2. 変わらない眼差し
「なあ、何で宏紀って新のことを苗字で呼んでるんだ?」
前の席に座っている生徒、都築からの問いかけに水瀬は困ったような笑みを浮かべた。
「かなり昔から一緒にいんだろ? 名前で呼び合っても変じゃないと思うんだけどな」
「でも……昔から苗字で呼び合ってるからさ。だから、しっくりくるんだよね」
水瀬が言うと、進藤も深く頷いた。
「そうそう。どう呼ぶかは個人の自由だろ」
「まぁ……そうだけどさ」
都築はどこか納得いかなさげに前を向いた。
都築の背中を見ながら、水瀬はため息をつく。
本当なら、進藤を名前で呼びたい。
そして彼からも、呼ばれたい。
けれど名前で呼び合うわけにはいかないのだ。
何故なら名前で呼び合うというだけで、精神的な距離が縮む気がするから。
友人として、親友として……仲が深まってしまう。
それはますます進藤に告白しにくい状況を作ってしまうのだから。
だから、出来ない。
進藤との親交を深めたくもあるけれど、それは友情ではなく恋情での方面なのだ。
「……名前で呼び合うってのも、悪くはねぇんだけどな」
進藤は目を細めると水瀬から離れていった。
水瀬は机に伏せ、瞼を閉じる。
どうしたら友人ではなく、恋愛対象として見てもらえるのだろう……。
考えても、その答えが出ることはなかった。
そのことも、水瀬は十分に理解していた。
考えて出るのなら、とっくにこの状況は変わっているはずなのだから。
水瀬はうっすらと目を開け、唇を噛み締めた。
「……はぁ〜」
進藤は廊下の窓から外を見下ろした。
開かれた窓からは春の香りを含んだ風が流れ込んでくる。
進藤は水瀬を名前で呼んだことがないわけではなかった。
けれど「宏紀」と呼んだ進藤に対して水瀬が笑顔で返した言葉は「なに、進藤?」だったのだ。
拒絶された、と思った。
名前で呼ぶことは勿論、これ以上、仲が深くなることを。
距離が縮まることを避けられていると、そう感じてしまったのだ。
だからそれ以来、進藤が水瀬を名前で呼ぶことはなくなった。
けれど今では、それで良かったのではないのかとも思えていた。
名前で呼び合うというだけで、距離が縮まったように感じてしまうから。
それは、進藤にとってこの上なく嬉しいことだった。
友人として、無二の親友としてだけでなく……もっと、もっと深い関係に水瀬とは進藤はなりたかったから。
けれどそれは、許されないことなのだろう。
理由なんて、言おうと思えばいくらでもある。
周囲は認めてくれないだろうし、水瀬にだって、気持ち悪がられるだろう。
それが分かっているからこそ、苗字で呼び合っていて良かったと思えるのだ。
距離が縮まれば縮まるほど、進藤は水瀬を好きになってしまう。
それでは、困るのだ。
あくまで進藤と水瀬は仲の良い友達で、その関係を壊すわけにはいかないのだから。
もしも名前で呼ばれたりしたら……進藤はきっと、想いを抑えきれなくなってしまうだろうから。
けれど頭で理解しているつもりでも、いざそのことを指摘されるとどうにも胸が重くなる。
名前で呼びたい、呼ばれたい。
そして、もっと仲良くなりたい。
そんな思いがあるからなのだろう。
「何とかしねぇとな……」
けれどこの想いも、一年耐えれば終わるのだ。
水瀬とは別々の大学に進学することになるだろうから。
そうしたら、きっと他に大切な人が出来るだろうから。
この一年間想いを告げないということに耐えられれば、水瀬とも離れられるし、そして離れることになったとしても、これからも友人としての関係を保てるのだろう。
進藤は嘆息すると、窓を閉めた。
ピシャンと音がして、風が遮断される。
忘れろ、こんな想いは。
もう何度自分に言い聞かせるために内心で呟いたことか分からない言葉を、進藤は胸中で繰り返した。