異世界へ行く理由 1−5


 城内に一歩はいると、まさに別世界、だと思う。
 『城』なんて名前のつくものは、大阪城とか名古屋城とか江戸城くらいしか頭に浮かばない。さすが俺は日本人である。
 大きな扉の向こう側には、大きなホール。足の下には分厚い絨毯。壁にかけられたいかにも偉そうな男性の肖像画。召使いらしい人たちが奧から出てきて足をとめては、レインに頭を下げる。
 レインは俺の前に立って、正面中央にある階段を上がり始めた。階段にすら絨毯が敷かれているというのはすごい。掃除が大変なんだろうな、と極めて庶民的なことを考えながら後をついていく。
 すると、階段を半分ほど上がったところで後ろから声がかかった。
 重々しい雰囲気の声。
 でも、何て言ったのか聞き取れず、俺は戸惑いながら振り返る。レインもその声の方に目をやって、何か一言二言返した。
 しかし、レインの言葉も聞き取れなかった。
 あれ? とか思う。
 聞き取れなかったんじゃない。何て言ったのか理解できなかったのだ。

 俺たちが振り返った先にいたのは、顔色の悪い老人だった。痩せていて、髪の毛は真っ白である。身につけている服装から、立場のある男性だと解る。彼はわずかに咳き込みながら、レインに頭を下げながら『俺の解らない言葉』で何か言っていた。
 そしれレインもまた、『俺の解らない言葉』で返すのだ。
 つまり、それがきっとこの世界の言葉なのだろう。日本人の俺には解らない、異国の言葉。
 俺は解らない言葉を聞いているよりは、と思って辺りを見回し、細かいところまで観察しようとしているとき、また別の声がかかって我に返る。
 階下の廊下の奥から、軽やかな足音が近づいてくる。まだ俺たちの前にきていないというのに、騒々しいくらいの声で何か言っているのが聞こえた。
「ケイト」
 レインが彼女にそう言って、それが名前らしいと気づく。
 長くてふわふわの金髪、魅力的な緑色の瞳。何にでも興味があると言いたげな笑顔。淡い水色のドレスに身を包んだ彼女は、軽快な足どりで階段を上がってくると、レインの横に並んで明るく笑う。
 何だ、彼女か?
 ふと、俺は眉を顰めてレインの横顔を見つめ直した。
 それとも、レインの妹か? 髪の毛の色は同じだけど、瞳の色はレインのほうがもっと明るい。うーん?
 俺がまじまじとケイトという女の子を見つめていると、その視線に気がついた彼女はにこりと笑ってその手を俺の顔の前に差しだした。
 何だ? と思っている間に、彼女は何ごとか囁いて。

 突然、周りの人間の言葉が解るようになった。

「はーい、初めまして! わたしはケイト・リィン。この国の魔術師なのね」
 ケイト・リィンというその子は、ひどく明るくそう言った。
 突然言葉が理解できるようになったのも、この彼女の力なんだろうか。俺は戸惑いながらも、彼女が差しだしてきた手を握って握手をする。
「よろしく。俺は……」
 俺がそう言いかけると、彼女は遮って首を振った。
「あなたが何者なのかは解ってるわ、コウジ。だって、私がこの国に呼び寄せたようなものだもの」
「呼び寄せたようなもの……」
「そう。わたしは魔術師であり、予言者でもあるの。あなたのことを予言したのはわたしなのよ」
 予言。
 予言。
 って、アレのことかー!

「変な予言をしてもらってありがとう」
 俺は明らかにひきつっているだろう笑顔を浮かべて、握手していた彼女の手に力を込める。すると、途端に彼女は顔を顰めてその手を振り払った。
「何か変かしら」
「だって、俺を手に入れたらどうこうっていう予言だろ? 俺の貞操の危機」
「貞操の危機って大げさね」
「どこが大げさだ」
「でも、きてくれたのね。ありがとう」
 ケイトは少しだけ肩をすくめてみせてから、小さく言った。「ようこそ、サラディアールへ」
「……観光だけどな」
 俺は警戒しつつそう呟くと、彼女は目だけで微笑んで見せた。
 それが、とても大人びて見えて、何だか見かけの年齢を裏切っていると思う。魔術師といったから、精神年齢とかも高いのかもしれない。
 つか、魔術師って本当にいるんだな、とも思った。
 魔術師って何ができるんだろう。
「あのさ」
 俺はそっと口を開く。「どこでもドアとか出せる?」
 言ってから、それは魔術師じゃねえ、と気がついた。

