17. それでもまた、恋を (有原視点)


耳に届いた微かな声に、俺は薄っすらと瞼を開いた。
身体は重たく、神経が麻痺しているかのように動かない。
次第に定まり始めた焦点に、白い何かが捉えられる。
それはときおりビクンと揺れるもの。
声は、それが放っているらしい。

「……は、ぁ」

一度、目を瞑って。
俺は再び、ゆっくりと、瞼を開いた。
先程よりもクリアになった視界に映る、白い四肢。
鮮明に聞こえるようになった声は、聞き覚えのあるものだった。
けれどそれは、俺が普段聞いていたものよりも、よほど高くて、官能的な響きを含んでいた。

「…ぁんっ、あっ、あぁ…!」

脱ぎ捨てられた制服に、艶かしい肢体。
快楽によって虚ろとなった瞳には、涙が滲んでいて。

――写真でしか見たことのなかった“相楽”が、そこには在た。

彼を穢しているのは、彼を玩具と称し、使い捨てた竜牙だった。
俺は痛む身体を奮い立たして、意思の力で、何とか立ち上がった。
どうしてこんな状況になったのかは分からないけれど、止めなければならないことは、理解出来たから。

「相楽に、触れるな…っ」

本当なら駆けて行きたかった。
叫んであの行為を止めてやりたかった。
けれど出るのは掠れた声だけで、こうして壁を支えに立っているだけでも精一杯だった。
瞼がやけに、重たい。
先程までのようにまた眠りにつけたら、どれほど楽か……そんな考えを、打ち消すように首を横に振る。
俺は相楽を守るって、約束したんじゃなかったのか。
こんなところで、グズグズしているわけにはいかない。
俺は腹部に突き立てられているナイフの柄を掴むと、躊躇なく引き抜いた。
グチュッ、という粘着質な音と共に、大量の血液が溢れ出す。

「うっ…ぐ…!」

俺は左手で傷口を押さえながら、ナイフを片手に歩き出した。
一歩踏み出すごとに、全身がバラバラに砕かれるような痛みが襲う。
刺された箇所は脈打ち、焼けるように熱い。
けれどそれが、何だっていうんだ。
身体の痛みなんて、たかが痴れている。
相楽が味わった心の痛みに比べれば、今味合わされている恥辱に比べれば…っ。

「この野郎…ッ!!」

相楽を抱いていた男――竜牙に体当たりをして思い切り突き飛ばす。
そのままナイフを振り下ろすのだが、彼は素早くポケットから拳銃を取り出し、柄で防いでみせた。
ガキンッ、と金属同士がぶつかる甲高い音が響く。

「お前、動けたのか…!?」

瞠目する竜牙は、けれど的確に拳銃の引き金に指をかけ、標準を合わせた。
ナイフを弾かれたことによって崩れた体勢では、しかもこんなにも至近距離では、避けられるはずもなかった。
ぐっと、竜牙の指が引き金を引く。

「有原ぁああっ!!」

叫び声と銃声は、どちらが先に、耳に届いたのか。
判断もままならないまま、俺はコンクリートの床に倒れこんだ。



――――背後から、突き飛ばされて。



「……っ、ぁ…?」

上半身だけを起こして肩越しに振り返ると、突っ伏している姿が目に入った。
左肩付近が鮮やかな赤に染まっていく様子に、息を呑む。
この出来事は俺だけでなく、竜牙にとっても想定外だったらしい。
彼は拳銃を片手に、茫然と見ていた。
自分の――弟を。

「日向…?」

俺らと同じく、顔を蒼ざめさせている相楽が彼の名前を呼ぶ。
すると、ぴくりと少しだけ日向の指先が動いた。
俺は床を這い、血の跡を残しながら彼のもとに寄って行った。
日向は弾が貫通した肩を手で押さえながら笑ったが、その顔色は蒼白で、今にも意識を失ってしまいそうに見えた。

「おま…何で、ここに…? 俺のこと、庇って…」
「もとは…といえば、俺が原因…なんだ、し…。来ねぇわけにはいか…ねぇ、だろ…?」

罪滅ぼしだ、と呟く日向の肩は出血があまりにもひどかった。
もしかしたら大切な血管を、傷つけているのかもしれない。
日向は一度相楽に視線を向けると、ゆっくりと、瞼を閉ざしてしまった。

「お、おい。日向…? しっかりしろってば。ひゅう…っ」
「――どけ」

カチッと引き金に再び指がかけられる音がした。
思わず振り返ると、竜牙が俺に、銃口を突きつけていた。
至近距離にある黒光りするそれに、顔中の筋肉が強張っていく。

「聞こえなかったか? 離れろ、と言っているんだ」

俺は相楽と視線を合わせると、頷きあって、ゆっくりと日向から離れていった。
竜牙は俺たちが壁際まで行ったのを確かめると、日向の身体を抱え上げた。

「な、にを…?」
「治療できるところに連れて行く。死なすわけにはいかないからな」

竜牙はそれだけ言うと身を翻し、日向とともに倉庫から出て行った。
向けられていた殺気が消えさり、ぴんと張り詰めていた空気が和らぐ。
途端に、日向が撃たれたショックで麻痺しきっていた痛覚が、蘇ってきた。

「っ、ぁ…!」
「あ、有原…!?」

無理をしたことによる激痛は半端なものではなく。
痛みに視界が霞み、歪んでいく。
瞬きをしても元に戻らないことから、これが涙によるものではないことが分かった。
血を、流しすぎた…?

「有原、有原っ。駄目だ、眠ったら…なぁ!」

いつの間にか俺は床に倒れこんでいたらしい。
相楽が上から、俺のことを見つめている。
何だかやけに、寒かった。
手先などの身体の末端が、震えだす。
コンクリートには、尋常でないほどの血液が同心円状に広がっていた。
今まで嗅いだことのない、むせ返りそうな程の濃い血の臭い。
濃い、死の気配。
暗転していく視界に最後に映ったものは、相楽が零した涙の粒だった。




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