7. それでもまた、恋を (有原視点)


少しずつ、本当に少しずつだけれど。
日を重ねるごとに、相楽との距離が縮まっているような気がしていた。
俺が彼を好きなように、彼にも俺を好きになってもらいたい…なんて願いは、贅沢すぎるんだろうか。
他の人間からすれば、相楽の傍にいられるっていうだけでも、羨ましいことなんだろうし。
それでも――と思いながら、相楽が待っている教室へ向かう。
早く会って話をしたいと望む俺の足取りは、自然と軽やかになっていた。

「相楽、帰ろうぜっ」

勢いよくドアを開けて教室の中に呼びかけるのだが、相楽は机に顔を伏せており、反応してくれなかった。
眠っているのか…?
音を立てないように、ゆっくりと近づいていく。
夕焼けの朱い光に包まれた、静謐が支配する教室で眠る彼を起こすことは、抵抗があった。
そっと顔を覗き込むと、相楽は身じろぎをして。

「んっ…ぁ…」

薄く開いた唇から、掠れた声を零した。
やけに色気を伴った耳に残るそれに、思考の働きが鈍っていく感じがした。
どくんっ、と心臓が大きく脈打つ。
寝ている相楽の表情は穏やかではなく、むしろ苦悶にさえ取れるものだった。
けれど逆に、眉間に寄せられたしわがひどく悩ましげで。
透き通るような白い肌は、上気して赤らんでいて。
喉が、ゴクリとやけに大きい音を立てた。
それによって相楽相手に欲情していることに気づき、俺はこめかみを揉んだ。
――しっかりしろ。
これじゃあ相楽を遠巻きに見ている他の奴らと、同じじゃないか。

「た…すけ…」

不意に聞こえてきた言葉に、俺は視線を再び相楽へ向けた。
すると彼の閉じられた瞼から、雫が一筋、頬を伝っていくのが見えた。
人に助けを求めるような、泣いてしまうような、嫌な夢を見ているんだろうか。
俺はどうしたらいいのか分からず、止め処なく流れ続ける涙を、指先で拭ってやった。
すると、相楽の瞼がゆっくりと開き、潤んだ瞳が、俺を捉えた。

「――…ひっ、うあぁああッ」
「え? えっ、さ…相楽!?」
「嫌だ嫌だ嫌だ! 触るなぁああッ」

頬に触れていた俺の手を叩き払うと、相楽は逃げるように教室の隅に走っていってしまった。
唐突すぎる出来事に思考がついていかず、俺は茫然とその様子を眺めるしかなかった。
相楽は床に座り込むと、自分の震える身体を両腕で抱きしめるようにした。

「お、おい。相楽、どうしたんだよ…?」

一歩近づくと、ビクッと相楽の肩が跳ねた。
彼の身に何が起きているのか分からないけれど、落ち着きを取り戻すまで、何もしない方がいいのかもしれない。
しばらく見つめあいをしていると、相楽の瞳から怯えが消えていった。

「あ…有原……?」
「ああ、そうだよ。大丈夫…じゃない、よな」

それは訊くまでもないことだった。
相楽の顔は蒼白く、瞳は悲しげに揺れていたから。
彼は俯いて額を押さえると、壁を支えに立ち上がった。

「……心配、してもらうほどのことじゃない。嫌な夢を見ただけだから」

ただの夢で、あんなにも触れられることに拒絶反応を示すものなんだろうか。
俺は悪夢を見るということが滅多にないから、詳しくは分からないけれど…。
何かもっと、深い原因がありそうに思えた。

「…そっか。じゃ、帰ろうぜ?」

質問したいことは山ほどあったけれど、詮索されることがあまり好きではない相楽に、追求はしない。
相楽は小さく礼を言うと、俺の後に続いて歩き出した。
人気のない廊下に、二人分の靴音が響く。
会話をするわけでもなく、ビルとビルの合間に沈んでいく夕日を窓から眺めていると、呟きが聞こえた。

「……手、赤くなってる」
「え?」

右手を見れば、そこには見事な赤い手のマークがついていた。
相楽はそれを、一体どうしたのだろう、と問いかけたさそう見ていた。
どうやら自分が叩いた記憶がないらしい。
それほどまでに、相楽は平常心を失っていたんだ。
きっとあのとき、俺が俺だと、判別もついていなかったに違いない。

「…ま、ちょっといろいろありまして」
「つまみ食いでもしようとして、叩かれたのか?」
「あれぇっ!? 相楽の俺へのイメージって、そんなんなの!?」

軽いカルチャーショックを受けていると、相楽は可笑しそうに目を細めた。
その笑顔に、ほっと息をつく。
相楽はきっと、俺に“何か”を隠してる。
けれど人に言えないようなこと、言いたくないようなことは、誰だって抱え込んでるものだから。
相楽からこの笑顔が消えたとき、もしくは彼自身の口から語られるときまで。


今日の出来事には、触れないようにしよう。




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