2. 光side
家が田舎にあるオレが高校に通うためには、都心部に電車に乗って行かなければならない。
一年間休むことなく通い続けたものの、やはり満員電車の苦痛に慣れることはなかった。
ギュウギュウと押さえつけられ、締め付けられる感覚。
息苦しさに眉根を寄せていると、臀部に違和感を覚えた。
――手だ。
それも不可抗力で当たっているという感じではない。
明らかにそれ目的で蠢かされているのだろう指に、オレは嫌悪を露に振り返った。
背後に立っているのは四十歳そこそこのスーツを着た男だ。
オレと目が合うと、彼は唾液に滑る舌で見せ付けるように自分の唇を舐めて見せた。
ゾクッと寒気が走る。
同時に、電車に乗るたびに痴漢に襲われる自分の容姿に憤りを感じる。
もっと体格が良ければ、こんな目に遭うことはないだろうに……。
不意に男の指が、ズボンの上から尻の割れ目をなぞった。
「っ……! お前、いい加減にッ」
再び肩越しに振り返って男を睨みつけようとして、固まる。
男のすぐ傍に、オレと同じ制服に身を包む男子生徒が険しい表情で立っていたからだ
。
彼の手は男の腕を掴んでいる。
指先が白くなっているところから、かなりの力を込めていることが窺えた。
まさかこの冷たい現代社会で助けてもらえることがあると思っていなかったオレは、半ば茫然となって男子生徒を見つめた。
……見惚れていた、という表現の方がいいかもしれない。
冷ややかな光を湛えた藍色の瞳。およそ日本人とは思えないその虹彩に、ドキリと心臓が跳ねる。
艶のある漆黒の髪は、透けるような白い肌によく映えていた。
何より凛とした整ったその顔立ち――これで見惚れるなという方が無理がある。
男子生徒はオレの視線に気づいたのか少しだけ眉を顰めると、男の腕を背後に捻り上げた。
「くっ! 何だね君は!?」
「何? それはこっちの台詞だなオッサン。毎日毎日、よくもまぁ飽きないもんだ」
「な、何のことだ? 私は何も……」
「証拠ならある」
男子生徒はポケットから携帯電話を取り出した。
パチンと開かれた画面に映るのは、オレがこの男に触れられている、紛うことなき痴漢のシーン。
男の顔が面白いくらいに、みるみる青ざめていく。
「そ、それは……ぅ、くそ。頼む、誰にも」
「断る」
しれっと言いきる男子生徒に、オレは爽快感を得ていた。
いつも嫌な目に遭わされてばかりだった痴漢に、一泡吹かせられているのだ。
スカッとしないはずがない。
オレと男子生徒は電車が目的の駅に着くと、男を駅員に突き出してやった。
「助かったよ」
「別に。嫌そうな顔してたから、止めてやっただけだ」
さも当然なことをしたまでだと言う男子生徒に、オレは心底感心していた。
そういう当然なことこそが、今の世の中ではないがしろにされやすい。
オレは男子生徒にお礼を言うと、じっと両の瞳を覗き込んだ。
やはり見間違いなどではなく、藍色の虹彩は健在だった。
太陽の光が差し込んだことで、より深みが増している。
「……? どうした、急に」
「あ、ご……ごめん」
まさか美しさに見惚れていた、などと口で言えるはずもない。
急速に頬が熱くなっていくのを感じながら、オレは男子生徒から距離をとった。
「同じ制服ってことは、高校も同じだよな? せっかくだから、一緒に行かないか?」
するりと喉から出た言葉に、オレは驚いていた。
オレは昔から人見知りが激しくて、なかなか友達が作れないタイプだった。
それなのに、どうしてこんなにもこの男子生徒に対して積極的になっているのだろう。
「それはいいけど。何で誘われた俺以上に、お前が驚いた顔してんだ」
ぽん、と頭に手を置かれる。
視線を上げれば、男子生徒がさも可笑しそうに目を細めてオレを見ていた。
ああ、彼も笑うんだ。
そんな当たり前のことをやけに感慨深く感じるのは、男子生徒の顔立ちが整いすぎているからだろう。
繊細な指先を持つ職人が造った人形のような、けれど何故だか懐かしい顔。
初めて会ったはずなのに。
どことなく目元が父さんに似ている感じがするから、そう思うのだろうか。
「おい。人の話、聞いてるか? あんまり時間はないんだ。置いてくぞ」
「あっ、ま……待てよ!」
言うや否や歩き出した男子生徒を追う。
オレよりも背が高いだけあって歩幅も広く、彼に合わせて歩くのはなかなか大変だ。
不意に視線を感じて顔を上げると、男子生徒と目が合った。
「そういや、まだ名前を聞いてなかったな」
「あー…忘れてた」
「俺は辻村陣だ。好きに呼んでくれ。お前は?」
「オレは二宮光。よろしく」
親愛の情を込めて微笑むのだが、辻村は笑みを返してくれなかった。
それどころか、険しい表情で見つめ返してくる。
「お前の父親、もしかして直純って名前か」
「え? そ、そうだけど。何で知ってるんだ?」
オレの父さんは有名な会社の社長だったりする。ちなみにとんでもない親ばか。
だから父さんの名前を知っている人間がいるのは不思議ではないが、オレの名前から父さんの名前を推測出来るはずがない。
オレが首を傾げると、僅かに辻村は眉を寄せた。
「いや……そうか、お前が」
「……辻村?」
辻村はオレの名前を呟くと、それきり、黙り込んでしまった。