5. 平凡な恋がいい!



 強烈な寝苦しさを感じて目を覚ました。首に腕が乗っかっている。どうやら寝苦しさの原因はこれらしい。
 ふと隣を見れば、穏やかな寝息を立てる榊原がいた。

「あ、れ……?」

 どういう状況なのか、寝起きのぼやけた頭ではすぐに認識できない。
 ベッドに腕をついて上体を起こし、辺りをゆっくりと見回す。間違いない。ここは榊原の家の寝室だ。
 どうして俺が彼と共に眠っているのだろう。しかも互いに裸だし、意味が分からない。

「俺、今まで何してたっけ?」

 まるで記憶にないというのも珍しい。とりあえず今が何時なのか確かめようと枕元にある時計を手に取り――ひっ、と短く息を呑んだ。
 時刻は午前8時30分。学校にとっくに向かっていなければならない時間帯だ。

「な、ななな……何で!? 何で俺こんな時間まで寝てんの!? しかも何で榊原の家で!?」

 動揺のあまりしどろもどろになっていると、背後からニュッと伸びてきた腕に抱きしめられた。どうやら榊原が起きたらしい。

「おいっ、榊原! 学校に行かないとっ」
「……今日、土曜日。学校休み」

 眠たそうにモニョモニョと榊原が告げた言葉に、強ばっていた身体から一気に力が抜け落ちた。ベッドに崩れそうになった俺を、榊原のたくましい腕がしっかりと支える。

「何だ……今日、休みだったのか。良かった……じゃ、ない!」

 俺を抱きしめる榊原の腕をパシッと振り解く。それではっきりと目が覚めたのか、榊原は両目を手で擦り始めた。

「なあ、榊原。俺、何でここにいるんだ?」

 疑問を口にした途端、榊原の動きがピタリと止まった。それから怪訝そうな眼差しを俺に向け、ぷいっと顔を背ける。ひどく機嫌が悪そうだ。

「脳って、嫌な記憶を封印するって聞いたことあるけど。安西にとって俺とのセックスは、忘却したいほど不愉快なものだったわけか?」
「え。えっ? え? ……え?」

 壊れたスピーカーのように「え」をひたすら連発する。ふざけているんじゃなくて、本当に言われていることの意味が理解できなかった。
 パチクリと瞬きを繰り返していると、榊原が苛立ったように前髪を掻き上げた。

「安西は、昨日、俺と、セックスをしたんだよ!」

 一言一言区切るようにはっきりと述べた榊原に、一瞬間をおいて、俺は絶叫した。

「そっ、そそそ……そんな馬鹿な!? 冗談も休み休み言えよ!?」
「事実だ。そうじゃなかったら、何で俺の家のベッドで安西が寝てるんだ。それも素っ裸で。セックスもしてないのにこんな状況だったら、それこそ可笑しいだろ」

 正論すぎる返答に声を失う。けれど信じられるはずもなかった。
 ――だって俺は、ホモじゃない。
 確かに雰囲気に流されるところはあるし、実際電車の中でされるがままにイかされたりしたけれど、いくら何でも結合まで受け入れたりするはずがない。
 もしかして榊原は俺のことをからかっているのだろうか、そんな結論に至ったときだった。

「うっ、ぐ!?」

 強烈な痛みが腹部を襲ったのだ。ぴーごろごろごろ、ぴーごろろ、と何やら不穏な音まで聞こえ始めた。
 
「わ、悪い。トイレ借りる……」
「だ、大丈夫か安西」

 一瞬のうちに嫌な汗まみれになった俺は、極力刺激を肛門と腹部に与えないよう、千鳥足でトイレに向かった。
 そうしてトイレで過ごすこと数分。水を流そうとしてふと便器に視線を落とした俺は、目に入った惨状に悲鳴を上げた。

「けっ、けけけ……血便んんんぅううう!!?」



++++++



 身体中にあるキスマークと節々の痛み。ことあるごとに痛む腰。そして強烈な下痢。しかも便には血が混じっている。これらの症状と状況から考えて、残念ながら俺が榊原とセックスを試みたことは間違いないようだった。
 トイレで卒倒しかけたあの後、必死に記憶の糸を手繰り寄せたおかげで、ホモAVを見て絶望したところまでは思い出せた。しかし肝心の榊原とのセックスシーンは、微塵も思い出せていなかった。

