11. 幼き日の約束の証


連休明け、俺は緊張に強張った顔で書道部の部室を訪れていた。
矢野先輩の誕生日を間違えてしまった日以来、俺は彼とは顔を一度も見合わせていない。
辰巳は「兄貴はそんなこと気にするタイプじゃねーよ」と言って励ましてくれたものの、やっぱり胸には不安が残っている。
もしも今までとは違う眼差しを矢野先輩から向けられたら、俺はどうしたらいいんだろう……。
憂えた気持ちのまま視線を部室の中央へ向けると、俺が入り口付近に突っ立っていることに気づいたらしい佐伯が、不思議そうにこちらを見ていた。
彼の傍には、正しい姿勢で筆を運ぶ矢野先輩の姿がある。
ドキンドキンと、普段のときめきからとは違う、不安からの鼓動の高鳴り。
煩いくらいのそれを感じながら、俺は彼らへと近づいていった。

「やっ、睦月。今日も見学に来たのか?」

佐伯の言葉に頷くと、聞いていたらしい矢野先輩が、筆を硯に置いて顔を上げた。
辰巳と同じ、けれど彼よりも柔らかな眼差しを向ける瞳が俺を捉える。
いつもと何ら変わらない矢野先輩の表情に、俺は心底安堵した。

「あの、俺……。この前は本当に、すみませんでした。勘違いで可笑しなことしちゃって」
「気にしなくてもいいよ、そんなの。それより誰から僕の誕生日のことを訊いたんだい?」
「辰巳、です」
「――そう。全く、何やってるんだろうね。辰巳は」

矢野先輩は予想していたことだったのか、小さく嘆息すると俺に微笑みかけてくれた。

「辰巳には僕からちゃんと注意しておくからね。あんまり睦月さんをからかわないようにって。……それより睦月さんが元気そうで良かったなぁ。あの後、早退したって聞いたから心配してたんだよ?」
「し、しし…心配してくださってたんですか!? 俺のことを!?」
「え? そりゃあ、もちろん。睦月さんは大事な友人だからね」
「……あ。友人、ですか」

高潮していた気持ちが、沈んでいくのが分かる。
やっぱり俺の存在は、今の矢野先輩にとっては友人なんだ。
分かってはいたことだけれど、俺は胸に痛みを覚えて掌に爪を立てた。
落ち着け、自分。
悔しさと哀しみに取り乱すようなところを、矢野先輩に見せるわけにはいかないんだから。

「矢野先輩。俺、今日はもう帰りますね」
「え? 見学はしていかないの?」
「はい…」

矢野先輩に向かって俺は薄く微笑むと、墨の臭いが立ち込める部室を出た。
刺すような胸の痛みに、息がつまるようだった。
どうにかしてこの気持ちを晴らしたくて、歩きながらその方法を考えていると、佐伯が肩を掴んできた。
どうやら彼は、俺を追ってきていたらしい。

「何だよ、佐伯。部活中だろ。勝手に抜け出していいのか?」
「矢野先輩には許可もらった。それより睦月。大丈夫か?」
「何が」
「俺が言わなくたって、お前が一番分かってることだろ?」

佐伯は話をはぐらかそうとする俺の顔を、怒ったように睨み付けてきた。
出来る限り表情には出さないよう気をつけたつもりだったんだけど、やっぱりダメだったらしい。
佐伯には俺が泣きそうになっていたことが、バレてしまっている。

「……本当、嫌になるなぁ。佐伯って何でそうも、俺の気持ちに敏感なわけ?」
「ずっと見てきたからな。お前のこと、傍で」
「――佐伯」
「だからこそ訊きたいことがある。睦月さ、矢野先輩が好きだろ? 違うか?」

あまりにも佐伯が真剣な表情と声音で訊いてくるから、俺は怯み、何も言うことが出来なかった。
それはつまり、肯定を表す。
完全に否定の機会を逃してしまった俺は、佐伯と目を合わせることが出来ず視線を彷徨わせた。
今、彼がどんな顔をしているのか想像もつかない。
長年一緒にいた友人が実は同性愛者だったなんて、考えたこともなかっただろう。

「ご、ごめん。佐伯……。気持ち悪いよな? こんなの……っ」
「いつもネックレス身につけてるよな? それってもしかして、矢野先輩に貰ったものなのか?」

俺の言葉を遮るように問いかけられ、僅かに頷いてみせる。
佐伯には、嘘も誤魔化しも効きはしないんだ。
だったら……俺の過去の出来事も、今の気持ちも、全て話してしまおうか。
そのせいで嫌われるかもしれないし、蔑まれるかもしれないけれど、佐伯なら――分かってくれるような気がするから。






「――そうか」

全てを聞き終えた佐伯は、一言だけ呟くと、何かを考えるように黙り込んでしまった。
眉間には深いしわが寄せられている。
頼むから、俺のことを否定しないで欲しかった。
期待の篭った視線を知らず知らず佐伯に向けていると、彼は重たげに口を開いた。
そこから発せられた言葉は……。

「男同士の恋愛なんて、普通じゃない」

俺の期待を、裏切るものだった。
腐れ縁ではあったけど、佐伯とは本当に気があっていたんだ。
だからこそ理解してもらえるんじゃないかって思ったけれど、やっぱり佐伯も、常識に囚われてしまうようだった。
両肩を震わす俺に、佐伯は尚も言葉を紡ぐ。

「日本なら、な?」

――――え?
耳に届いた声音は、先程までの硬いものじゃなかった。
俯いていた顔を驚きに上げると、佐伯は苦い、けれど確かに笑みを浮かべていた。

「ほら、東洋じゃあんまりだけど、同性愛者って世界的には結構いるだろ?」
「あ、ああ。そうだな……。結婚とか許されてる国もあるからな」
「そうそう。でも日本じゃ、やっぱり同性愛者ってのは異質だ。だからお前と矢野先輩の仲を応援してやることは出来ない。でもその代わり、否定もしない。ただ受け入れてはやるよ。お前の存在と、気持ちをな」

佐伯は俺の背中を、ぽんぽんと元気付けるように叩いた。

「愚痴だとか悩みだとかあったら、聞いてやるよ。もちろんさっき言った通り、心からの応援はしてやれないけどさ。それでも俺に出来るようなことがあったら、遠慮なく言えよ。今日みたいに、一人で辛いこと抱え込んだりしようとするな」
「っ……佐伯…!」

認めてもらえることの喜び、傍で支えてくれる人がいることの有難さ。
込み上げてくる熱い感情に満面の笑みを浮かべて、俺は佐伯に抱きついた。

「ちょ、おい! 睦月っ」
「俺、佐伯と友達で本当に良かった……っ」
「―――バカ。何言ってるんだ。俺たちは友達なんかじゃない」

佐伯は俺にぎゅうぎゅう抱きしめられ、困ったように微笑みながら。

「親友だ」

優しく、そう告げてくれた。




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