「陛下」
 俺とケイトが色々言い合っていると、それを無視しているかのように年配の男性が何か言っていた。
「急なことですが、お忍びでユージン・エゼルレッド様がおいでになられております。後でご挨拶をしたいとのことですので──」
「ユージンが? 珍しい」
 レインが少し驚いたように声を上げてから、何ごとか納得したように続けた。「お前の見舞いかもしれんな。ライナス、体調は大丈夫か? 少し休んでいたらどうだ」
「……そうもしてられませんので」
 ライナスと呼ばれたその男性は、小さく笑うと軽く頭を下げた。そして、ひどくゆっくりとした足取りでその場を離れた。
「ケイト」
 ライナスの後ろ姿を見送っていたレインが、やがてそっと口を開く。ケイトはレインに向き直り、「何?」と言いたげに首を傾げる。
「ライナスの体調はどうなのだ。あまり良くなっているとは思えん」
「薬は出しているけどね。……でもね、わたしは自分の術や薬の完成度には自信を持っているけど、『老い』には無力よ。悲しいけど、それが現実」
「そういうことを言わないでくれ」
 レインは小さくため息をついて応える。「ライナスはこの国にとって必要な男だ。父が一番信用していた男だろう」
「そうね」
 ケイトが頷く。「正直に言えば、あなたよりもずっと皆に一目置かれている人だし、信頼も厚いわ」
 それは、あまりにも無造作に紡がれた言葉。
 俺はレインの一歩後ろに立ったまま、二人の会話を聞いていた。そして、レインがそのケイトの言葉に怒るのではないかと思ったが、意外なことに素直に頷いて続ける。
「その通りだ。だから、まだ当分は生きていてもらわねばならん。私には彼の力が必要だ」
「ね、陛下」
 ふと、ケイトが眉根を寄せて彼を見上げる。ひどく真剣な眼差し。
「その言葉、ライナスに言った?」
「何がだ」
「その、プロポーズじみた言葉。『お前が必要なんだ』とか何とか」
 すると、レインが苦笑する。
「言わんでも解るはずだ。ライナスは馬鹿ではない」
「でも、言葉って重要よ。解っているはずの言葉でも、口に出す出さないで大きく違う。それを解ってね」
「考慮しよう」
 レインは呆れたように笑い、そこでやっと俺に視線を向けた。
 さすがに俺は退屈していて、階段の手すりにもたれかかりながら、ぼんやりとレインたちを見つめていた。この国に住む連中の人間関係も全く解らないし。何を聞いても俺にとっては無意味だ。
「待たせて悪かった」
 俺の表情を見て、すぐにレインが微笑む。その手を伸ばして、まるで犬か猫を撫でるかのように俺の髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回してから続けた。
「お前の部屋は二階だ」

 俺のために用意してくれた部屋は、とにかくでかかった。広かった。何でも揃っていた。
 彫刻の入った重々しい木の扉を開けると、そこには八畳間という世界しか知らなかった俺にとって、何畳あるのか解らない部屋があった。多分、二倍どころの話ではなく、三倍から四倍くらいの広さがある。
 一番奥には大きな窓。そこからバルコニーへと続いているらしく、わずかに開いた窓から吹き込む風が、真っ白なカーテンを揺らしている。
 大きな丸いテーブルと、四つの椅子。
 見回して見ると、別にあるらしい寝室へと続く扉らしきもの、洗面所とトイレに続くらしい扉、さらにウォークインクローゼットというのだろうか、一部屋まるまる洋服などをしまっておく場所。
「宿泊料は払えないからな」
 俺は急に不安になって、そばに立っていたレインに言った。
 するとレインは声を上げて笑う。
「お前から金を取ろうとは思わん。安心しろ」
 そう聞くと現金なもので、俺はさっそくその部屋の中に入って色々探検を始めた。手に持っていた荷物はベッドの上に放り投げ、端から端まで歩き回っていると、レインが楽しそうな表情でこちらを見ていることに気づく。彼は壁にもたれかかりながら、両腕を組んでいた。
「何だよ」
 俺がそう訊くと、「いや」と首を振る。よく解らない男だ。
 そうしているうちに、扉がノックされる音がして、シアンが入ってきた。
「陛下。昼食の用意もすぐにできますが、どうなさいますか」
 相変わらず礼儀正しい仕草で、彼はレインの前に立っている。レインはしばらく考え込んだ後、ちらりと俺に視線を投げた。
 俺は教師に向かって手を挙げるかのように、ぴんと腕を上げて言った。
「食えるもんは食う!」
「……だそうだ」
 レインは笑いながらシアンに言い、シアンはといえば、薄く苦笑を漏らしながら頭を下げるだけだった。