「……なあ、榊原。いい加減、機嫌直せって」

 朝食のトーストにいちごジャムを塗りたくりながら、机を挟んで向かい側に座っている榊原に視線を向ける。
 彼は不貞腐れた表情で半熟の目玉焼きを箸で突いていた。
 どうにも榊原は、俺がセックスのことを綺麗さっぱり忘れていることが気に食わないらしい。

「仕方ないと思わないか? だって相手が、幼馴染みで、男だぞ? ショックが大きすぎて記憶に混乱が生じるのも無理はないって」

 榊原は何も言わない。唇をヘの字に引き結んだまま、箸で目玉焼きをひたすら突いている。
 こいつはもしかして、目覚めたら俺とイチャイチャラブラブできるとでも思っていたのだろうか。そんな風に期待を寄せていたのだとすると少しだけ罪悪感を覚えなくもないが、だからといって彼が望むような行動を取るつもりはない。
 榊原から視線を外し、ガラスのコップに口づける。中には牛乳が入っていた。

「……榊原って、ホモなんだろ? ってことは、どうせ俺以外ともヤってるんだろ。そういう奴らとのセックス、全部しっかり覚えてるのかよ?」

 ガツンッ、と榊原の握る箸が皿に当たって音を立てた。
 目玉焼きの黄身が割れ、トロトロした黄色い液体が皿の上に広がっていく。

「覚えてないんだろ? 自分がそうなくせに、俺にだけきちんと把握していることを求めるなよ」
「――違う」

 ずっと黙っていた榊原が口を開いた。俺はぴくりと眉を上げて、視線をトーストから彼に向けた。

「マジで? 全部、ちゃんと覚えてるわけ? どこで誰とどんなプレイをしたか?」
「違う。そうじゃない」

 榊原は椅子から腰を浮かせると、机に片手をつき、身を乗り出してきた。かと思えば俺の顎を強く掴み、そのまま食らいつくようなキスを仕掛けてくる。
 突然過ぎる激しい口づけに、俺は全くと言っていいほど抵抗ができなかった。滑りこんできた舌にいいように口腔をまさぐられ、飲み込めない唾液が唇から零れて喉を伝い落ちていく。
 俺が息苦しさにくぐもった声を上げると、榊原はチュパッといやらしい音を立てて唇を解放した。

「は……? な、何……!?」

 手の甲で唇を拭い、すぐ傍にある榊原の顔を見つめる。心臓が怖いくらいドッドッと激しく脈打っていた。
 何が榊原の琴線に触れてしまったのか分からなくて戸惑いに瞳を震わせていると、榊原は俺が怯えているとでも思ったのか、気まずそうに顔を顰めた。

「さ、さかきばら……?」
「悪い、熱くなりすぎた。でも誤解があったようだから、これだけは言わせてくれ。俺は男なら誰でもいいわけじゃない。安西だから、いいんだ」

 榊原の告白じみた台詞に、思考が停止する。
 どういう意図で彼が今の言葉を口にしたのかが分からない。ただ、鼓動が妙に高鳴っていた。

「……な、なんか。それって、告白みたいじゃないか。やめろよ、そういうの。本気にしちゃうから」
「すればいいだろ? だって俺は安西に対して、本気だから」

 榊原はどこまでも真っ直ぐに見つめてくる。冗談じゃないのは、瞳を見れば分かった。いつになく真剣な眼差しは怖いくらいで、でも、逸らせない。
 射抜かれるというのはこういう状況のことを指すのだろうな、と頭の片隅でぼんやり思った。

「昔から、ずっと好きだった。だから俺は絶対に諦めない。いずれ安西に、俺が好きだと言わせてみせる。――覚悟してくれ」

 両肩をぐっと力強く掴まれ、再び唇を重ねられる。
 それは先程とは違った、唇を触れ合わせるだけの、浅く短い誓いの口付けだった。




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