても文句は言えんぞ」

背後から聞こえてきた声に、僕は身体を強張らせた。
緊張によってなのか、汗が吹き出る。
僕はゆっくりと振り返って、肩越しに階段を見上げた。
階段の一番上、窓から降り注ぐ光の中に、水野先生が立っていた。
その姿は息を呑むほどに綺麗で、眼差しはどこまでも鋭く冷たい。
それは僕の身体を熱くさせるようなものではなかった。
怒っている。
そんな風に感じ取れた。

「ごめんなさい」

僕はそう言うと立ち上がって、歩き出した。
先生と会話をする気は、ない。
出来っこなかった。
先生の姿を見ただけで、僕は泣き喚きそうになっていたのだから。
僕が一方的に思い込んでいただけのこと。
だから、先生は悪くない。
そうは思っても、苛立ちは隠せない。
気のあるような素振りを見せないでほしかった。
僕は特別なんだって、特例なんだって、そんな風に思わせないで欲しかった。

「ちょっと待て」
「嫌です。待ちたくありません」
「……湊っ」

強く名前を呼ばれて振り返れば、射竦めるような先生の鋭い眼光が目に入った。
その瞳に見つめられると、睨まれると、動けなくなる。
だから僕は視線を何とか床へと落とした。
先生の靴が、僕に近づいてくるのが見えた。

「……どうして、来なかった」
「何がですか」
「放課後だ。ずっと待っていたんだぞ」

ずっと待っていた?
放課後に?
僕のことを?
女子生徒と、いやらしいことをしながら……?

「っは、馬鹿言わないでください」
「……何?」
「もう僕に構わないで下さい」

痛い、痛いよ。
心臓がナイフで切りつけられたように痛む。
血が、ドクドクと溢れて止まらない。

「どういうことだ。俺は……」
「うるさいッ!!」

怒鳴ったことに驚いたのか、先生の目が若干大きく広げられた。
戸惑いに揺れているのが、見て取れる。

「湊。話を……」
「もう、止めてください……」

涙声になっていることに気がつき、ますます自分が惨めに思えた。
結局のところ、僕はすごくこの人のことが好きで。
だからこそ、もう耐えられない。

「……本当に、貴方のことが好きだった。でもただの遊びだったんですよね? 自分のいいように動く僕を、笑っていたんですよね? 僕は……」

目元から零れ落ちた涙を手の甲で拭い、キッと先生を睨んだ。

「ただの玩具として扱われるのは、嫌なんです! これ以上僕に関わろうとしないで下さいっ。もう、貴方のところには行きませんッ」
「―――そうか」

先生が頷くのを見て、ズキッと再び胸が鋭く痛んだ。
どうして?
どうして、頷いてしまうの?

「ッ…………!」

先生に背を向け、走り出す。
引き止めてはくれなかった。
胸が痛くて、苦しくて、頭の中がごちゃごちゃで……何も、考えられなかった。
考えたくない。
走り去る瞬間に先生の顔が少しだけ悲しみに歪んだのを、そんな僕が見られるはずもなかった。






「ぅ……あっ、ぁ……」

喉が震え、嗚咽が漏れる。
中庭で僕は蹲り、ボロボロと涙を零していた。
僕から先生を拒んだのに、どうしてこんなにも辛いんだろう。
先生のことを忘れられたら楽だと思う。
けれど忘れたくないと、頭のどこかで思っている自分がいる。

「せんせ……い……」

好きだったのに。
ううん、今だって好きなのに。
どうしてこうなってしまうんだろう。
僕が欲を出したから?
先生の傍にいられただけでも、周囲の人間から見れば羨ましいことなのに。
交じり合うことさえ出来たというのに。
それなのに、先生を独り占めしたいだなんて願ったから……?

「おいおい、こーんなところで授業中に何をしているんですかぁ〜?」

ふと目の前に落ちた影と聞こえてきた声に顔を上げる。
そこにはニヤニヤと笑みを湛えた男子生徒が三人ほど立っていた。
着崩した制服に、脱色し痛んだオレンジやピンク色の髪。
この学校で教師に目を付けられている、不良グループの一員のようだった。

「ん〜? 目元が赤いでちゅね〜。かーわいそーに」
「おにーさんたちが慰めてあげようかぁ〜?」
「やめっ……」

腕を掴まれて反射的に振り払うと、男子生徒たちの目が眇められた。
いやらしい笑顔とは正反対の、冷え切った表情。
ドクッといやに心臓が大きく鳴った。

「逆らう気かぁ?」
「痛い目に遭わないと、分からないのかなぁ? こーいう温室育ちのお坊ちゃんはさぁ」
「顔は止めとけよ。勿体ねぇから」
「はーいはいはい。分かってますよぉ」

