その時私は、大広間でシアンと話をしていたところだった。ユージンが顔色を変えて大広間に飛び込んできた時、私はシアンや側近たちを下がらせてユージンのただならぬ様子を見守った。
呼吸を整えて、やっとユージンがそのことを話し始めた時は、何を馬鹿なことを言っているのかと思った。
ライナスが何だというのだ? 彼がそんなことをするわけがない。私は最初、ユージンのその言葉を笑い飛ばして見せた。すると、ユージンはいつになく厳しい眼を私に向け、私の腕を取った。
「私がこんな冗談を言うと思うか? 私のことが信用できないと?」
それは私も気圧されそうなほど、強い口調だった。
低く響いたその声は、確かに嘘など紛れていないように思えた。
だが。
私はやがて笑みを消して応える。
「すまないが、私はお前よりもずっとライナスと一緒にいるのだ。ライナスは誰よりもこの国のことを考えている。私を……いや、この国を裏切るようなことはしないと知っている」
「……残念だが」
ユージンは私の腕に爪をたてた。「それは、あなたの考え間違いなのだ。そして私も……ライナスの考えを読み間違っていた」
それはひどく重い声。
私は戸惑いながらも平静を装い、ゆっくりと首を振った。
「ユージン、だが私は」
「あなたは王だ」
ユージンは重ねて言う。「ならば、王として成さねばならないことがある」
王として成さねばならないこと。
王として見極めなくてはならないこともある。それは、ユージンが言っていることが事実かどうか。
そして私は、ユージンの真剣な眼差しを見つめ直す。そして、頷いたのだ。私が知っているユージンは、真面目な男だ。絶対に嘘などつかない。
そしてライナスはどうだろう?
私の知っているライナスはこの国のために何でもできる男だ。そう、父のためなら何でもやった。
では、私のためには?
私のために何をやるだろう。
心臓が冷える。厭なものを見なくてはならない予感が生まれる。知りたくないことを知らねばならない予感に、私の心が締め付けられるような気がした。
そして結局、私はライナスの前でこう言ったのだ。
「残念だ、ライナス。私は勘違いをしていたようだ」
ライナスの部屋は雑然としていた。それはどうやら、コウジが暴れたせいらしいと後で知ることになる。倒れたテーブル、床の上に散らばった食器は割れ、惨憺たる有様である。
そして、床に膝をついたコウジのそばに寄り、彼を立たせる。その時、少しだけコウジの身体が震えるのを感じた。
彼がライナスに何をされたのか、ユージンの口から聞いてはいた。
ケイトの予言のことを考えれば、このようなことをする輩が出てくるだろうとは思っていた。だから、危険な相手は近づけないようにと考えていた。
それがまさか、ライナスが……。
私の考えが甘かったのだ。いや違う。
私が愚かだったのだ。
「ケイトが言っていた。言わねば伝わらぬこともある、と。それは事実だった。お前はこの国のことを考え、私を助けてくれるのだとずっと信じていた」
私はコウジを椅子に座らせた後、ライナスに視線を投げた。
自分が何を言っているのか、何を言おうとしているのか解らなくなる。頭の中は混乱していて、言葉が途切れそうになっている。
だが、私は『王』としてのつとめを果たさなくてはならない。
どんなにつらいことだとしても。認めたくないことだとしても、受け入れなくてはならない。
私は、王に値しない人間なのだとライナスに思われているのだ。そして事実……王としては未熟だ。
人間を見る目もない。私は、ライナスの考えていたことも解らなかった。ただ、信用していただけだ。彼が私の父にしたように、絶対の服従を置いてくれると考えていた。馬鹿なことだ。人間は、愚かな人間には従わぬ。そんなことすら思いつきもしなかった。
私の心臓の中に、何かが生まれたような気がした。
それは黒い塊だった。一体、これは何なのだろう。
無気力と、王としての使命感。
私の存在はこの国にとって必要ではない。それを自覚した瞬間、私はこれからどうしたらいいのか解らなくなった。
