18. それでもまた、恋を (相楽視点)
「もう大丈夫ですよ。傷口は塞ぎましたし、直に目覚めるでしょう」
「そうですか……」
医師から有原の様態を聞いた俺は、安堵しながらそっと彼を見やった。
ベッドで昏々と眠り続ける有原の表情は、とても穏やかなものだった。
彼は病院に運び込まれた当初、意識不明の重体だったが、奇跡的にも一命を取り留めたのだ。
医師は軽く会釈をすると、病室から出て行った。
「……有原。ごめんな」
俺と彼が関わりを持っていなければ、こんな目に、彼が遭うことはなかっただろう。
あのとき……有原が俺に話しかけてきた、あの日から。
きっと俺は、間違った選択をし続けていたのだ。
どれほど彼の言葉が嬉しかったのだとしても、それを、そして彼の存在を、受け入れるべきではなかった。
有原に声が届くはずがないと知りながらも、ごめん、とひたすらに謝り続ける。
不意に、病室のドアが開けられる音がした。
憂鬱な気持ちのまま視線をそこへと動かし、そして、立っていた“あの人”に目を見開く。
「……な、んで。どうしてここに、貴方が…っ」
愕然とする俺を無視して、彼は有原だけを見つめて近づいてきた。
俺は有原を守るように、両腕を広げて“あの人”の行く手を阻んだ。
「邪魔だ」
「――有原には、手を出させないっ」
これ以上、俺のことで彼に迷惑をかけるわけにはいかない。
せっかく快方に向かっている有原を、ここで、再び怪我させるわけには……っ。
「何を勘違いしているのか知らないが。俺は日向のついでに、様子を見に来ただけだ」
「え……?」
“あの人”は俺の横を通り抜け、有原が眠るベッドの傍に立った。
確かに倉庫で感じていたような殺気や憤りは、今の彼からは感じられない。
俺は広げていた両腕を下ろすと、彼の隣へ並んだ。
「……日向も、この病院にいるのか?」
「ここは抗争事件を起こした団員が、よく世話になっている病院だ。外傷の治療に慣れている医師が多い。日向を必ず救ってくれるだろうと思ったんだ。有原への対処も、適確だっただろう?」
俺が頷くのを見て、“あの人”は僅かに笑んで見せた。
そのときの眼差しは鋭いながらも温かく、俺が彼に抱かれていた過去を彷彿とさせた。
捨てられた後、男どもに延々と犯され続けたのは、気持ちの悪い記憶だ。
けれど彼に抱かれていた記憶は、決して、気持ち悪いだけのものではなかった。
愛されているのだと、そう感じられていたのだから。
「……どうかしたのか?」
「いや、何でもない……」
訊きたいことが、あった。
本当に俺を、飽きたという理由から、捨てたのかどうか。
俺のことを全く、愛してくれていなかったのかどうか。
それでも俺は、言葉を気持ちとともに全て呑み込んで、ただ黙って彼を見上げた。
「……安心していい。もうお前たち二人に、俺は手を下すつもりはない」
「どうしてだ? だって昨日まで、あんなに――」
「病院に日向を連れて行くまでに、言われたんだ。手を出さないでくれ、と。死にそうな弟に頼まれ続けてみろ、断るわけにはいかないだろう?」
“あの人”はそのときのことを思い出したのか、僅かに目を細めた。
「日向は本気で、お前を好きになってしまったらしいな」
「……俺は、好かれるようなことをした覚えがない」
「だろうな。きっとお前は、ただ日向の傍にいただけだ。けれどお前には、それだけで自分を好きにさせる力がある。見るものを惹きつけて離さない、美しさが。だからこそ日向はお前を脅してまで自分のものにすることで、周囲に自己顕示を図ったんだ。……最終的には、お前に呑まれてしまったようだが」
“あの人”は言いながら、写真のネガを十数枚、渡してきた。
そこに写っているのは言うまでもなく、俺だ。
