21. 幼き日の約束の証
放課後になり、ひっそりと静まる廊下を歩いていく。
野球のバッドが白球を打つ高い音が、窓からは聞こえてきていた。
ガララッと教室のドアが開かれる音がして、そこから矢野先輩が姿を現す。
彼は俺を目に留めると、柔らかく微笑んだ。
「一日ぶり、かな? 表情が変わったね」
「……決めたんです。辰巳に気持ちを伝えるって」
「うん。それが僕もいいと思うよ。ただ、辰巳は素直じゃないから、冷たい素振りを見せるだろうけど――」
「大丈夫です。どんな態度を取られたって、俺がすることは変わりません」
拒絶されるのか、受け入れてもらえるのか。
どちらなのか考えると、不安に胸が押し潰されそうになるけれど。
「……人が出来ることって、結局は『やる』か『やらない』かのどちらかなんですよね」
その二択しかないのなら、俺は少しでも可能性がある方に賭けてみたい。
だからこそ、辰巳に会ってきちんと言うんだ。
大好きだという、何にも代え難い、この熱い気持ちを。
「矢野先輩、応援してくれますか?」
「もちろん。辰巳、まだクラスにいると思うから。行っておいで。いい報告を期待してるね」
にこっと笑う矢野先輩に俺も微笑を返すと、再び歩み始めた。
辰巳のいる、教室へ向かって。
++++++
教室のドアの取っ手にそっと手をかけると、俺はゆっくりとスライドさせた。
カタカタと小さな音が立ち、茜色に染まった教室の中心にいた辰巳が、不審気にこちらを振り返る。
途端に、彼の表情が曇るのを感じた。
「辰巳……」
「……は、ははっ。何か久しぶりだな、睦月?」
俺が名前を呼ぶと、強張っていた辰巳の表情が微笑へと変化する。
けれども目は、全く笑ってなどいなかった。
どこまでも無感情で、覇気が感じられない彼の瞳に、ズキズキと胸の奥が痛みを発しだす。
辰巳にそんな顔をさせてしまっているのは、紛れもなく、俺のせいなんだ。
「わざわざ俺の教室まで来て、一体何の用だよ? 数学で分からないことでもあるのか?」
「そうじゃない…。俺は」
「悪いけど、今日はガム持ってないから」
「そんなこと、どうでもいい。俺は……」
「お前って部活どこにも所属してねーのか? ま、俺もそうだけど。でも入部してた方が、青春を謳歌出来るんじゃ…」
「辰巳! 俺の話、聞けよ!!」
俺の話を聞くことを、辰巳は頑なに拒んでいるようだった。
それでも突き放すことなくこうして接してくれているのは、俺との距離を、ある一定のところに留めておきたいからだ。
きっとそれは、俺を傷つけないようにするために。
辰巳は自分が気丈な振る舞いを続けていれば、俺が罪悪感を感じずに済むだろうとか、そんなしょうもないことを考えているんだろう。
どうしようもないくらいに馬鹿で、でもだからこそ、愛しい。
「辰巳のこと……好きなんだ」
自然と唇から、想いが言葉となって零れた。
辰巳はもちろん聞こえていただろうけど、何も言ってはくれなかった。
ただ、じっ……と俺のことを見つめるだけだ。
先程までの作り笑いとは違う引き締まった表情を浮かべる彼のもとに、静かに歩み寄る。
「全部を話すから。……俺、矢野先輩と仲良くなりたかったんだ。そのために、情報が欲しかった。だから辰巳から訊きだそうとした」
「誕生日のことだろ? 俺にプレゼントする気は、ハナからなかったんだよな?」
頷くと、辰巳は嘆息して机に置いてある学生鞄を手に取った。
俺を見る彼の瞳に、蔑むような冷たさが加わる。
「それで? そんなお前が、どーして俺に向かって好きだなんてこと抜かしてんだ。そうやって俺をほだして、また利用するつもりなのか? 兄貴と親しくなるために?」
「違うっ。信じてはもらえないかもしれないけど。でも今は、違うんだ。矢野先輩のことが好きなんだってずっと思ってたけど、今は……」