ライナスが考えている通り、私ではなく別の人間が王となれば、この国も安泰なのだろうか。私などよりももっと有能な人間はたくさんいる。真面目な人間がいいなら、確かにユージンもシアンも候補に挙がるだろう。
なぜ、私は王なのだろう。
王としての価値などどこにもないのに、何をしているのだ。
だが、現実的には私は王で、王としての役目を果たさなくてはならない。
王であることが面倒だ、と思ったのは初めてだ。
「ライナス、お前はもう体力的にもここにいるのは難しいだろう。辺境の村で静養するといい。……この意味が解るな?」
そう言いながら、私は淡々と言葉を続ける。ライナスの処分のことについてだ。
彼を辺境の村に隔離する。もう、二度とこの城には戻らせないつもりで。
全て言い終えた後、私は心の片隅で思うのだ。
いっそのこと、ライナスがもっと悪人でいてくれたならよかった。
私を暗殺してくれていたならば。
彼を信用して簡単に彼に無防備な背中を見せる私を、そのまま剣で切り伏せてくれていたならば、話は簡単だっただろうに。
なぜ、私は今も王でいなくてはならないのだろう。
こんな私が、なぜ。
コウジを今回のことに巻き込んでしまった責任は私にある。
このことについては、私が責任を取って処理しなくてはならない。
コウジという男は、今まで私の周りにはいなかった種類の人間だ。別の世界に暮らす人間だからこそ、私が王であるという事実も彼にとっては関係のないこと。だから、その口調が改まることはない。私に気を使うこともなければ、遜(へりくだ)る言葉を選ぶこともない。
その遠慮のない態度が心地よいと感じるのは、とても不思議な感覚だった。今までは、周りの人間が私に従う姿を見て、安堵を覚えていたというのに。
異世界の人間であるから。
別の世界に生きる人間だからこそ、彼に興味を惹かれるのだろうか。
それとも、別に理由があるのか。
それすらも解らない。
そして私は今、不本意ながらも自分の下にいるコウジの痴態に目を奪われていた。
彼がこのような状態になったのは、ライナスが用意した薬のせいだと解っている。こんなことがなければ、コウジは私に触れられるのを拒んだだろう。
もちろん、罪悪感が一番最初にあった。
コウジに申し訳ないという気持ちが。
だが。
「や、レイ……ン」
コウジは自分の性器を握られた時、熱い吐息を吐いた。私がそれを擦り上げると、その呼吸が次第に乱れていく。
羞恥と快感に震えながらも、その目元をうっすらと赤く染めた彼は、今まで私が抱いた誰よりも魅力的だった。それはおそらく、普段の彼とはあまりにも違いすぎる姿だったからかもしれない。私を拒否するような態度が当たり前の彼。そのコウジが、まるで甘えてくるかのような声を上げているとすれば、私の愛撫に熱がこもるのも当たり前だった。
俯いているせいもあり、彼のその瞳はメガネというものに完全に隠されてしまっていて、私からはよく見えない。だから、彼が私のこの行為に嫌悪を覚えているのではないかと不安にもなる。
彼はもともと、男性が好きな人間ではない。
だから、この行為も喜ばしいことではないはずだ。たとえそれが、声を失うほどの快楽へとつながっていても。
「一度、達っておけ。楽になる」
必死に唇を噛んで、達するのを我慢している彼。
それはそれで可愛いと思う。だが、このままではつらいはずだ。
だから、彼の射精を促すかのように自分の愛撫を激しくさせる。すると、コウジが目を伏せたまま身体を強ばらせ、小さく唸るように言った。
「く……くそ」
強情だ。
だが、それがいい。
そして、その我慢がいつまで保つのか、興味がわいてくる。
私の悪い癖が出そうになる。このまま、乱暴に扱ってしまいたい、という欲望だ。無理矢理彼の足を割り開き、自分自身を彼の中に押し込んでしまいたい、という自分の快楽のための欲望。だが、私は必死にそれを我慢した。これ以上、彼に厭な思いをさせるのだけは避けねばならない。
やがて、コウジがうっすらと目を開け、私を見上げてくる。
いつもだったら真っ直ぐな輝きを放つ瞳も、今は快感に揺れている。わずかに怯えたように私を見つめた彼を見て、また私は彼にすまないと思う。
そして。
「好きだよ、コウジ」
そう、私は彼の耳元で囁いて見せた。
