5. 恋心至上命令
昼時は社内食堂に人が流れているのか、休憩室に人気は全くなかった。
壁際にある長椅子に腰掛け、深くため息をつく。
本当なら僕も昼食を取りたかったが、財布を失くすという失態を演じてしまったのだから仕方がない。
現金やカードはもちろんのこと、免許証も入っているのに、一体どこへ落としてしまったのか。
かつて陥ったことのない危機的状況に項垂れていると、視界の隅に革靴が入ってきた。
「真昼間から辛気臭い顔してんなよ。それもこんな、誰もいない所で。まるでリストラされたのを家族に言い出せずに公園で懊悩してる、どっかのオッサンみたいだぞ」
ぽかん、と軽く額を小突かれて視線を上げれば、須永が缶コーヒーと僕の財布を片手に立っている。
――あれ?
僕は手の甲で瞼を何度か擦ると、再び須永のスーツ姿を見た。
彼の手に握られた黒色の財布は、やはり見間違いなどではない。
「それ、僕のです……!!」
「だろうな。さっき、そこの廊下で拾ったんだ。あんまりにも金が入ってなかったから、千円プラスしといてやったぜ」
「必要最低限しかお金は持ち歩かない主義なんです!」
須永から財布を奪い取って中身を確かめると、本当に千円札が一枚追加されていた。
計1232円。
わお、なんて中途半端な金額。
せめてあと2円ほどあったのなら、綺麗に数字が並ぶのに。
「なあ、232円がお前にとって必要最低限の金額なのか?」
「社内食堂は安いですから。うどん一杯100円で食べられますよ! 十分ですっ」
「素直に銀行から金を引き出すの忘れてたって認めたらどうなんだ?」
「う、うるさい人ですね」
見事に言い当てられたことが悔しくてそっぽを向くと、須永が隣に腰を下ろす気配がした。
思えばこうして、勤務と残業の時間以外で彼と話したことはなかったかもしれない。
そっと視線を横に動かせば、口元で缶コーヒーを傾ける須永とバッチリ目が合ってしまう。
「あんだよ?」
「用がなきゃ、見ちゃいけないんですか」
「それ、むしろお前に言ってやりたいところだな。“用もなく見るな”ってのは、お前の台詞だろ?」
記憶の糸を辿るものの全く思い出せない僕は、しばらく須永の顔を見つめてから小首を傾げた。
「よく覚えてますね。そんなどうでもいい僕の発言を」
「俺の記憶力を侮ってもらったら困るぜ。それにお前との会話なら、尚更、忘れるわけがねぇ」
「僕は特別なんですか?」
「予想外に直球で訊いてくるな。いや、何も考えてないのか……?」
須永に眉を顰めてまじまじと見つめられて、非常に居心地が悪くなる。
無意識のうちに顔を背けると、彼は少しだけ僕から距離をとるどころか、縮めてきたではないか。
腰に腕をまわされて離れられないようにされて、僅かに頬が熱くなった。
「す、須永さん?」
「お前さ。昨日、医務室で休んでただろ。そのときに聖と会ったよな?」
「どうして知ってるんですか!?」
「聖に言われたんだよ。“独り占めはよくありませんね”って、あの薄ら寒い笑顔でな」
聖さんの微笑と柔らかな口調を真似てから、須永は思い切り顔を顰めた。
その表情からは、並々でない嫌悪の情が滲み出ている。
本当に、仲が悪かったのか。二人とも。
「でもその台詞で、どうして僕と聖さんが出会ったことが分かるんですか?」
「分かるんだよ。随分昔から、聖とは欲しいものがいつも重なるからな。とりあえず、今の俺がお前に言えることは――」
須永は口を噤むと、僕の唇に自らのものを重ねてきた。
「あいつには極力、関わるな」
触れていた時間は本当に一瞬だけで、すぐさま命令が下される。
簡単に理解できるはずのそれが頭に入ってこないのは、おそらく直前の行為のせいだ。
僕は下唇を、そっと人差し指でなぞってみた。
今のはキスになるのか?
「なっ、なな……なぁああっ!?」
しっかりと認識した途端に、体温が3℃ほど上昇した気がする。
脳が沸騰しそうなほどの熱さに慌てふためくのだが、須永は“うるせぇな”と僕を一蹴するだけだ。
目の前に立つ男が何を考えているのか、サッパリ分からない。
あまりにも判らなさ過ぎて、彼が人間以外の何かに見えてきた。
この宇宙人、どういうつもりなのか。
「僕に、そんな……き、キスする理由は何ですか?」
「そんなの、したかったからに決まってるだろ」
「したくなったら誰にでもこういうことするんですか!? 最低にもほどが……ッ」
「勘違いしてんじゃねぇ。お前だから、したくなるんだ」
須永は空になったコーヒーの缶をゴミ箱に捨てると、休憩室を出て行ってしまった。
僕が相手だからしたくなる――この言葉に鼓動の高鳴りが抑えられないのは、どうしてなのだろうか。
うるさいくらいに胸の奥で脈動するそれに、僕はきゅっと瞼を閉じた。