俺は辰巳の制服を、ギュッと掴んだ。
その手は緊張と悲しみで、カタカタと情けなく震えている。
「俺が……好きなのは、辰巳だから……ッ」
―――誰が大切なのか、途中から分からなくなっていた。
俺にシルバーネックレスをくれた矢野先輩なのか、それとも一緒にいて楽しい辰巳なのか。
考えることさえ、放棄していた。
それで辰巳を深く傷つけてしまったけれど、この気持ちはどうしても、抑えることは出来なかった。
「睦月。からかうのはいい加減にしろ。冗談にしてもタチが悪すぎるぞ」
「本気だからっ。俺は……辰巳のこと、いつの間にか好きになっちゃってたんだっ。喧嘩ばかりしてたけど…そういう言い合いだって、楽しくて……っ」
声が震えてしまうのが情けなくって、それでも辰巳の顔を見つめて、言葉を続ける。
精一杯に、余すことなくこの気持ちを伝えるために。
「このまま離れ離れになるなんて嫌だ…! 前みたいに、いっぱい話したい。気兼ねなく喧嘩して、仲直りして、一緒に笑いあいたい…っ。好きなんだもん。嫌だ、こんなのっ。もっと辰巳と一緒にいたい。キスだってしたい。ぎゅって抱きしめても欲しいよ……!!」
泣き落としだなんて卑怯なことをするつもりじゃなかったけれど、零れる涙を止められはしなかった。
ボロボロ、ボロボロ。
次から次へと、頬を透明な粒が滑り落ちていく。
矢野先輩には強気な態度を見せたけれど、やっぱり辰巳に冷たい目で見られるのは苦しかった。
懸命に声を押し殺そうとしてもどうしても嗚咽が漏れてしまい、両肩を震わせていると、辰巳が顔を覗き込んできた。
「……ぶっさいくなツラしやがって。何を必死になってんだよ、睦月は」
「んっ、んぅ…!?」
ぐいっと、親指の腹で目元に溜まった涙を乱暴に拭われる。
擦られた肌がヒリヒリして批難の目を向けると、辰巳は小馬鹿にするような、けれど優しい眼差しで俺を見ていた。
そこには先程までの、蔑むような様子は一切ない。
ドクンドクンと、脳が現状を理解する前に、脈拍が先走って上がっていく。
辰巳は口の端を片方だけ上げると、顔を近づけてきた。
「んなツラ下げられて好きでい続けられるの、俺くらいだぜ? 感謝しろよな」
柔らかく湿った感触が、唇に触れる。
初めて交わした口付けはすぐに終わってしまったけれど、今回のものは、そうじゃなかった。
愛しそうに、優しく唇を吸い上げられる。
その気持ちよさにどうかなりそうになりながら薄っすらと唇を開くと、辰巳の舌が口腔に滑り込んできた。
身じろぎをする俺を、彼は逃がさないとばかりに強く抱きしめる。
それは痛いくらいなのに、触れてくる唇や舌はどこまでも優しくて、甘い。
「ぷはっ…ぁ…。た、つみ……?」
息苦しさに霞む視界のまま辰巳を見上げると、彼の唇と俺の唇との間に、糸が引いていることに気づく。
そのあまりのいやらしさと緩やかな快楽に意識が朦朧として瞼を閉じてしまいそうになるけれど、俺は何とか堪えて、辰巳の制服を引っ張った。
「……さっき何て言ったの? よく聞こえなかったから、もう一度言って欲しい……」
「好きだって言ったんだよ。睦月のこと」
「……もっと」
「あ?」
「もっと、言って欲しい。大きい声で、もっと……」
辰巳はガラにもなく顔を紅潮させると、俺を自分の身体から引き離した。
それから彼はいつの間にやら手放していたらしい学生鞄を床から拾い上げると、俺を一瞥して、歩き出した。
「た、辰巳! 何で……っ!?」
慌てて後を追いかけて腕を掴むと、辰巳は不機嫌そうに口を開いた。
「今じゃなくたっていいだろ。――俺の家で、飽きるくらい聞かせてやるよ」
それはつまり、俺と付き合ってくれるということ……?