そしてその時、私は改めて気がついたのだ。
私はおそらく、コウジのことが好きなのだ。よくは解らないが、複雑な感情の好意なのだと思う。
もちろん、『好き』であって『愛している』わけではない。まだ、そこまで私はコウジのことを知ってはいない。だから、知りたいと思うのだ。異世界に住んでいるこの少年の、隠された部分。今まで見えなかった部分。それをこれから見たいと思う。
だから、彼を傷つけるのも避けたかったし、この国を気に入ってもらいたかったし、そして私を嫌いにならないで欲しかった。
でもやはり、こんないきさつだとはいえ、コウジの熱い吐息を感じることができたのは、嬉しいとも感じた。
人間とは身勝手な生き物だ。
コウジにケイトからもらった薬を飲ませたものの、ライナスに飲まされた薬の効果が切れるまで、しばらくかかりそうだった。だから、私は彼を散々焦らすように愛撫した後、手っ取り早く彼の意識を失わせるようにとし向けた。そうしておけば目が覚めた時、コウジの薬の効き目は切れているだろうと思ったからだ。
やがて、コウジが意識を失って緩やかな呼吸を繰り返し始める。
私はそんな彼を見下ろしながら、ただ髪の毛を掻き上げた。出てくるのはため息のみだった。
馬鹿なことをしている。
私はそう思う。
今がチャンスだったのではないか。コウジを手に入れるには、唯一のチャンスだったかもしれない。そうして、私が本当の意味で、この国の王となる。予言にあったように、彼を手に入れた人間がこの国の王となれるのだ。
しかし、しかし、しかし。
「私は愚かだ。望みすぎている」
私は一人、そんなことを呟く。
予言に頼ることは、奇跡を願うことだ。
絶対に手に入らないはずのものを、運命をねじ曲げてまで手に入れたとして、それが何になるだろう。
「私を王だと認めている人間が、本当にこの国にいるだろうか?」
私はコウジの寝顔に向かって囁いた。「ライナスは私を認めていなかった。ならば、他の人間はもっとそう考えるだろう。私は王として不適格なのだ。別の人間が王となった方がいいと考えている人間は、おそらく数えきれぬほどいる……」
ならば。
私の存在する意味は何だ。
何故、私はここにいるのだろう。
ただ、父上の血を受け継いでいるからか。
そうだ。
それ以外に何の理由があるという。私の身体に流れる血だけが大切なのだ。
父上が愛したこの国は、愛しいと思う。父上がそうしたように、私もこの国を守りたいと思う。だが、無意味だ。何もかも無意味だ。
「コウジ、お前は自分の家族を大切にしている」
私はゆっくりとコウジの耳のそばに唇を寄せ、小さく囁いた。「だが、私は父上を憎んでいた」
「シアン、すぐに手配してもらいたいことがある」
私はコウジの部屋から出た後、すぐにシアンのところへと足を向けた。彼はまだ何が起きたのか知ってはいない。だが、気を使ってか、コウジの部屋の前ではなく、私の部屋の前で待っていた。そして、私の姿を見た瞬間に居住まいを正して頭を下げた。
余計な挨拶は不要とばかりに、私は手を上げて言葉を続ける。
「ライナスのことだが、病状が悪化している。静養させるためにこの国を出すつもりだ」
ライナスの名誉もある。これまでの功績もある。だから、その名前を汚すようなことはしたくない。今回のことはできるだけ内密に済ませられたらと考えていた。
「畏まりました」
シアンはいつでも私に従順だ。そして、一見無表情に見えるその表情に、時折浮かぶのは私を気遣うような控え目な笑顔だ。思い起こしてみれば、シアンは昔から変わらない。私が一番信用しているのも、彼だ。
突然、ケイトの言葉を思い出す。
──口に出さねば伝わらないこともある。
信用している相手に秘密を持つというのは、その相手を裏切ることにつながる。そうではないのか。
「シアン」
私は、彼を私の部屋の中に入るように促した。少しだけ躊躇いもあったが、彼にだけはライナスのことを全部話しておくべきかもしれない。突然部屋に呼ばれたシアンは戸惑っていたかもしれないが、少なくともそれを表情には出さなかった。
相変わらず控え目な態度で部屋の中に入り、壁際に立って必要以上に私に近づいてこようとはしない。私はそんな彼を少し離れた場所で見つめながら、ライナスのことを彼に打ち明けた。
