9. 平凡な恋がいい!



 駅への道を歩きながら、ふと、空を見上げた。明け方まで激しい雨が降っていたとは思えないほど、高く澄み渡った綺麗な青色が目に飛び込んでくる。それでも、心の中に抱える澱んだ感情が払拭されることはなかった。

「……あぁ。昨日の出来事が、全部、夢だったら良かったのに」

 浅ましい自分の痴態を思い返しては、腹の底から深く大きなため息をつく。いくら何でも、俺は快楽に弱すぎないだろうか。一旦身体に火がつくと、すぐに自分を失ってしまう。
 手を繋いで登校している男女カップルを横目に見ながら、くしゃりと前髪を掻き上げた。実に高校生らしい、健全な付き合いをしているように見えるこの男は、きっと後孔を突き上げられて強制的にイかされた経験などないのだろう。羨ましい限りだ。

「……俺だって、知らなければ」

 男に犯される悦び。
 もしも無知であったなら、いくらでも主張することが出来るだろう。相手は女の方がいい、犯されるなんて御免だ、と。
 けれど知ってしまった以上、俺は求めることを止められない。榊原を拒むことなど出来はしない。

「っ……!」

 湧き上がってきた淫らな欲求を、なんとか押し殺す。
 榊原とのセックスは、まだ三回だけだ。それなのに、こんなにも影響を受けている。これから俺はどうなってしまうのだろう。
 そんなことを考えていると、前方に榊原の姿を発見した。いつの間にやら駅のホームに着いていたらしい。
 歩みを止めて、彼のことをじっと見つめる。榊原は電車に乗るための列の最後尾に並んで、モグモグと何かを食べていた。おそらく、近くの売店で買った菓子パンだろう。

「……どうするかな」

 昨日の今日だ。顔を合わせたりしたら、確実にからかわれる。まあでも、それもしょうがないか、と思えるレベルで乱れてしまったのも確かだ。
 ――よし、行こう。
 どうせ学校で会うことになるだろうし、今避けても問題が先送りになるだけだからな。人目もあるし、ここは何を言われても冷静に、冷静に……。

「おっ、安西おはよう! 昨日は色々とありがとな。安西、すげぇエロ可愛かった。あんなメイドだったら金払ってでも毎日雇いたいくらいだぜ! あーでもちょっと淫乱すぎて、家にずっといられると、俺が大変かも。安西の場合、少しでも放置してると我慢できなくてオナニー始めちゃうだろうからなあ。それは可哀想だし、やっぱ俺がもっと精力をつけ、がはあっ!?」

 ……殴ってしまった。
 ヒリヒリと痛む右拳を見ながら、はあっと盛大にため息をつく。
 榊原は赤くなった頬を手で押さえながら、よろよろと立ち上がった。

「いってぇなあー。尻餅までついっちまったじゃねぇか。ジャムパンはどっか飛んでったし。全く、安西は相変わらず暴力的だな」
「榊原は相変わらずデリカシーに欠ける人間だよな。少しは言葉を慎め、ばか」

 吹き飛んだジャムパンを拾い上げ、榊原の手に押しつける。砂埃だらけのホームに落ちてしまったのだ、もう食べることはできないだろう。
 榊原はしょんぼりした顔で砂のついているジャムパンの表面を撫でた。

「あぁ、俺の大事な朝ごはん」
「うっ。……わ、悪かったよ。昼飯奢ってやるから、それで許してくれ」
「マジで? でもお金よりも身体で払って貰う方が、俺としては嬉しいんだけど」

 人好きのする笑顔でとんでもないことをサラリと言ってのける榊原に、俺はくるっと背を向けた。
 人が真面目に反省しているというのに、まったくもって腹立たしい。コイツの頭の中にはエロイことしかないのだろうか。

「安西? なーんでそっち向くんだよ。顔見せろって」
「嫌だ。お前と話すことなんてない。……っていうか、ほんとサイテーだな。この万年発情期男め」
「安西がその原因になってるって、分かってるか?」

 榊原は宥めるような優しい声でそう言うと、俺のことを背後から抱きしめてきた。
 ただでさえ先程のやり取りで周囲から注目されているというのに、何を考えているんだコイツは。

「お、おい! 榊原っ。みんな見てるからっ」
「見せ付けてやれ」
「あのなあ!!」

 手の甲を抓ってみたりして抵抗を試みるものの、榊原が離れる気配はない。分かりきっていたことだったため、すぐに諦めることにした。

「お? 意外と大人しいな。もっと暴れると思ってたのに」
「……榊原に抗ってもあんまり意味ないって、最近は嫌というほどに味わってるからな」

 苦笑しながら、榊原の身体にもたれ掛かる。
 俺よりも体温が高いらしい彼の身体は、くっついていると素直に気持ちが良かった。周囲の人間の目が気にならないわけではないけれど、こうやって榊原に抱き締められていること自体は、嫌いじゃない。

「身体だけの関係って割り切ってみるのも、悪くないかなって。思い始めたところなんだ」

 ポツリと呟いた俺の言葉に、榊原の身体が少しだけ強張るのが分かった。

「ほら、俺がどんなに嫌がったところで、榊原が手を出してくることに変わりはないみたいだからさ? それだったら、受け入れちゃった方が楽だなって。……セックスが気持ちいいのは、確かだし」
「そっか。じゃあ俺は、安西が身体だけの関係じゃ満足できなくなるよう、頑張るしかないな」

 耳元で囁かれ、熱い吐息が耳朶に触れた。びくりと肩を跳ねさせてしまう。榊原は俺のそんな反応に喉の奥で小さく笑うと、舌先を耳の中に滑り込ませてきた。

「あっ、やっ……そ、そこはダメ。俺が耳弱いって知ってるくせに……!」 
「だから攻めてんだよ」
「ばか! こんなとこで抑えがきかなくなったら、どうするつもりなんだっ。――ん?」

 不意に、鋭い視線を感じた。勿論さっきからずっと周囲の視線は感じていたけれど、それらとは明らかに性質の異なった――ともすれば敵意が籠っているとさえ受け取れるようなキツイ視線だ。
 慌てて辺りを見回せば、少し離れたところに立っている、同じ学校の制服に身を包んだ女子生徒の姿が目に入る。そのひどく見覚えのある顔立ちに、頭からサァッと血の気が引いていった。

「安西? どうし――」
「同じクラスの女子だ」
「……あぁ、旭川か。あいつもこの駅利用してたんだな。知らなかった」

 榊原は胡乱な眼差しを一瞬だけ女子生徒に向けたかと思うと、俺の耳を舐めることを再開した。

「ちょ!? おっ、おい!! 知り合いに見られてるんだぞ……!?」
「あんま俺、そういうの気にしないから。それに旭川なら大丈夫だと思うぜ」
「なっ……」

 榊原の言葉に絶句してしまう。どんだけ神経図太いんだコイツ!! 赤の他人ならともかくとして、同じクラスの人間に見られるのは確実にマズイだろ!!
 幼馴染との間にある巨大な感覚のズレに鈍い痛みを頭に感じながら、おそるおそる再び女子生徒に目を向ける。彼女は相変わらず俺たちのことを――否、俺のことを、憎き仇とでもいうように睨みつけていた。脇の下を汗が静かに伝っていく。

「俺……何かしたっけ……?」




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