18. 幼き日の約束の証
辰巳との間に生まれていた溝――気まずい空気――がなくなったことで、俺の心はかなり軽くなっていた。
これも矢野先輩のおかげだ。
放課後になり、お礼を言おうと書道部の部室を訪れると、いつも静かなそこは大量の女子生徒で埋め尽くされていた。
彼女達の中心にいるのは紛れもなく矢野先輩で、俺は何の騒ぎかと目を瞬かせるしかなかった。
「や、矢野せんぱ…」
「ちょっと! 割り込んで来ないでよッ。みんな矢野にプレゼント渡そうと並んでるんだから!!」
「へ? わぁ!?」
女子生徒に突き飛ばされ、床に尻餅をついてしまう。
俺が呆気に取られていると、矢野先輩が気づいたらしく心配そうな視線を投げかけてきた。
俺は彼に向かって大丈夫だという意味を込めて微笑むと、部室から離れて行った。
結局何の騒ぎなのか、サッパリ分からなかったな。
プレゼントをあげるために並んでる、とか言ってたけど……。
「――あれ?」
廊下の少し先に、辰巳が立っているのが見えた。
見たことのない女子生徒と一緒に。
「……な、んか。意外かも」
辰巳は矢野先輩同様に綺麗な顔をしているけれど、彼が女子生徒と話しているところは今まで見たことがなかった。
――俺が見たことないだけで、本当は一緒に過ごすことが多いのかもしれないんじゃないか?
浮かんだ考えに、胸の奥が疼く。
嫌だな。
軽くしたはずの心が、ずっしりと重くなった気がする。
「辰巳、誕生日おめでとう」
「ありがとな」
弾んだ声に床へ落としていた視線をのろのろと上げれば、女子生徒に向かって微笑む辰巳の姿があった。
ああ、そうか。
今日が彼らの、本当の誕生日だったのか……。
女子生徒は辰巳の笑顔にぽっと頬を赤らめて、はにかんで見せた。
俺が誕生日のときなんて、女子は誰も祝ってくれないのに。
っていうかそれ以前に、みんな俺の誕生日を知らないだろう。
けれど辰巳たちはこうしてたくさんの人たちに祝われているわけで――俺とは違う存在なんだって、実感させられる。
何だかそれが、無性に悔しかった。
「よぉ、睦月。こーんなとこで突っ立って、何してんだ?」
女子生徒との会話を済ませたんだろう辰巳が、いつの間にか俺の傍に立っていた。
手には、綺麗な包装紙に包まれた箱がある。
「……誕生日、今日だったのか」
「あ? そういや、本当の日付は教えてなかったな。……祝ってくれるのか?」
「もう十分祝ってもらったんじゃないのか」
俺は素っ気無く言うと、辰巳の横をすり抜けた。
今日はもう、帰ろう。
寝ればこの不愉快な気持ちも、きっと消えるはずだから。
「はは〜ん? さてはお前、妬いてるな?」
「ばっ……だだ、誰が妬いてるだって!?」
俺はよせばいいのに、つい言い返してしまった。
辰巳はニヤニヤと笑みを浮かべて、俺のことを興味深そうに見ている。
うぅ、相変わらず嫌な表情だ……!!
「お前以外に誰がいるんだよ。……ったく。俺の作り笑いが見れる奴らを羨むなんて、どうかしてるぜ」
「作り笑い?」
「当たり前だろ。さっきまでのが、俺の自然な笑顔だとでも思ってたのか?」
小馬鹿にするように見てくる辰巳に、恥ずかしさと悔しさが込み上げてくる。
辰巳の作り笑いを、俺は見抜くことが出来なかった……?
「あ、あんな嬉しそうに笑われたら、勘違いするのも無理ないだろ!」
「だからお前は馬鹿なんだ。まあ、とにかく。そういうわけだから……」
辰巳の大きな手が、俺の腕を掴む。
そのまま、彼の方へと引き寄せられて――。
あれ、何だろう。
前にもこんなことがあったような……?