シアンの顔色が失せていくのを見つめる。
その表情が強ばり、ひどく強い輝きを放ち始めた双眸が私に向いていることを感じると、少しだけ居心地が悪かった。
「彼を咎めることはできまい。これも、自分の力不足だ」
私はそう締めくくり、彼に微笑んで見せた。「色々と遊びすぎたから、これも自業自得だろう。ライナスには申し訳ないことをした。彼の期待を裏切った私が悪い」
すると、シアンはぎこちなく首を振って見せる。
「陛下は王なのです。我々が従うのは当たり前で……」
「当たり前だからか」
私は苦笑した。「確かにそうだろう。王となる人間は部下には選べぬ。たとえそれが愚王だとしても──」
「陛下。それは陛下には当てはまらないと存じますが」
シアンは珍しく私の台詞を遮り、会話の中に入ってきた。それは、いつもの彼とは違う言葉となった。遠慮のない言葉の羅列。
「陛下はご自分のことをお解りになっていらっしゃらない。あなた様は、この国の王としてしかるべきことをなされてきました。しかし、陛下はそれをお気づきでいらっしゃらない。ご自分の力を、認めてはいらっしゃらないのです。……私はあなた様に従うことを名誉としております。これはこの先も変わることはないでしょう」
「お前だけかもしれん」
私は小さく笑った。それは、自分でも力のない笑みだと解っていた。
「慰めもいらん。私が欲しいのは……欲しいものは……何もないのだ」
おかしい。
私は何をしているのだろう。ライナスが私を裏切ったこと、それは仕方ないことであり落ち込む必要などないはずだ。それなのに、これから先、彼の助けがないということが王である私に重くのしかかっているような気がする。
「ケイトはどうです」
シアンがいつの間にか、私のすぐ前に立っていた。視線を床に落としていた私は、その声がすぐ近くで聞こえたことに驚き、顔を上げた時にそのことに気づく。
シアンの哀しげな瞳が私の目の前にあった。
そしてその声も淋しげだと思う。
彼は静かに続けた。
「ケイトは……この国の魔術師はあなた様を王として認めていらっしゃいます。だからこそ、予言を申し上げました」
「それは、私に王としての力がないからだ。だから、予言にすがることになった」
「違います。予言など頼らずとも、あなた様はこの国の王としての力をお持ちでいらっしゃいます。私はずっと昔より、陛下のそばでずっとあなた様を見てきたのです。私が一番、陛下のことを存じ上げていると言っても過言ではないくらいに」
「確かに、お前はずっと私のそばにいてくれた」
私は困惑しつつも頷いた。彼の情熱の感じられる声が不思議だった。
ふと、私は彼の頬に手を伸ばした。色のない頬。まるで血の通っていないような顔立ちなったそれ。
私の指先がその頬に触れた瞬間、彼は少しだけ苦しそうに目を細めた。
そして、彼はこう続ける。
「私は陛下を……お慕いしております」
「私もこの国で一番お前を信頼している」
相手がシアンでなかったら、愛の告白だとも思ったかもしれない。それほどまでに真剣な眼差しだった。私はシアンの頬から肩へと手を滑らせ、感謝の気持ちを伝えるために軽くその肩を叩いた。
今なら言えるだろう。
伝えるとするならいい機会だ。
「これからもずっと、それは変わらないだろう。ライナスよりもずっと、お前のことを信頼してきたという事実。だが、それをこうして面と向かって口に出したことはない。だが私は、いつだってお前のことは誰よりも大切だと思っていた。それだけは間違いない」
「……ありがたきお言葉」
やがて、シアンが頭を垂れる。その声は低く、かすれている。
「シアン」
私は言葉を選んだ。「お前の忠誠に感謝する。本当に、ありがとう」
そう言った瞬間、私は少しだけ気が楽になった気がした。
もしも周りが全員私が王として相応しくないと決め、背くことになったとしても。もしもそうなったとしても、彼はずっとそばにいてくれるかもしれない。そんな気がしたからだ。
味方がいるというのは、嬉しいことだ。
それがたとえ、たった一人だとしても。
