16. 幼き日の約束の証


白い用紙に、墨汁を含んだ筆が滑らされる。
そうして書かれる美しい文字と、書き手である美しい矢野先輩。
二つを交互に見て、俺は感嘆のため息を漏らす。
いつ書道部を見学に来ても、矢野先輩は格好いい。
シュッと筆の走る音だけがする静かなこの部室が、最近は心地よくなりつつある。
初めは苦手だった張り詰めた空気も、今では大好きなものの一つだ。

「……ん〜。なかなか上手くいかないなー」
「え? 十分上手だと思いますけど…。矢野先輩は、気に入らないんですか?」
「うん。もうちょっと、文字に感情を込められるといいんだけど」

自分の書いた字を見つめながら、矢野先輩は眉間にしわを寄せた。
素人である俺には、彼の悩みは理解出来ない。
矢野先輩も、書道の心得がない俺に理解されたいとは思っていないだろう。
だからこそ俺は何も言わず、ただ彼の傍にいた。

「兄貴ー。ちょっといいか?」

聞きなれた声と共に部室へ姿を現したのは、矢野先輩の双子の弟である辰巳だ。
彼の視線が矢野先輩から俺に移されるのを感じて、サッと視線を床に落とす。
辰巳に助けられた一件以来、俺は彼の顔をまともに見ることが出来なくなっていた。
それは決して、泣き顔を見られたのが男として悔しかったからじゃない。
守られたことが屈辱的だったからでもない。
原因は自分でもよく分からないのだけど、ただ、頬が熱くなって居た堪れなくなるからだ。

「睦月も来てたのか…」
「あ、ああ。いちゃ悪いかよ?」
「悪くはねーよ。それより兄貴、金貸してくんね? 今日財布持ってくんの忘れちまったんだよなー」
「いいよ。明日、ちゃんと返してね」

矢野先輩は財布を学生鞄から取り出すと、辰巳に千円札を差し出した。
辰巳は受け取ると礼を言って、俺たちから離れて行ってしまった。
用件が済むとすぐに去ってしまう彼の後ろ姿に、少しだけ寂しさを覚える。
もっと傍にいて、俺に話をしてくれればいいのに。

「――ねぇ、睦月さん。辰巳と何かあったの?」
「え…? どうして、そう思うんですか?」
「最近、あんまり話してないようだから。それに……睦月さんが辰巳を避けてるように感じるんだ」

俺は矢野先輩の言葉に、息を呑んだ。
俺が辰巳を避けている……?
確かに俺は彼と目を合わせようとしないし、そう言えるのかもしれない。
矢野先輩が感じるくらいだ。
張本人である辰巳は、もっと強くそのことを認識させられているはずだ。
だから最近、彼の態度が素っ気無いんだろうか。
だから今日も、すぐに帰ってしまったんだろうか。

「あの、矢野先輩。俺……喧嘩とかしてるわけじゃないんですけど、辰巳と上手く話せないんです」
「原因は分かってる?」

いいえ、と首を振ると、矢野先輩は優しげに瞳を細めた。

「喧嘩してるわけじゃないってことが分かっただけでも、良かったよ。安心した。辰巳を嫌いになったわけじゃないんだよね?」
「あ、当たり前じゃないですか!」

言い切って、はっとなる。
最初はあんなに嫌な奴だと思っていたのに、いつから辰巳を嫌いじゃなくなっていたんだろう。
今じゃ彼のことを考えると、怒りどころか妙な緊張が生まれてくる。
ドキンドキンと鼓動まで高鳴りだして、俺はギュッと目を瞑った。

「……俺、変なんです。最近は辰巳のことばっかり考えてる。話したくてたまらないのに、いざ目の前にすると何も言えなくなっちゃう。……何でなのかなぁ? 前まではそんなことなかったのに」

ネックレスに指を触れさせるものの、もう、気持ちが落ち着くことはなかった。
俺の中で何かが、壊れつつある。
心の均衡が、崩れつつある。
いや、むしろ―――変わりつつあるのか?

「睦月さん。明日、辰巳に会いに行ってみなよ」
「え?」
「昼休み、辰巳はよく屋上で眠ってるからさ。僕に今、言ったことを伝えてみなよ。きっと楽になれる。君も……辰巳もね」

穏やかな笑みを浮かべる矢野先輩に、俺は小さく、頷いて見せた。




    TOP  BACK  NEXT


Gポイントポイ活 Amazon Yahoo 楽天

無料ホームページ 楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] 海外格安航空券 海外旅行保険が無料!