「その泣きそうな顔、止めろ」
「ん、ふっ……?」
辰巳と記憶の中にある少年の幻影とが重なった直後に、柔らかなものが唇に触れた。
何をされているのか理解する前に、辰巳の顔が俺から離れる。
「た、辰巳…?」
「――あれ。俺、何でキスなんて……」
辰巳は不思議そうに呟いた後、俺のことをじっと見つめてきた。
その、力強い意思の光を灯す瞳に。
俺へ触れてきた、形のいい唇に。
否応なしに頬が熱くなり、鼓動が大きな音を立て始める。
「……睦月」
「あ…」
囁かれて、びくっと肩を竦めてしまう。
ただ名前を呼ばれただけなのに、どうしてこんなにもドキドキするんだろう……?
辰巳と目を合わせ続けることが出来ずに視線を横へ逸らすと、茫然とこちらを見ている佐伯の姿があった。
「――――っ……。は、はぁ!?」
瞬間的にぶっ飛んだ意識が戻ってくると同時に、どっと汗が噴き出す。
なな、何で佐伯がここにいるんだ!?
わたわたと所在なさげに視線を泳がせていると、佐伯に気づいたらしい辰巳がため息をついた。
「思いっきり見られてたみたい、だな」
「佐伯ぃ…!!」
「ごっ、ごめん。まさかこんな所でキスしてるなんて思わなくて――っていうか、睦月! 矢野先輩とうまくいってたのなら、そう言えよな!!」
佐伯の言葉に、ピクッと辰巳の眉が動く。
「矢野、先輩だって…?」
「え? あ、はい。睦月ってば凄いんですよー。寝ても覚めても貴方のことばかり考えていて」
ニッコリと微笑む佐伯に、俺はハッとなった。
佐伯は矢野先輩に双子の弟――辰巳――がいることを知らないんだ。
きっと彼は、辰巳を矢野先輩だと勘違いしている……!
「書道部に来ていたのも、実際は俺に会うためじゃなくて、貴方に会うためだったんですよ」
「さ、佐伯!」
俺は佐伯の言葉を遮るように叫んだのだけれど、それはもう、遅かった。
辰巳の耳には、全て届いてしまっていた。
彼は佐伯の言葉をどう捉えたのか、ひどく険しい表情を浮かべている。
「た、辰巳…。あの、俺」
「そういうこと、だったのか……。睦月が俺に近づいてきた目的は、兄貴の情報を引き出すためだったのか」
「ちがっ…!?」
「納得がいったぜ。どうして俺なんかと、一緒にいようとするのか」
「違う! 違うんだってば。辰巳!」
「何が違うっていうんだよ? ……思わせぶりな態度、見せやがって。――あぁ、もうこんな時間か。俺、そろそろ帰るな。それじゃ、またな」
辰巳はいつもと何一つ変わらない表情のまま俺に片手を振ると、歩いて行ってしまった。
追いかけて否定しなければ、と思った。
けれど、何を?
だって俺は実際に、矢野先輩の誕生日を辰巳から訊き出そうとしてなかったか……?
「え? ちょ、睦月。どういうことだよ? 辰巳って誰だよ? あれ、矢野先輩じゃなかったのか?」
佐伯の質問に答えてやれるだけの余裕が、俺にはなかった。
じっとりとした汗を、掌に握る。
何だ、この感覚……?
「睦月、大丈夫か…?」
「だ、大丈夫に決まってるだろ。……こんなの、平気。だってそうじゃないと、可笑しい」
「でも、顔色メチャメチャ悪いじゃないか」
「うるさい。大丈夫だって言ってるだろ!」
佐伯に荒々しく言い返しつつも、胸は締め付けられるように痛んでいた。
どうしてこんなにも、辛く感じるんだろう。
もう辰巳を利用して、矢野先輩の情報を手に入れることが出来なさそうだから?
勉強だとか、いろいろなことに手助けしてもらえなさそうだから?
だからこんなにも、痛いのか?
「ッ――!」
この詰まるような息苦しさがどういう意味を持っているのか、今の俺には、理解することが出来なかった。