それから、夜の間は忙しかった。私はシアンとケイトにはライナスのことを全て話し、今後のことを話し合った。ユージンはライナスと少し話をしたようで、私がライナスの部屋にケイトたちを連れて戻った時には、その表情は随分と落ち着いていた。
ライナスは逃げる様子もなく、ただこれから受ける処分のことだけを考えているようだった。
私はことさらに事務的にライナスの住まいなどの今後の段取りを決めた。何も考えずに処理を進めていると、気が楽だった。落ち込む暇さえないようにと考えて行動していた。
「陛下、大丈夫?」
ケイトが時折、私にそう声をかける。
彼女もまた、私のことを心配しているらしい。しかし、彼女はこの城の魔術師であり、王に従う人間だ。従うべき人間が変われば、その優しさも別の人間に向かうのだろう。
「大丈夫だ」
私はそう笑顔で返しながらも、ケイトの笑顔の裏に何も隠されていないことを願った。彼女はシアンとは立場が違う。私は彼女を信頼しているが、おそらく、無条件に信頼しているわけではない。「私に従う」と彼女が決めている間だけ、彼女を信頼する。だから、彼女が別の人間を王として相応しいと思わないようにと期待する。
何て情けない人間だろう、私は。
王としての自信などない。
ただ、自分の立場を守るだけしかできないのか。
よくは解らないが、私はその夜、時々笑っていたらしい。自覚などなかった。ただ、不安げに私を見つめるシアンに気づき、自分の唇に浮かんでいる歪んだ笑みを知る。
「陛下」
突然、ケイトが私の目の前にやってきて、私を見上げる。
幼い風貌。しかし、その眼だけが風貌を裏切って老成していた。
「人間は変わるわ。悪い方向にも良い方向にも変わることができる。そして、それを本人が選べるのよ。陛下だってこれから変わるでしょう」
「変わりたいものだな」
私はただ苦笑した。良い方向に変わった自分など、予想もできない。悪いことばかりしか頭には浮かばない。
それでも、やるべきことはやらねばならない。
私はやがてライナスの部屋にいき、ベッドに座り込んでいる彼の前に立つ。そのそばにはユージンがずっと付き添っていて、彼の顔色もライナスと同じように優れなかった。
もうすぐ夜明けとなる時間。
窓の外に見える空はわずかに白んできていた。
「ライナス」
私は、俯いたままこちらを見ようとしない彼に声をかける。ライナスはそこでゆっくりと顔を上げ、私を見つめ直す。
「私のいたらなさでお前を失望させたこと、謝罪しよう。すまなかった」
そこで、私はできるだけ明るく笑う。「だが、安心しろ。私はこの国にとって、一番いいと思った道を選ぶつもりだ。……引き際もわきまえている」
「……陛下」
ふと、ライナスが眉根を寄せた。「王位を退くということでございますか?」
「そうだな。簡単に言えばそうだ」
「レイン」
そこに、慌てたような口調でユージンが会話に割り込んできた。「何を言っている? あなたが言っているのはつまり」
「慌てるな」
私は苦笑する。「きちんと後々のことを考えて、準備が整ってからだ。まだしばらくは先になると思う」
「しかし」
ユージンがさらに言いかけるのを遮って、私は軽く手を上げた。これで会話は終了という合図だ。
ちょうどその時、部屋にシアンが入ってきたのを確認すると、私は短く告げた。
「ライナスの今後のことはシアンに任せてある。不自由はさせないようにしよう」
シアンによって、すぐにライナスの出立の準備が整えられるだろう。他の人間には真実は伏せたままで、ただの病気の静養という理由で彼はこの城からいなくなる。
これで終わり……だと信じたい。
王位を退く。
それを決めてしまうと、気が楽になった。そして、心の中に奇妙な喪失感も生まれた。
でも、これは仕方のないことだ。私はそう自分に言い聞かせ、自分の部屋へと足を向けていた。
しかし、すぐに私は目的地を変えた。
もう夜が明けている。コウジは起きただろうか。昨夜のことは覚えている……だろうな。
とりあえず、改めて謝罪しなくてはなるまい。そう思いながら、コウジの部屋に入って寝室のドアの前に立ち、軽くノックしてからドアを開ける。
すると。