俺は辰巳を見つめる瞳に、再び涙が溢れるのを感じた。
「何で泣くんだよ…!」
「嬉し涙って言葉、辰巳は知らないのか……?」
泣き笑いを浮かべながら言うと、辰巳は俺から視線を逸らし、手を差し出してきた。
握ってもいい、ということだろうか。
俺は鼓動の高鳴りに満足感を覚えながら、そっと彼の掌を握り返した。
++++++
黄金色の空の下を、二人で歩いていく。
こんな風に手を繋いだまま辰巳と一緒に道を歩く日が来るなんて、考えてもいなかった。
はにかみつつもぐすっと鼻をすすると、辰巳が少しだけ困ったように眉間にしわを寄せた。
「――前々から思ってたことだけど。睦月は涙腺が緩すぎるだろ。この泣き虫が。とっとと直せ」
「なっ……!?」
先程までの優しげな声音はどこへやら、ツンツンとした棘を感じる言い方に、俺は唖然となって辰巳を見上げた。
せっかくいい雰囲気だったのに、どうしてそれを壊してしまうんだろうかこの男は……!!
「泣き虫で悪かったな!! でも、別にそれでもいいんだよっ。だって俺が泣いたら、辰巳が助けに来てくれるんだろ!?」
「あ、あのなぁーっ。俺がいつでも助けに来ると思ったら大間違いだぜ!? ずっと傍にいるわけじゃねぇんだからッ」
「だったらずっと傍にいればいいじゃないかッ」
「―――ッ……。ば、ばっかじゃねーのか!?」
辰巳は俺と繋いでいた手をバッと勢いよく離してしまった。
「ちょ、何で離すんだよ!」
「馬鹿なことばっか言うからだろーがこの馬鹿ッ」
「馬鹿で始まって馬鹿で言い終えるのって正直どうかと思うんだ、辰巳!!」
「うるさいっ」
辰巳は俺の発言を一蹴すると、ふんっと鼻を鳴らして歩いていってしまう。
イマイチ辰巳の行動理念が理解出来ない俺は、不満げに唇を尖らせたまま後を追った。
どうしていつもいつも、言い合いになってしまうんだろう。
もちろんこれが嫌なわけじゃないんだけど、今は罵り合うよりも睦言を交わしたかった。
けれども辰巳の背中からは並々ならぬ拒絶オーラが放たれているわけで、俺は一体どうしたらいいのか。
「はぁー。辰巳さぁ、俺のこと本気で好き?」
「……早くも疑うのか」
「俺だって恋人になって間もないのに、気持ちを疑ったりなんてしたくないけど……」
「だったら疑うなっ。俺が睦月を想う気持ちに偽りなんてねーんだからッ。そうじゃなきゃ……キスなんて誰がするか!」
自分で言って恥ずかしくなったのか、辰巳は口を噤むと再び早足で歩き始めた。
その耳はやけに、赤い。
あぁ、何だそういうことか……。
さっきからやけに素っ気無い態度なのは、照れ隠しのつもりだったのか。
堪えきれずにくくっと声に出して笑ってしまうと、辰巳に睨みつけられてしまった。
「だーかーらー、そうやってすぐに怒るなよっ。もう少し俺に優しくしろってば!!」
「十分優しいと思うんだけどな、俺はッ」
語尾荒く言い切った辰巳の視線が、俺の胸元へ落とされるのが分かった。
そこには矢野先輩からもらった、銀色のネックレスがある。
辰巳と付き合っているんだし、もうこれは、付けているべきじゃないよな。
夕焼けの光を反射して眩しいほどに輝くそれを外しにかかると、辰巳が懐かしそうに目を細めた。
そうして独白するように呟かれた言葉は、今までの俺の考えを、そして認識を、全てひっくり返すものだった。
「お前、まだそれ……大切にしてくれてんだな」
あげた甲斐があるぜ、と笑った辰巳から。
俺はしばらくの間、目を離すことが出来なかった。