4. それでもまた、恋を (相楽視点)
「待て相楽ァッ!!」
教室で昼食をとる気にはなれなくて廊下を彷徨い歩いていると、背後から怒鳴り声がした。
相手をする気が全くない俺は無視をして歩き続けるのだが、肩を掴まれてしまった。
咄嗟にその手を払いのけると、勢いよく壁に体を押さえつけられた。
衝撃と触れられた不快感に顔を歪めれば鼻先に息がかかり、思いのほか近くにある男子生徒の顔に吐き気がする。
「テメェよぉ……俺様のことを無視すんじゃねぇよ!」
「……一体、俺に何の用だ」
「あぁ? 用件なんて決まってんだろっ。あのときのことだよ!」
怒りによって顔を赤らめる男子生徒には、見覚えがない。
“あのとき”というのがどのことなのか分からずに眉を寄せていると、彼はただでさえ赤い顔をさらに色濃くした。
「まさか俺様を忘れたとか言うんじゃねぇだろうなぁ!?」
耳元で怒鳴り散らされて、俺は嫌悪感を露に男子生徒を睨みつけた。
すると彼は俺が自分を覚えてないのだと覚ったらしく、手を振り上げてきた。
直後に鋭い痛みが頬に走り、俺は奥歯を噛み締めながら右手で拳を作った。
「おぉ? 俺様とやる気かぁ〜?」
男子生徒は俺が殴り返そうとしていることに気がついたらしく、馬鹿にしたように笑った。
そんな彼の顔を、真っ直ぐに見据える。
俺は体格が逞しくないせいか男に舐められてしまいがちだが、これでも武道をやっていた身だ。
腕にはそれなりに、自信がある。
「……これは正当防衛だからな」
俺が男子生徒の鳩尾に拳を叩き込もうとした瞬間、彼は勢いよく右方向へと吹き飛んでいった。
「な……?」
瞬時には何が起きたのか、理解出来なかった。
ストンッ、と軽快な音と共に見知った男子生徒が床に着地する。
「ふーっ、とび蹴りが成功するなんて思わなかったぜ……。ってそれより、大丈夫か!?」
心配そうに顔を覗き込んできた男子生徒――有原――に頷いて見せる。
同じ高校に通っているのだから出会うことがあるのは当然だけれど、まさか助けられることになるとは。
俺は先程の見事なとび蹴りを思い出し、感心しながら彼を見た。
俺が無事と聞いて心底安心したように微笑む有原は、もしかしたら、かなり身体能力が高いのかもしれない。
「吃驚したぜー? 相楽が日向に、壁際に追い詰められてるんだもん」
「いや、追い詰められていたわけでは……。……日向?」
聞き覚えのある名前に聞き返すと、有原は倒れている男子生徒を愉しそうに突付きながら頷いた。
ここで気絶している、傲慢で情けない男が、“あの人”の弟だというのか…?
そんな馬鹿な。
「正直、信じられないよな。こんな男が、暴力団を統括してる竜牙の弟だなんて」
「……ああ」
心から賛同すると、有原は声を上げて笑った。
けれどすぐに、表情を曇らせる。
「……まぁ、母親が違うから、仕方ないのかもしれないけどな」
「そうなのか?」
「ん、これはあくまで噂だけどな? 日向は父親の不倫相手との間に出来た子供らしい……。母親には、あまり可愛がられてないみたいだぜ。夫の不倫相手の子を愛せって言うほうが、酷なことかもしれないけどな。んで、そんな日向を放っておけなくて面倒見ていたのが、竜牙なんだって」
「……噂にしてはやけに現実味のある話だな」
「だよな。だからあながち、この情報は間違ってないと思う。これだったら日向が竜牙を慕うのも、竜牙が日向の我侭を聞き入れるのにも納得がいくし」
俺は失神してしまっている日向を見た。
さっきまで柄の悪いただの馬鹿としか認知していなかったが、こいつにも家庭の複雑な事情があったのか。
といってもこれを事実として認識していいのかどうかは、まだ分からないのだけれど。
「それにしても、有原。日向を蹴り飛ばしたりして良かったのか? 俺たちはただでさえ目を付けられてるのに……」
「馬鹿。目を付けられてるからこそ、だろ。俺たちはもう、何をしようと捕まればその時点でアウトなんだから。今更気にする必要ないって」
「されることが酷くなるかもしれない……」
「それはそうかもしれないけど。でもどの道、捕まらないから」