額からだらだらと血を流しながら、壁に頭突きをしている彼が目に入ったというわけだ。
「……コウジ、何をしている?」
すると、彼は力無く笑って見せてから、こう言った。
「き、記憶喪失になってもいいかな?」
「いや、あの、その件にについては、すまなかった」
私が慌ててそう言うと、彼は一気にその頬を羞恥に染めた。どうやら昨夜のことを思い出したらしく、両耳を自分の両手で塞いで「うがー」という意味不明な声を上げる。
「言うな、言わないでくれ、忘れてくれ、むしろ俺が忘れる」
コウジは部屋の中をぐるぐると歩き回り、額から流れる血が点々と床に落ちた。
「手当をしよう」
私がそう言って彼のそばに近づこうとすると、彼は慌てて壁際に逃げ、ぶんぶんと首を横に振った。
「いらない、自分でやれる、大丈夫、ほっといてくれ」
「しかし、血が」
「大丈夫大丈夫、全然痛くない」
コウジは「あはは」と笑って見せたが、すぐに額に手を置いて「痛いかも」と囁く。ほらみたことか。
「ほ、本当に大丈夫だって、と、とりあえずこっちにこないでくれ」
私が再度近づこうとすると、彼はそのまま窓の方に逃げていき、カーテンを掴んで引き寄せ、何の意味があるのかカーテンに身体を巻きつかせて何かぶつぶつと言っている。頭を打ったせいだろうか、コウジがおかしい。
「ライナスが迷惑をかけた」
私はできるだけ事務的な声になるように心がけながら、彼にそう言った。「もう、あのようなことはさせない。ライナスだけではなく、他の人間にも。本当にすまなかった」
「本当だよ」
コウジは私を見ないまま応える。「あんなことはごめんだ」
「ライナスはこの国から出して、戻らせないつもりだ。少なくとも、私が王である間は」
「あっそう。いいんじゃない」
やはり、コウジは私を見ない。素っ気ない口調がよそよそしい。
「……それで、コウジはこれからどうしたい?」
「んん?」
「元の世界に戻るか?」
そう私が訊いたところで、コウジがゆっくりとその視線を私に向けた。すると、最初は警戒心丸出しだったその瞳が、少しだけ戸惑ったように揺れた。
「まだ、この国を案内もしていない。いいところはたくさんある。風景も人も、もっと……」
私の口調は少しだけ早口になっていた。そして、いつの間にかコウジから目をそらしてもいた。「帰る」と言われたら、私はそれをとめられるわけがない。おそらく、この国を嫌ったまま帰ることになるのだろう。それが残念だった。
「ああ、帰る」
すぐに、コウジの返事があった。
予想していたこととはいえ、やはりそれは心が痛いことだ。
「すまない」
私はすぐに彼に頭を下げる。「本当に悪かった」
すると、コウジが少しだけ戸惑ったように私を見つめ直し、短く言った。
「どうしたんだ?」
「何がだ」
私も戸惑って彼を見つめる。私に何かおかしいところがあるのだろうか。
「随分……その、おとなしいじゃん。やっぱりアレか、あのクソジジイにやられたことがショックだったのか」
「クソジジイ……」
私は頭を抱えた。「ライナスのことをそんな風に言うのは誰もいないんだが」
「クソジジイをクソジジイと言って何が悪い。だいたい、自分の目上の人間に逆らったのはあっちだろ。そういうのは筋が通ってない」
「筋? 通る?」
「だってそうだろ。どうせやるんだったら、面と向かってやればいいじゃんよ。裏工作みたいなことをすんのって汚いだろ」
「しかし、そういう手段しか取れなかったということもある」
「何だよ、お前はあのクソジジイの味方か、味方をすんのか、あいつは俺に俺に……うがー!」
突然、コウジがカーテンの中から飛び出してまた壁際に向かい、頭突きをしようとした。私は慌ててその肩を掴み、壁際から引きはがす。
「触んな、ボケ!」
耳まで真っ赤にした彼は、私の手を振り払って首を振る。そして、また辺りに血の飛沫を飛ばした。
「その怪我の手当が先……」
「うるさい、黙れ!」
コウジは壁に背中を押し当てて、私を睨みつけてきた。「お前も怒れ! あいつはお前を裏切ったんだろ? 何でそんな風に庇うようなことを言うんだよ!」
「庇っているつもりはない」
「だったら怒れ!」
「なぜだ? これも仕方のないことだ」
「馬鹿かーっ!」
