3. 恋心至上命令
勤務時間を終えて早々に社内から姿を消した同僚たちに、嫉妬にも似たを羨望を覚えてしまう。
連日の残業と休日出勤で、疲労はたまる一方だった。
自分の能力が人より劣っているとは思わないし、一緒に仕事をしている須永はそこについて言うならば最高の人材のはず。
それなのに僕たちだけがこうも忙しい辺り、課長は仕事の分配量をもっと考えた方がいい。
もしくは残業代を引き上げるとか。
プレゼンテーション用の資料作りをしながら無意識のうちに深い息を吐き出すと、見咎めた須永が睨みつけてきた。
「バーカ。やる気がそがれるだろ」
「え? 今日はちゃんと仕事するつもり、あったんですか?」
「さすがに“あんなこと”をされたら……サボるわけにはいかねぇだろ?」
愉しそうに目を細めた須永の台詞に、頬が熱くなっていく。
“あんなこと”というのはおそらく、僕が彼に向かって叫んでしまったことだ。
静まり返ってしまったオフィス内にいる社員たちの表情を思い出して、何とも言えない気持ちになる。
「“今夜は寝かせませんから、覚悟してください”」
「もっ、もう。お願いですから、早く忘れてくださいよ!」
「こんな大胆な台詞を大勢の前で吐かれて、忘れられるわけがねぇだろ?」
「っ……あ、貴方が締め切り間近なのに眠ってばかりだからじゃないですかっ」
それにしたって、もう少しましな言い方があったかもしれない。
これではまるで、僕たち二人が肉体関係を結んでいるかのようだ。
慌てて否定したから良かったものの、一瞬でも社員たちに勘ぐられたことを思うと居た堪れない。
「もう一度、言っておきますけど。本当に深い意味は全くないんですからね!」
「深い意味って、例えばどういうことだ? なあ、泉。教えろよ……?」
「わ、分かってるくせに訊かないで下さい!!」
不意に顔の距離を縮めてきた須永を、僕は思い切り突き飛ばしてしまった。
椅子にでもぶつかったのか、ガシャンと派手な音がする。
けれどそれを気にかけてやれないほど、心臓がバクバクと高鳴っていた。
女性のみならず男性さえも魅了するほど優れた顔立ちであることを自覚しているくせに、必要以上に近づいてこないで欲しい。
「いきなり押すんじゃねぇよ。腰打っただろうが、あぁ?」
「ちょっ……ほっぺ、引っ張らないで下さいよ!!」
「最初に手を出してきたのはお前の方だろ?」
力いっぱい頬を引っ張られ、されに捻ってから指を離される。
僕はあまりの激痛に悶絶しそうになりながら、笑っている須永を気丈にも睨みつけた。
「須永さんって、僕に対してだけ明らかに態度違いますよね! 他の人にこんな酷いこと、しないでしょう!?」
「あぁ? お前だって、俺に対してだけやけに冷たいじゃねぇか」
「貴方が意地悪なことするからですっ。何なんですか!?」
「それは……」
須永は一瞬だけ言葉を詰まらせると、神妙な顔つきで口を開いた。
「お前、やけに俺の嗜虐心を誘ってくるんだよな」
「……はい?」
「やたらと反抗的で、生意気だからかもな。俺に対して他の奴らみたいに媚びてこないし。そういう奴って、無意味に構いたくなるっつーか。無理にでも服従させたくなる」
込み上げてくる、呆れとも怒りとも言えないこの感情の正体は何なのか。
反抗的? 生意気? 媚びない? 構いたくなる? 服従させたい?
殴りかかりたくなるのは、きっと可笑しなことではないはずだ。
「そんな理由で僕に仕事押し付けたりしないでください!」
「だって楽しいんだから、仕方ねぇだろ?」
「僕は何一つ楽しくないどころか、不愉快極まりないです! どうしてくれるんですか、僕の社会生活!!」
文句を言いながらも、ずっと胸の奥に澱んでいた重たい何かが消えたような気がしていた。
おそらくそれは、彼に嫌われているのではないと知って、安心したからなのだろう。
それを認めるのは、ひどく悔しいことだけれど。