9. それでもまた、恋を (有原視点)
相楽は最近、やけに疲れているようだった。
暴走族にいつ襲われるか分からないこの状況は、やっぱり精神に負担をかけるんだろう。
自分がしてやれることの少なさに苛立ちながらも、俺は笑顔を浮かべて相楽に会いに行った。
俺の笑顔で彼の気持ちが和らげばいい――そんな願いを込めながら。
「お待たせ。さっ、帰ろうぜ…って、何それ?」
相楽が持つ白い用紙に首を傾げる。
彼は言いずらそうに口を開いた。
「国語の課題プリント、提出し忘れてたんだ。今から先生に、出しに行かないといけない」
「うお、意外だ。相楽ってそういうの、きちんとするタイプだと思ってたんだけど?」
「…たまたま、忘れただけだ。普段はちゃんと、期日に出してる」
ムッとしたように言い返してくる相楽に苦笑しつつ、職員室へ一緒に向かう。
その途中で、相楽が用のあった国語の教師と出会った。
「遅れてすみませんでした。これ、お願いします」
相楽は機械的な動作で頭を下げ、プリントを教師に差し出した。
感情が篭っていない淡白なその声に、教師は苦い顔をしつつプリントを受け取る。
そのときの、ちょっとした指の触れ合いに。
「っ……」
相楽の表情が、強張るのが分かった。
それは本当に些細な、誰も気に留めないような表情の変化。
たとえ他の人間がそのことに気づけたとしても、その意味までは理解出来なかっただろう。
けれど悪夢を見た直後の、触れられることに拒絶を示した相楽を見ているからこそ、俺には分かった。
彼は今この瞬間、嫌悪感を覚えているんだ。
今まで俺が気づけなかっただけで、相楽は出会った当初から、こういう反応をしていたのかもしれない。
複雑な気持ちで相楽のことを見つめていると、彼は困ったように眉尻を下げた。
「……あまり人の顔を凝視しないでくれ」
「いや、うん。ごめん…。ちょっと考え事してた」
「俺が相談にのって、解決出来るようなことか?」
相楽の質問に、少しだけ表情を曇らせる。
あまり彼にとっては触れてほしくない話題だろうから、ここはちょっと遠まわしに、訊いてみるか。
「俺との約束、覚えてるか?」
「……指きりしたときのことか?」
「そうそう。あのとき、俺との指きりをどう思った? 子供っぽい行為だ、とかじゃなくて」
相楽は俺の意図することを覚ったんだろう、瞳を翳らせてしまった。
やっぱり訊くべきじゃなかったか…。
「あー…いいやっ。言いたくないなら、別に」
「有原は、もう気づいてるんだろう? 俺が接触を嫌っている…恐がっていることに」
はぐらかすことなく核心を突いてきた相楽に、俺は頷くことにした。
彼はいずれ、質問されることを覚悟していたのかもしれない。
相楽は硬い表情のまま、話を続けた。
「それは、何も肉体的なことだけじゃない。精神的にも、俺は人と深く関わろうとは思…えないんだ。理由は言えない。当然、有原との接触にも俺は抵抗がある。だから指きりは凄く嫌だった」
はっきりと言い切られてしまい、胸が張り裂けそうだった。
あのとき、相楽との触れ合いを喜んでいた自分は何だったんだろう。
もしかしたら最近の、彼との心の距離が縮まった感覚は、俺の勘違いだったのかもしれない。
「……そっか。俺…」
「…それにちょっと、恥ずかしかった」
ごにょ、と濁すように言われた言葉に、俺はポカンと口を開けた。
相楽は僅かに頬を赤らめて、視線を俺から逸らした。
「ちょ、そ…それってさ。どういう意味?」
「だ、だって…したことなかったから。それに有原との約束を信じてもいいのか不安なところもあったし…」
「信じていいに決まってるだろ! 俺は本気だったぞ。あ、いや。今も本気だぞ! 現在進行形でなっ。…じゃあ、そうだな。相楽が不安にならないように、期限を決める」
「期限って、約束のか?」
どこか不安そうに見てきた相楽に、俺は力強く頷いた。
同時に彼の両手を握り締めていることに気がつき、慌てて手を離す。
「うわっ、ごめん。つい…!」
「……有原になら、いい。抵抗はもちろんあるし、嫌悪感だってある。でも、他の人間のときほどじゃないから」
「本当か?」
「ああ。だからこそ、あのとき指きりが出来たんだ」
相楽の言葉に、気落ちしていた心が一気に明るくなっていく。
それなら、勘違いなんかじゃなかったんだ。
相楽とは本当に、距離を縮められていた――。
「あ、あのさっ。相楽が何の抵抗もなく、俺を受け入れることが出来るとき、約束を果たすことにするな!」
「……時間、かかると思う。もしかしたら、そんな日は来ないかもしれない。それでも…?」
「それでもいいぜ。俺はいくらでも待つから。傍にいる。…あ、また約束が増えちまったな」
俺がそう言って笑うと、相楽は瞳を熱っぽく潤ませた。
それから柔らかく微笑んで、彼はコクン、と頷いて見せた。
相楽と一緒にいられる理由、繋がり。
それがまた、今日ひとつだけ、増えた。