男子生徒の一人が腕を振り上げた。
思わず目を閉じて身を硬くする。

「……はは、ばーか。誰が殴るかよ」
「……え?」

胸倉を掴まれて立ち上がらされる。
男子生徒たちは舐めるように僕を見ていた。
気色の悪い視線に、肌が粟立つ感じがする。

「お前みてぇな、か〜わいい子を殴るはずがねぇだろぉ?」
「かわ……?」
「いいからさぁ。俺らのもんになれよ。可愛がってやるからさぁ」
「やぁ……ッ!?」

キスをせがまれて僕は男子生徒を突き飛ばした。
すると楽しそうに笑いながら、三人が一斉に飛び掛ってきた。

「嫌だ! やめっ……ッ」

無我夢中で抵抗していると、ゴキュッ、と物凄い音がした。
おそるおそる目を開ければ、足元に男子生徒三人が仰向けに倒れていた。
白目を向いており、額からは血が流れている。

「そ、え……え!?」

自らの両手を見つめて、それから男子生徒たちを見て、愕然とする。
戦慄にも似た震えが走った。

「ぼっ、僕って実は凄い力があった……!?」
「どうしたらそんな馬鹿な考えが浮かぶのか、一度詳しく話してもらいたいところだな」
「……!?」

掌から顔を上げると、そこには水野先生が立っていた。
どうやら先生が男子生徒たちを気絶させたらしかった。
先生は僕と目が合うと、踵を返して立ち去ろうとした。
そんな先生を、睨み付ける。

「先生のばかぁ! 何で……ッ」

助けに来てくれたんでしょ?
どうしてそのまま行ってしまうの?
ううん、そうじゃない。

「どうして、助けになんて来たの……!?」
「……何だと?」

先生の足が止まる。
僕と完全に向き合った先生は、険しい顔つきをしていた。

「だって、だって……」

ボロッと涙が零れた。
助けたりなんてせずに、放っておいてくれればいいのに。
そのほうが、先生のことを意識せずに済むのに……。

「教師として、生徒を助けるのは当たり前だ。もちろん、人間としても。それが好きな奴だったら、尚更……な」
「……え?」

僕は俯いていた顔を上げて、先生を見た。
しっかりと顔を見て分かった。
先生はひどく、哀しそうな顔をしていた。

「どういう、こと……ですか?」
「今述べた通りだ。……俺はお前を玩具としてなど扱っていなかったのだがな。だが、お前はそう感じていたのだろう?」

冷たい瞳だった。
それは本当に、心を凍てつかせるかのような……ううん、違う。
その逆だ。
先生の心が凍てついているような、そんな瞳だった。
そうさせているのは、他でもない……僕?

「だって、先生……ほかの人と、キス……してた」
「見ていたのか? あれは俺からしたわけではない。あいつが勝手にしてきただけだ」
「本当に……?」

先生からしたわけじゃ、ない…?
それじゃあ、先生は……本当に。

「当然だ。お前のように可愛い存在が傍にいたのに、他のやつに目移りするはずがないだろう」
「……せん、せ……い」

僕のことを好きでいてくれていたの?
それなのに僕、勝手に決め付けて……。
それで、先生を傷つけた?

「あ、ぁ……ごめっ……なさ……!」

先生を見ていられなかった。
冷たくしてしまったのは、自分。
突き放してしまったのは、自分。
今更そんな僕に、謝る以外に何が出来る?

「……そういう泣き顔は好きじゃないな」
「え……?」
「俺が好きなのは、快感によってむせび泣くお前の顔だ」

先生はそう言って、両肩をすくめて見せた。
浮かんでいるのは、先程とは違って、どことなく困ったような表情。

「いつからこんなに夢中になっていたのやら」
「……? 先生、何を……」
「……戻ってくる気はないか?」

何を、言われたのか。
理解するのに時間がかかった。
先生は僕に向かって両腕を広げてくれた。

「俺のところへ、来い」

僕は答える代わりに、先生に駆け寄り、抱きついた。
受け止めてくれる腕は、相変わらず温かい。
先生は何一つ変わっていなかった。
僕の知っている、一週間前のままだ。
冷たくって、でも優しくて温かい。

「先生……大好き。好き……です」
「……あんまり可愛いことを言うな。抱きたくなる」
「抱いてください」

すかさず言った僕に、先生は目を見開いた。

「……いいのか?」
「はい。先生、僕のことめちゃくちゃにしてください……ッ」



おそらく顔を真っ赤にしているだろう僕を見て、先生は小さくだけど笑みを浮かべてくれた。
それは僕たちが身体の関係を持ってから二人きりのとき初めて見る、先生の柔らかい表情だった。




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