言い切る有原に、俺は首を傾げた。
逃げ回る以外の良い対策…解決方法でも発見したのだろうか。
有原を不安げに見つめていると、彼はその不安を打ち晴らすかのような笑顔を浮かべた。
「大丈夫だって。相楽は俺が守るから」
――なんて、くだらないことを。
そう普段なら吐き捨てていたかもしれない。
けれど有原の言葉には、そうさせない“何か”があった。
具体性も信憑性も全くない発言にも拘らず、何故か怒りが浮かんできたりしない。
あまりにも力強く、自信満々に言い切るからだろうか。
「さて。これでさすがの相楽も日向の顔は覚えたよな? 今後は気をつけた方がいいぞ。姿を見かけたら、避けるように。それでも今日みたいなことになったら、俺を呼べ」
「どうやってだ? その場にいない有原にどうして助けを求められるって言うんだ?」
「あーっと……。て、テレパシー?」
「……そんなものがお前は使えたのか」
「いや! 使えません嘘ですごめんなさい冗談ですっ。その、とにかく周りに助けを……求めてもみんな怖がって無理だろうなー。うーん」
首を捻る有原に俺は苦笑いが零れたのが分かった。
有原はそのことに気づかなかったらしく、懸命に思考を巡らせていた。
「いざとなったら自分でどうにか出来るから、もう有原は悩むな。さっきだってお前が来なかったら、日向を殴るところだったんだ」
「殴るって……ああ、そうか。そうだよな。あの日も投げ飛ばしてたんだもんな……」
懐かしそうに目を細め、それから有原は首を横に振った。
「でも俺は、出来れば相楽には暴力を振るって欲しくない」
「仕方ないだろ? 相手が先に手を出してくるんだから」
「そうだけど……。でも、俺は嫌なんだ。相楽には……似合わないよ」
有原の言葉に、閉口する。
似合わないって、暴力がか?
それは俺が男らしくないという侮辱と取ってもいいのだろうか。
じとっと睨みつけると、彼は真っ直ぐに見返してきた。
大抵の人間は俺に睨まれると目を逸らすから、表情には出さず、内心でのみ驚く。
有原は真剣な眼差しを俺に向けたまま口を開いた。
「俺は――お前にはそういうこととは、無縁でいて欲しいんだ」
真面目な顔をして言うことが、それか。
俺は嘆息すると、彼に背を向けて歩き出した。
「ま、待てよ相楽っ。俺は……」
「願うだけなら自由だ。勝手にしろ。ただ、俺は自分を守るためなら」
「だから代わりに俺が守るってば!! 相楽のピンチ時には必ず駆けつけるから。正義の味方の如く!」
ファイティングポーズを取る有原に、もはや言い返す気力さえ浮かばない。
何より“必ず”という言葉が気に食わなかった。
出来もしないことを、あたかも出来るかのように話す奴は、大嫌いだ。
そうやって期待だけさせておき、裏切るのだろうから。
「な、相楽? お前はいつも自分ひとりで全部解決しようとするかもしれないけど……。もちろんそれは悪いことじゃないし、むしろ立派なんだけど。でも疲れちゃうだろ? ……たまには人に頼ったって、良いんだからな?」
歩みを止めて肩越しに振り返れば、有原が優しく微笑んでいるのが見えた。
―――そのために、傍には俺がいるんだから。
そう、声もなく彼の唇が動く。
「馬鹿じゃないのか、お前……っ」
俺は再び、先程よりも早い速度で歩きだした。
人なんて所詮は自分が一番、いざとなったら他人を見捨てるに決まっている。
有原はあんなことを言っているが、きっと、本当に助けて欲しいときには助けてくれない。
他人を信じるな。
信じて裏切られたときの悲しみは、もう十分過ぎるほど、味わってきたじゃないか。
だから有原の言葉が嬉しい、だなんて。
そんな風に、思っちゃいけないの…に……。
「……なん、でだ」
他人に対して作り上げていた心の壁が。
信じるまいと、好きになるまいと、必死に心を制していたはずの理性が。
音を立てて崩れ、ボロボロと剥がれ落ちていく。
冷たく接すればすぐに周りは離れていったのに、どうして有原は離れてくれないのだろう。
ずっと一緒にいてくれるのではないのかと、どうして錯覚させようとするのだろう。
零れそうになった涙に俺は俯き、唇を噛んだ。