「そういや、客がきてるんじゃねえの?」
 レインが食事をする部屋に案内するというものだから、俺はその後をついて廊下に出た途端、訊いてみた。
 さっき、階段のところでライナスとかいうじいさんと話をしていたことを思いだしたのだ。挨拶をするとか何とか言ってなかったっけ?
「ああ、ユージンのことか」
「何者?」
「私の従兄弟だ」
 レインは歩きながら応える。「私の亡くなった父には弟がいてね。つまり、私の叔父にあたる男だ。その叔父が隣国に婿入りして、その国の王となった。そこで生まれたのがユージンとその兄だ」
「王子様ってわけか」
「第二王子だから、将来的には他国に婿入りすることになるだろう」
「へーえ。王子様って大変なんだな」
「大変とは思わんが」
 レインが首を傾げながら笑う。そして続けた。
「ユージンの兄は元々身体が弱くてね。一時期、彼の両親は第一王位継承者である兄の看病に付きっきりだった。だから、弟のユージンの教育まで手が回らないということでこの国で暮らしていたことがある。ユージンは真面目で大人しかったし、私の父も随分気に入っていたようだ。……私などよりは」
「日頃の行いの差か?」
「何を言うか」
 レインが突然、俺の頬をつかんで揺らした。
「ははせ」
 放せ、と言いたい。
「ユージンがこの国にいたとき、教育係となったのがライナスだ。だからユージンも、彼のことを第二の父と思っているんだろう。今回、急にこの国にきたのも、おそらく彼の体調不良を聞いたからかもしれん」
 レインが俺を解放して歩き出した後、俺は少しだけその場に足をとめてひりひりする頬に手を当てていた。くそ、覚えてろ。
「そのライナスって人、魔術で『えいやっ』と若返らせるとかできないのか。さっきの……ケイトっていう可愛い子が言ってたけど、老いには無力とか何とか」
 俺がレインの後ろ姿に向かって言うと、レインが振り向いて眉を顰めた。
「可愛いは余計だ。確かにケイトは私が子供の頃からあの姿だし、不老の魔術師ではある。しかし、他人の命までは操れない」
「浮浪の……ああ、不老か。歳を取らない」
「最初何を想像した」
「いや、別に」
 俺は慌てて首を振ったが、なるほど、と納得したのも事実だった。
 どうも、ケイトとかいう魔術師が年相応に見えなかったのはそういうことなのか。で、『陛下』であるレインにも乱暴な口調で接していたし。普通、あの年頃の子だったら、シアンみたいに礼儀正しくレインに接するのが当たり前だと思うから。
 俺は早足でレインのそばまで近づくと、レインに続いて階段を降りながらさらに言った。
「で、そのユージンとかいう男ってのは、どんなヤツなわけ?」
「一言で言えば真面目、だ。生真面目と言ってもいい。惚れるなよ」
「馬鹿か」
 俺はわざとらしく鼻の上に皺を寄せながら吐き捨てた。
 男に惚れてどうする。

