4. 幼き日の約束の証


俺は矢野先輩の存在を知ってから、ちょくちょく書道部に顔を出しに行っていた。
口実としては、佐伯に会うために。
本当の目的としては、もちろん、矢野先輩と仲良くなるために。
今日も会いに行ったのだけれど、彼の姿は見当たらなかった。
どうやら購買に飲み物を買いに行っているらしい。
そんなわけで俺は矢野先輩の姿を追って、部室から購買前まで移動してきていた。
昼休みには人で埋め尽くされるここも、放課後なだけあって閑散としている。
俺は缶コーヒーを片手に立っている矢野先輩の姿を見つけて、背後から駆け寄っていった。

「やーの先輩!」
「おわっ!?」

ちょっとした出来心というか、冗談半分で背中を押したんだけど、勢いをつけ過ぎてしまったらしい。
矢野先輩は俺の予想よりも遥かに前のめりになってしまった。
その上、缶コーヒーの中身が零れてしまったらしく、彼の制服が茶色に変色する。
俺はそれを見て、ただ顔を青ざめさせることしか出来なかった。
な、何をやっているんだ俺は……!?
矢野先輩にどう声をかけていいものか分からず、とりあえず謝ろうと口を開くと、怒りを押し殺したような声が耳に入った。

「せ、せんぱ…い? あの、俺……」
「ふざけんじゃねぇっつってんだよ、このクソガキがぁ!」

振り返った先輩は、眦を裂くように俺を睨みつけてきた。
例えるならば、そう……鬼神だ。
鬼の如く怒り狂う矢野先輩の姿に、俺は恐怖して縮こまることしか出来なかった。
そんな俺にますます腹を立てたらしい彼は、胸倉を引っ掴んできた。

「おいっ、てめぇ聞いてんのかコラ!?」
「ご、ごめんなさい! こんなことになるなんて、本当に思っていなくて……っ!!」

今までの矢野先輩からは考えられない尊大な態度に、俺は混乱しつつもひたすら謝罪を口にした。
あんなに温厚で優しかったのに、この変貌っぷりは一体なんだ?
これじゃ、全くの別人じゃないか!!
俺はいつ怒鳴られるものかとビクビク肩を震わせていたのだけれど、それ以上大声を出されることはなかった。
変わりに聞こえてきたのは、穏やかな声。

「悪気はなかったんだろうから、そんなに怒っちゃダメだよ。辰巳?」

それは目の前にいる鬼神からではなく、背後から発せられたものだった。
驚きに振り返ると、困ったように眉尻を下げる矢野先輩が立っている。
ん?
矢野、先輩……?

「え、え…えぇ!?」

俺は目の前に立つ鬼神のような矢野先輩と、背後に立つ天使のような矢野先輩とを見比べた。
全くもって事態が呑み込めない。

「な、なな…何だよこれぇ!? 矢野先輩が二人いる!?」

俺の叫びに二人の矢野先輩は顔を見合わせると、気まずそうな表情を浮かべた。

「……まぁ、間違っちゃいねーんだけどな。それも」
「そうだね。ごめん、睦月さん。混乱させちゃって。僕達は双子なんだ」
「ふ、双子…!?」

初めて耳にした情報に、俺は目を見開いた。
矢野先輩に双子がいるだなんて、全く知らなかった。
そういえば公園で矢野先輩と遊んでいた、幼少の頃。
家族や自分についての話は、ほとんどした覚えがなかった。
話すのは今から何をして遊ぶのか――そればっかりだったから。

「び、びっくりした。そういうことだったんですね。良かったー。てっきり俺は、矢野先輩が野蛮人にな……やべ」

バッと口を手で覆い隠すのだが、時既に遅し。
こめかみに青筋を浮かべる鬼神――確か辰巳と言ったか?――が、俺に強烈過ぎる眼差しを向けていた。

「や、やだなぁー。そんなじっと見つめないで? 照れちゃいますから!」
「ざけんなよ!! 大体、誰が野蛮人だこのブ男が!」
「ぶっ、ぶお……!?」

ブ男ってあれだろ、不細工な男の略だろ……!?
そりゃ確かに、俺の顔立ちは十人並みだ。
でもだからこそ、ブスには分類されないはずなのに!!

「しょ、初対面の人間に対して何つー失礼なこと言ってくれてんだお前!!」
「はぁ!? てめぇだって同じだろ!?」
「それは俺がちゃんと謝ったのに、お前が怒り続けるからだろ!? 野蛮人扱いされても可笑しくないことに気づけッ」
「じょ、上級生に対してその態度…! いい度胸じゃねーかよっ。てめぇ、名乗りやがれ!!」
「睦月だよ! その怒るしか出来ない脳みそに刻み込んでおくんだなっ」
「――む、つきだって? ……はっ、そうか。上等! 俺は辰巳だっ。てめぇこそ忘れないよう、小さくてスカスカな脳みそに刻んでおくんだな!!」

偉そうにふんぞり返って、辰巳が不敵な笑みを浮かべる。
思わず鼻っ柱をへし折ってやりたくなるようなムカつく表情だ。
互いに顔を寄せ合って激しい睨み合いをしていると、矢野先輩が間に割って入ってきた。

「邪魔すんじゃねぇよ、兄貴!」
「あのねぇ、辰巳。下級生相手に敵意剥き出しでどうするの? もう少し大人にならないと」
「うわー、言われてやんの〜。情けなーい」
「睦月さんもだよ。辰巳は上級生なんだから。言動を改めるべきだ」
「は、はい……」

大好きな矢野先輩に叱られてしまい、シュンと項垂れてしまう。
どうしよう、矢野先輩に呆れられちゃった……!!
悔しさに唇を噛みながら視線を上げると、俺を見ながらにやにやと嬉しそうに笑う辰巳が目に入った。
あ、あの野郎……っ。
全く反省してないじゃないか!!

「ほら、互いに謝って。仲直りの握手もね」
「ごめんなさい。……心狭い辰巳さん」
「すみませんでしたー。ブスにブスは禁句だったな〜」

互いに実に朗らかな笑顔を浮かべたまま、俺たちは熱い握手を交わした。
それはそれは痛い、力強い握手を。
矢野先輩が呆れたように額を抑えるのが見えたけれど、俺は気のせいだと言い聞かせることにしておいた。




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