3. 陣side
夕飯の準備をし終えてエプロンを外していると、玄関のドアが乱暴に開かれる音がした。
荒々しい足音を立てながら、男がリビングに入ってくる。
「料理……はしてあるみたいだな。後で俺の部屋に酒をもってこい」
男はそれだけ言うと自室に向かっていった。
何もされなかったことに安堵しながら、冷蔵庫を開ける。
数本のよく冷えたワインを取り出すと、クラリと眩暈がした。
炊事洗濯に掃除、セックスに生活費を稼ぐために暇あらばしなければならないバイト。
思ったより身体に負担がかかっているらしい。
俺は目頭を指で軽く押さえると、深く息を吐き出した。
――二宮光が、同じ学校にいた。
これも疲労感の原因だろう。
鈍痛を頭に覚えながら、料理とワインを持って男の部屋に向かった。
ドアは開いてあったので、ノックはせずに室内に足を踏み入れる。
「持ってきた」
「ああ。そこに置いてくれ」
指し示された机の上に、そっと並べていく。
出来る限り、音を立てないようにしながら。
以前、五月蝿いと頬を叩かれたことがあるのだ。
もちろんその後は乱暴に犯されたわけで、これは俺のトラウマにもなっている。
「おい」
男の呼びかけに、ビクリと身体が震えた。
何か気に食わないことをしてしまったのだろうか――おそるおそる振り返ると、男は椅子に座って俺のことを見つめていた。
指は忙しなく肘掛を叩いている。
「いつになく、思いつめた顔をしてるな。何か学校であったのか?」
ゆるく口の端を上げるこの男はきっと、勘付いてしまっている。
嘘を言っても仕方がない、か。
俺は男に向き合うと、ゆっくりと唇を開いた。
「っ……学校で、二宮光にあった」
「ほぉ? そういえばこの前、二宮光はお前と同じ学校の制服を着ていたなぁ。……で、どうだった。出会った感想は」
二宮光の姿を思い浮かべる。
男にしては低い背に、華奢な印象を受ける身体つき。
髪の毛は黒というより茶色に近く、瞳は穏やかな琥珀色をしていた。
「確かに、俺とは似ても似つかなかった」
「だろう? 俺も直純と一緒にいるところを見かけなければ、気づくことはなかっただろうな」
男は立ち上がると、料理が置かれている机に近づいた。
「幸せそうだったか? お前とは違って」
「――ああ。そうだな」
「……そうか。それはそれは」
男はグラスに酒を注ぎながら、小さく笑みを浮かべた。
宝石のようにカットされた氷が、赤い液体に沈んで澄んだ音を立てる。
男の瞳はどこか虚ろだった。
少しだけ怪訝に思ったが、いつものことだとすぐに払拭する。
「アンタと二宮直純は、どういう関係なんだ」
「どういう関係、というと?」
「憎んでるんだろ? アンタの口ぶりからは、そんな感じがした」
「……ふん。昔、顔馴染みだった。それだけだ」
男はそれっきり口を閉ざすと、グラスを傾けた。
ごくりと嚥下するごとに上下する男の喉仏を、見るともなしに眺める。
二宮家と辻村家――精子を提供した側と提供された側。
これ以上の関係があるのは明らかだが、考えたところで判るはずもない。
訊いたところで答えてもくれなさそうなので、俺は自室へ向かうために踵を返した。
「――直純」
その際に耳に届いた呟きは、どこか掠れた悲しげなものだった。