「久しぶりだ」
 レインが右手を差しだして、相手に微笑みかける。すると、その相手も礼儀正しく微笑んで握手を交わした。
「元気そうでよかった」
 そう言いながら。
 ユージン・エゼルレッドとかいう男は、レインにとてもよく似た風貌をしていた。金髪は短く、淡い瞳の色もレインと同じ水色だ。年齢は二十代前半といった感じで、レインよりも年下だろうと思ったが、その落ち着きぶりは年齢よりもずっと上に思えた。
 彼は地味な紺色の服に身を包んでいたけれど、その袖についた刺繍やら何やらはとても細かくていかにも高そうだな、と思わせる。
 王族ってのは基本的に金持ちなんだろうな、とどうでもいいことを俺は考える。
 俺たちが今いるところは、食事をするための大きな部屋で、中央には長い四角のテーブルがある。真っ白なテーブルクロスに、中央には色とりどりの花が飾られた花瓶。まだ明るいというのに灯された銀色の燭台。
 俺はドアの近くに立ったまま、どこに座ったらいいのかと辺りを見回していた。すると、その部屋にいた召使いの中でも身分の高そうな年配の男性が近づいてきて、俺をある椅子の前へと案内する。
「ありがとう」
 俺はそう彼に言ってから、レインのほうに視線を投げる。
 さすがに、こいつらが座ってからではないと勝手に座るわけにはいかないだろう、という考えがあったからだ。
 すると、レインが俺の視線に気がついてにこりと笑った。そして、もう一度ユージンに顔を向けて言った。
「紹介しよう。彼はフジムラ・コウジ。しばらくこの城に滞在することになった」
「ああ、その話はライナスから聞いたよ」
 ユージンは穏やかに微笑みながら、俺を見つめる。「予言の少年らしいな」
「……意外に口が軽いな。相手がお前だからか」
 少しだけ、レインが渋い表情で呟く。すると、ユージンは彼を宥めるようにレインの肩を叩いて笑った。
「何はともあれ、よかったと思う。あなたがその少年を手に入れたことで、この国が安泰になれば素晴らしいことじゃないか」
「……手に入れたらな」
 少しだけ、レインは複雑そうに呟いてから、そっと笑う。どうやらそんなレインの様子には気づかなかったようで、ユージンが俺のそばにまで歩いてくると、手を伸ばして口を開いた。
「よろしく。私はユージン・エゼルレッド。隣国、エゼルレッド王国の第二王位継承者となる」
「あ、よ、よろしくお願いします」
 自分でも意外なことだが、何となく、敬語になった。
 レインとはどこか違う雰囲気がある。確かに、真面目という説明そのままなんだろう。笑顔一つにしても、レインの親しみやすい笑顔とは違う。こっちまで畏まってしまう感じがする。
 ふと、ユージンが興味深そうに俺を見つめ直した。
「座ってくれ」
 レインがテーブルに近づいてそう言って、俺は我に返る。ユージンもまた、俺と同じように我に返ったようだ。彼はレインに促されるままに椅子に座り、レインも同じく腰を下ろす。
 やっとそこで俺も一息ついて、自分の席に座って目の前の料理の皿を見つめた。
 昼間っから豪勢だねえ。
 俺は並んだ料理の数々を見回して、とりあえず感嘆のため息をこぼした。

 鶏肉と似てる感じだよな。
 俺はソースのかかった肉の塊を一切れ口の中に放り込みながら思う。どうしよう、これで俺たちの世界でいう、蛇とかワニとかカエルとかの肉だったら。
 人間、知らないほうがいいこともあるよな。
 そんなことも考えながら、最初は恐る恐る料理を口にする。でも、今までフランス料理フルコースとかも食ったことのない俺からすれば、とんでもなく美味い料理の数々だったので、だんだんどうでもよくなってきた。
 色々野菜の入ったスープも、海老みたいなものが入ったサラダも、焼きたてらしいかりかりのパンも、何もかもが美味しい。
 とりあえず、夢中になって食べていると、周りの会話なんてどうでもよくなる。
 レインとユージンは久しぶりに会ったからかもしれないが、色々話をしていた。ときどき上がる笑い声は、レインの方が多かった。ユージンはどちらかと言うと、控えめに微笑むことが多い。
「そろそろ見合いの話も出てきているんじゃないのか」
 レインがユージンにそんなことを喋っているのが聞こえる。ユージンは苦笑して頷いて、困惑したように首を振る。
「まだ兄上が妻を娶っていないというのに、私が先に受けるわけにもいかない。だから、しばらく待ってもらっている」
「ランスロットは婚姻間近か」
「今、三名ほど候補の姫君がいる。じきに決まると思う」
「ならば、今頃そちらでは忙しいだろうな? そんなときに我が国にきてよかったのか」
「……危ないと聞いたのでね」
 ふと、ユージンの目が曇る。
 その、『危ない』という意味がなんなのか、俺にも解った。
 ライナスというじいさんが死にそうだ、と考えているということだ。
「そんなことより、あなたはどうなのだ」
 ユージンはそっと首を振って、辺りに落ちた重々しい空気を振り払うかのように明るく微笑む。「あなたはもうこの国の王だ。跡継ぎも必要だろう。婚姻の予定はないのか」
「まだない」
 レインは苦笑しながらそう応え、そっと俺に視線を投げた。「まずは、こちらを口説くのが先だと思うんでね」

「却下!」
 俺は口の中にあった大きな肉を飲み下してから、大声で叫んだ。
 その途端、レインが吹き出し、ユージンが驚いたように俺を見つめ直す。それから、ユージンも声を上げて笑い出した。
 何が言いたい。



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