11. 恋心至上命令
「須永さん、須永さん、須永さぁーんっ!」
「な、何だよ。恥ずかしいヤツだなっ」
遠くから名前を連呼しながら走る僕を、須永は煩わしそうに眉根を寄せながら振り返った。
落し物をわざわざ届けに来たというのに、そんな顔をしないでもらいたい。
僕は須永の手にチケットを握らせると、彼の顔を見上げた。
「あの、良ければ今晩、一緒に出かけませんか?」
「はぁ? 何で俺とお前が?」
「二人の仕事を完遂できたお祝いを兼ねてに決まってるじゃないですか。聖さんとは行きましたけど、肝心の貴方とは行ってませんから」
「お前……」
須永の目が、意表を突かれたように丸くなる。
けれどすぐに、何か思い至ることがあったのか、彼の目は意地悪く細められた。
「分かったぞ。お前、俺に奢らせるつもりなんだろ」
「へ? 違いま……いっ、いひゃい! ほっぺ引っ張らないで下さいよーッ」
「魂胆が見え見えなんだよっ」
「酷いですっ。そんなセコいこと誰が考えますか! 自分で食べた物の金額くらい、自分で支払いますッ」
頬に触れている須永の手を、強く引っ掻いてから叩き落す。
彼は少しだけ眉を顰めた後、推し量るような視線を僕に向けてきた。
「う、嘘なんてついてませんからね。僕はただ、本当に須永さんと食事がしたいだけなんですから」
「……どういう風の吹き回しなんだか。それで?」
「それでとおっしゃいますと?」
「だから、どこで何を食べるんだって話だよ。誘ってくるくらいだ、考えはあるんだろ?」
僕は須永の顔を食い入るように見つめたまま、口を動かすことが出来なかった。
だってそれも仕方がないだろう。
何も考えていなかったのだから。
「おい、泉。まさかとは思うが、なーんも考えてねぇのか」
「……なーんも考えてねぇです」
「何だよそれ! 男として失格だろ。綿密なプランを練ってから誘えよな」
「しょ、衝動的な気持ちから誘ったんですもん。そんな暇、ありませんでした」
ぷいっと顔を背けると、視界の隅で須永が苦笑するのが分かった。
どうせまた、こんなことで拗ねるなんてバカだなぁ、とか思っているのだろう。
文句を言ってもいいのだけれど、この程度のことで怒るのが馬鹿馬鹿しいことなのは確かなので、僕は短息してから須永を見つめ返した。
「特に行きたい場所とか、食べたい物とかは、本当にないんです。貴方と一緒なら、どこでも僕は満足ですから」
「は……はっははは! すげー殺し文句」
「なっ!? ち、違いますからね! そんな深い――」
「まーた、深い意味はないってか? ま、いいけどよ。それでも」
須永は僕のことを散々笑うと、食堂の方へ歩き出した。
まだ約束を取り付けられていない僕は、そんな彼の後ろを慌てて着いていった。
「須永さん! あの、僕は冗談で誘っていたわけでは……っ」
「分かってるっての。行く場所は、仕事終えてから一緒に考えようぜ」
「……っ。はい!」
そういう約束をしたのが、今から五時間ほど前のこと。
課長から法外な量の仕事をそれぞれ任されてしまった僕と須永が、規定の勤務時間終了と同時に帰ることが出来るはずもなかった。
当然のように、僕たちは残業をすることになる。
それだけなら、まだ良かった。
レストランには明日行けば良いというだけの話なのだから。
けれど実際は――。
「なっ、何ですかこの豪雨は!?」
「あー。そういや台風接近中とか、聖が言ってた気がする」
「え!? もしかして上陸中だったりするんですかっ!?」
――物凄い、暴風雨に襲われていた。
だと言うのに寝坊したせいでろくにニュースを見ていなかった僕は、傘を持ってきていない。
須永も同様らしく、帰宅するべく会社から出た僕と彼は全身になす術なく雨粒を浴びていた。
暴風のせいでその勢いは、痛みを覚えるほどだ。
というか、まともに立っていられない。
「風、強すぎじゃないですかっ!? これじゃ、電車は運行されてないですよね?」
「つか、終電の時刻とっくに過ぎてるしな。家、帰れねー。お前どうする? 俺はとりあえず、ホテルに行くつもりだけど」
「近くにそんなものありましたっけ?」
「あったあった。着いて来いよ、案内してやる」
腕を引かれ、強風に吹き飛ばされそうになりながらも、懸命に須永の後を着いていく。
そうしてやっとの思いで辿り着いた先には、やけに煌びやかな外装のホテルがあった。
ピンク色のネオン管による文字看板が、点滅していて目に痛い。
頭まで痛いのは、きっと気のせいではないはず。
「あの、須永さん。もしかしてここって、ラブホ――」
「いいから、とっとと入るぞ」
「ちょっ、ま……!?」
僕は須永に手を引かれるまま、未知の領域に足を踏み入れることになってしまった。
せめて彼が女性だったならば、もう少し、抵抗は少なかっただろうに。