コウジがキレた。ばしばしと壁を叩きながら、彼は叫ぶ。
「早い話が、あのクソジジイはこの国を乗っ取ろうとしたんだろ? 結局はそういう話なんだろ? だったらお前は怒れ! 自分の国だろ? 自分の国が盗られそうになったんだろ!」
「……確かにそうだが……でも、近いうちに王位を退こうと思う」
「はあ?」
何を馬鹿なことを言っているのだ、と言わんばかりの口調。コウジはイライラと床を足で叩きながら続ける。
「何だ、逃げんのか。あのクソジジイに気を使ってそんなことを言ってんのか。ばっかじゃねえの」
「気を使っているわけではない。私の実力が」
「そんな物は後からつけろ! 実力とか関係ねえじゃん、お前は王様なんだろうがよ、この国のよ! それともアレか、面倒だから逃げようっていうのか。そりゃ楽だろうな、面倒事から逃げ出して、何もしなくていいんだったらな!」
「逃げる……」
ことに、なるのだろうか。
私はふと考える。
確かに逃げているような気がする。でも、これもこの国のことを思ってのことだ。他に有能な人間がいれば……。
「うちのオヤジが言ってたけど、逃げるのは誰にでもできるんだってよ」
ふと、コウジが頭を掻きながら言った。その声に少しだけ平静さが混じってきたようにも思う。
「どんな馬鹿でも、自分の身を守るために逃げることができるんだって。戦うのは誰にでもできることじゃないんだよな。だって、戦って怪我をしたら痛いじゃん。それを考えれば避けたいじゃん。楽な道を通りたいじゃん。……あんたもそうなんだろ。できるくせに逃げたがってるんだ」
「いや、それは」
「言い訳すんな」
コウジは目をつり上げて言った。「相手は老い先短いジジイだろ。しかも病気なんだろ」
ふと、その冷ややかな言い方に私は目を細める。
僅かな苛立ちが芽生える。ライナスは元は悪い男ではなかったのだ。それなのに、そういう言い方は──。
「だったら、あいつが死ぬまでに見せつけてやればいいじゃんよ。てめえが王に相応しいっつーところをよ。そうすりゃあのクソジジイだってあんたを見直すだろ?」
──ああ、なるほど。
そういう考え方もありか。
私はふと、コウジを見つめ直した。
私はライナスの願い通り、自分が王位から退くことしか考えていなかった。それが一番いいと思ったからだ。
しかし。
私は小さく呟く。
「……私にできるだろうか」
「知るかよ」
コウジも小さく応える。
「やってみるだけやってみようか」
やがて、私は小さく笑った。
無理かもしれないが、少しくらいは何かできるかもしれない。
そして私は、コウジに微笑みかける。
「ありがとう。お前は面白いな」
「どういう意味だ。お前こそ迷惑だ」
「すまない。……その」
私はふと昨夜のことを思い出して、口ごもる。言えば気を悪くするだろうとも解っていたが、つい。
「それに、お前は可愛い」
「死ね!」
途端、コウジが部屋の隅に逃げ込んだ。またコウジの頬が紅く染まる。私はその場に立ったまま、こう続けた。
「お前の怪我の手当をさせてくれ。見ているこっちが痛くなる」
「ほっとけ!」
「床にも血が落ちる」
しばらく、コウジは警戒したように小さく唸っていたが、やがてこう言った。
「じゃあ、あの女の子に手当をしてもらいたい。あの可愛い子、何て言ったっけ。ええと、ケイト?」
「可愛いは余計だ」
私は少しだけ苛立ちを露わにした口調で言ったが、それも仕方あるまいと思い直してケイトを呼ぶことにした。
しかし。
私はもっと、コウジに冷たい態度を取られるのだろうと思っていた。昨夜のこともあるし、もっと明快な拒否反応を起こされるのでは、と。
しかし、今のところコウジは顔を赤らめていて、青ざめている様子は見せていない。それに、警戒しているものの、嫌悪はしていないようだ。
まだ望みはありそうだな。
ふと、私はそう思う。
やってみる価値はあるかもしれない。コウジを口説く手段は、まだあるかもしれない。嫌われてはいないのであれば、可能性はある。
私から目をそらして、落ち着きのない表情を見せている彼。
もしもまたチャンスがあれば……いや、チャンスは作るべきか。その時は、本気で狙ってみようと思う。