8. 恋心至上命令
無事にプレゼンテーションを終えることが出来た僕は、休憩室の椅子に座ってグッタリとしていた。
お偉いさん方の相手をするのは、本当に気疲れする。
それは僕だけではないらしく、隣に座っている須永もまた、眉間にしわを寄せていた。
「……俺、やってみて思ったけど。プレゼンはやっぱり嫌いだ。何で実在しもしない、架空の製品について説明しなきゃならねぇんだ」
「まあ、もう終わったことですし。文句言っても仕方ないですよ」
「終わり――そうか。終わりなんだよな、泉との仕事」
須永が黙ったことで、ぷつり、と会話が不自然に途切れる。
僕は静かに視線を落とし、膝の上できゅっと小さな拳を作った。
とっとと終わらせてしまいたかったはずの仕事なのに、いざそのときをこうして迎えてしまうと、何故だか素直に喜べない。
達成感でいつもなら満たされるはずなのに、どうして……。
「泉との残業、好きだったんだけどな。残念だ」
「残念……? 気が楽になるんじゃなくてですか?」
「ああ。社内で一緒に過ごす時間、減るだろうからな」
僕もそのことを残念に思っているのだろうか。
――そんな、馬鹿な。
即座に否定するものの、仕事を終えて満たされるばかりか、胸にぽっかりと穴が空いて感じていることは事実なわけで。
何だか、ひどく落ち着かない気持ちになってしまった。
「なぁ、泉?」
「はい?」
改めて名前を呼ばれて顔を横へ向けると、須永が珍しく険しい表情をしていた。
重大なことを伝えようとしているのか、緊張に頬が強張っているようにも見える。
挑戦的な笑みを浮かべていることが多い須永だけれど、彼でもこんな表情をすることがあるのか。
少し、意外だ。
「その、だな。あー……っと。仕事、終わったしさ。今日は――」
「須永さん大丈夫ですか? 何だか、らしくないですよ? そんな風に言い澱むだなんて」
「いや、まあ……それはそうなんだが」
須永は居心地が悪そうに僕から視線を逸らすと、軽く前髪を掻き揚げた。
ときおり唇がひくつくところから、彼が何かを言おうとして躊躇っていることが分かる。
しばらく怪訝気に見つめていると、コツリ、と小さな靴音がした。
「泉さんも、こちらで休憩中ですか?」
「げっ。聖……!」
休憩室に入ってきた聖さんに向かって、須永はわざとらしくしかめっ面をする。
それでも聖さんは嫌な顔一つすることなく、ゆったりとした足取りで僕に近づいてきた。
須永など端から眼中にないとでも言いたげな、見事なまでの無視っぷりだ。感心するほかない。
「課長から聞いたのですが、仕事のカタがついたのですよね。本当にお疲れ様でした。須永と一緒にいることは苦痛だったでしょう。それで今晩、宜しければディナーでもいかがでしょうか? 泉さんの、労いとお祝いをかねて」
「え……。僕と、聖さんがですか?」
「はい。泉さんに都合がつくのでしたら、是非」
さりげなく須永へ嫌味を言った聖さんは、蕩けてしまいそうなほどの優しい笑顔を浮かべた。
彼からの誘いを望む女性は、社内だけでも相当な人数になるはずだ。
それなのに、男である僕が食事に同伴していいのだろうか。
何だかちょっと、申し訳ない気がする。
「予定がありましたか?」
「い、いいえっ。ただ、僕なんかよりも……」
「泉さんがいいんです」
僕の言葉を遮るようにして、聖さんはサラリと凄いことを言い放ってくれた。
か、格好いい……。
こんな恥ずかしい台詞を、こうも違和感なく言えるだなんて。
口からごく自然にこういう台詞が出てくるようになれば、僕も女性からの支持をたくさん得られるのだろうか。
そんなことを真剣に考えていると、不意に、鋭い視線を感じた。
首の辺りがチクチクと痛み、堪らず振り返れば、須永が僕を睨みつけていた。
強烈すぎるその眼差しには、一体どういう意味が込められているのだろう。
皆目検討つかない。
「泉さん?」
「あっ、はい! その、今晩ですよね? 大丈夫です」
「本当ですかっ。それでは、会社が終わってから駐車場で待ち合わせということで」
お願いします、と一礼をして、聖さんは休憩室を出て行った。
待ち合わせ場所が駐車場ということは、彼の自動車に乗せてもらえるということなのだろうか。
高価な外国製の車をイメージして心を躍らせていると、背後から思い切り頭を叩かれてしまった。
そういえば……さっき物凄い視線を向けてくる男がいたことを、忘れていた。
ギチギチと音が聞こえてきそうな程の、ぎこちない動きで振り返る。
そこには予想通りというか、不機嫌そうな顔をした須永がいるわけで、僕はついため息を吐いてしまった。
それが余計に彼を苛立たせることになるのは、理解していたけれど。
「お前、何を考えてるんだ?」
「そんな風に責められる謂れはないはずです。大体、目だけで訴えられても困ります。分かるわけないじゃないですか」
ただでさえ普段から意思の疎通が滞りなく行われていないのだ。
いくら視線に気がついたとはいえ、その意図まで汲み取れるはずがない。
僕が少しだけ胸を反らして言うと、須永はチッと小さく舌を鳴らして、横を通り過ぎて行った。