「それがなければ、もう焼き増しは出来ないからな。活用するつもりはないが俺が持っていては不安だろう。お前が好きに処理をしろ」
「……どうして俺の写真を、こんなに?」
写っているのは、何も性交中のものだけではない。
眠っている姿や、笑っている顔、食事をしているものまで、さまざまだった。
こんな日常的な場面を撮っておいて、彼に利益があるとは思えない。
視線を写真から上げると、“あの人”は言いにくそうに口を開いた。
「いずれ、手放さなければならない日が来ることは分かっていたからな。手元に何か、残して置きたかった」
ドクッ、と。
耳に入った言葉に、心臓が跳ねる。
俺は唾液を呑み込むと、ネガをぐしゃりと握り締めてしまった。
「……そ、れじゃあ。やっぱり飽きたからじゃなくて、他に」
「俺は抗争によっていつ死んでも可笑しくない立場にいる。だがお前は一般人だ。理由なんてそれだけで十分だ」
手酷く突き放し、自分を嫌わせ、憎ませることで。
俺を“暴力団”という組織から完全に隔離させ。
俺が抗争に巻き込まれないように、そして自分が抗争で死んだときに俺が悲しむことがないように。
そうしてくれていたと、いうのか。
「日向に相楽の弱みを知らないかと訊かれ、写真を渡したことを謝ろう。俺は日向とお前を秤にかけ、そして、再びお前を捨てた。日向には、俺しかいないからな」
「……有原が、そんなことを以前言っていた気がする」
日向は父親の愛人の子で、母親に愛されてこなかったのだと。
だからこそ面倒を見てくれる兄を慕い、頼りにしているのだと。
俺は唇を噛み締めて、“あの人”を睨みつけた。
「貴方は傲慢だ。人のことを考えているようで、自分のことしか考えていない。俺があのときから、どれだけ…っ」
「ああ、俺は身勝手で傲慢だ。だからこそ、そんな俺とはいるべきじゃない。……相楽」
名前を久しぶりに呼ばれて、知らず、肩が跳ねた。
「他に大切な存在が出来ているお前を、無理に抱こうとして悪かったな」
“あの人”は少しだけ表情を翳らせると、俺に背を向けて歩き出した。
引き止めることはしなかった。
ネガを渡してくれたのは、きっと俺への愛着……執着を、断ち切るためだ。
“あの人”は俺の存在を、過去のものとして清算しようとしているのだ。
僅かにだけれど取り戻しつつあった“あの人”への気持ちを。
「さようなら」
俺は言葉にすることで、打ち消すことにした。
“あの人”が出て行ったことで、室内は再び、俺と有原だけになる。
顔色がよくなりつつある彼を見つめながら、俺はこれからのことを考えていた。
死に至る危険があるほどの迷惑を、いつの間にか、有原にかけてしまった。
ただ、一緒にいるだけで。
俺には自分がそれほど魅力のある人間には思えていなかった。
しかし“あの人”の言葉が事実ならば、そして今回の起きたことを、考えるならば。
俺が傍にいたら、有原を危険な目に遭わせ続けてしまう…。
息苦しさに、目を瞑る。
先程まで理解することが出来なかった、“あの人”が俺を捨てたときの気持ち。
それが今、痛いほどに分かった。
どれほど自分が相手を大切にしたいと、守りたいと思っていても、それが出来ないときがある。
一緒にいられる幸せが、壊されてしまうことがある。
そのときの苦しみは、きっと長く一緒にいればいるほど、増してしまうものだ。
だからこそ、外的要因による幸せの崩壊が訪れるよりも先に、自ら壊すことを望むのだ。
それは結局、ただの逃げになるのだろうけれど――それでもいいのではないか、と思う。
俺は“あの人”に捨てられて苦しかったけれど、それを補えるような存在に出会えたのだから。
きっと俺がいなくなったら、有原のもとには、隙間を埋めて…否、覆い尽くしてくれるような存在が現れるだろう。
――――俺にとっての、彼がそうであったように。