異世界へ行く理由 1−9


「全く……壁と戦って勝てる人間は滅多にいないわよ」
  わたしは呆れながらもコウジの額の怪我の手当をしていた。
 陛下がコウジをわたしの部屋に連れてきた時、コウジの額から流れた血は彼のシャツのそこらじゅうに飛び散っている有様で、何もこんなになるまで放っておかなくても――なんて考えた。でも、呆れてばかりもいられない。わたしはコウジを自分の部屋に招きいれ、窓際にある自分のお気に入りの椅子に座らせたのだ。
 どうやらコウジは陛下の顔を見るのを避けているみたいだ。陛下が気遣うような表情を彼に見せているというのに、コウジは不機嫌そうに眉をひそめたまま、窓の外を見つめていた。
 やがて、陛下が静かに言う。
「ケイト、彼の手当を頼む」
「はーい、いいわよ」
 わたしは軽い口調でそう応えると、陛下にひらひらと手を振って見せた。少なくとも、こんな態度で陛下に接することができるのは、この城の中ではわたしくらいだろう。
 陛下はしばらくコウジの横顔を見つめていたけれど、やがて小さなため息をこぼしてから、わたしの部屋を出ていってしまう。ドアが閉まる音が聞こえてくると、やっとコウジの表情に安堵が見えた。
「何でこんなことをしたの?」
 わたしは彼の額に手を置いて、唇の中で治癒の魔術の呪文の詠唱をしてから小さく訊いた。すると、コウジがぎこちなく笑った。
「聞かないでくれ」
  その視線を宙にさまよわせた後、彼は深いため息をこぼす。
  明らかに途方に暮れているみたいだ。まあ、仕方ないかもしれないけど。

  わたしのやっていることは、罪深いだろうか。
  何もかも知っていて何もしないこと。見守ること。それは、この国の魔術師としてどうなの?
  ライナスが陛下を裏切るだろうということは、『見えて』いた。そして、ライナスが陛下の手で辺境の地に追いやられ、そこで病のために死ぬことにだろうということも。
  ライナスの裏切りによって、陛下は自分の立場が危うい場所に立っているのだということを自覚しただろう。『王』であるということは簡単だ。結局は血筋によって選ばれる。しかし、誰もが認める王であることは難しい。前王の影響力があまりにも強かった、このサラディアールにおいては。
  本当ならば、ライナスの裏切りが事前に見えていたのならば、それを防ぐこともできた。わたしが陛下を操り、ライナスが『王』に望む言葉を言わせればよかった。
  でも、そうしなかったのは陛下を私の操り人形にはしたくなかったからだ。
  彼に王としての自覚を持って欲しかったからだ。
  レイン・サラディアールという人間は、全てにおいて中途半端だ。
  王としての力量も、他人に対する接し方も、生き方すらも。
  彼は前王との力量の違いを身をもって知っている。そして、前王を超えることはできないと諦めている。だから、自分の中にある諦めや失望や虚無感を隠すために笑うのだ。好き勝手に遊び、遊びに飽き、次の遊びを探す。些細なことなど気にしない無邪気さを装い、その偽りの無邪気さを他人から観察の眼差しで見られている時の盾にしようとする。
  でも、そんなものは所詮、仮面にすぎない。
  いつかは剥がれ落ち、彼の根底に潜む自信のなさは周りの人間に伝わる。
  だから、私は何とかしようと思ったのだ。
  レイン・サラディアールという人間を、少しでも王らしく作り変えようと。

  このコウジという少年を選んだのは、陛下にとっては正解だったかもしれない。
  しかし、コウジにとっては迷惑だったろう。レインと係わらなければ、この少年は自分の世界で自分らしく生き続けたはずなのだ。『こんな目』にも遭わずに。

「レインってさ」
 やがて、コウジが傷の塞がった額に手をおいて、驚いたように息を呑んでから口を開く。「もしかして莫迦?」
 わたしはその場に立ったままコウジを見下ろして、つい吹き出しそうになる。
「そうね、莫迦だと思うわ」
 コウジの肩を軽く叩いてから、わたしはゆっくりと窓の方に近づく。窓の桟に手をかけ、穏やかな風が吹き渡る外をみた。とてもよい天気だ。木々の木の葉が風に揺れ、その風と木の葉が触れ合う瞬間に舞い踊る光の渦がわたしには見えた。それは生命の輝き。やがてこのサラディアールに冬が来て、木の葉が枯れて落ちる時には死ぬ間際の最後の輝きを放つ。
 この国はとても綺麗だ。
 だから、ずっと守っていきたいと思う。今までそうしてきたように、今後もずっと。
「あいつは王なんだろ? この国を守らなくちゃいけないんだろ? なのに、さ」
「そうね。守るつもりはあるみたいよ。まだ未熟だけどね」
「未熟……」
「あなたには感謝してるのよ、コウジ。あなたがいなければ、多分陛下は王位を退いたわね。そして、別の者が新しい王になる。おそらく、レイン・サラディアールよりも能力は劣るわ。それが内紛の種となる」
「……へえ」
 コウジの視線を感じて、わたしは彼の方へ顔を向けた。すると、彼は椅子に座ったままわたしを見つめ、眉をひそめていた。
「何でも解るのか、魔術師ってヤツは」
「ま、それなりにはね」
「じゃあ、その、あの予言とやらも本当に……そう、なのか。あのクソジジイが信じたように」
「予言? ああ、あなたのこと?」
「そ、そう」
 わたしはしばらくの間、なんて答えようか考えていた。そして、こう応える。
「少なくとも、陛下にとっては正しい予言だわ。あなたによって、彼は変化する」
「変化」
 そこでわたしは窓のそばから離れ、コウジのそばに戻って彼を見下ろした。わたしをじっと見つめる彼のまっすぐな瞳。その瞳の中には、戸惑いと混乱と、その外にも雑多な感情の渦。
 まあ、混乱するのも当たり前よね。
 わたしは内心でそう呟く。
「あなたから見る陛下ってどんな人間?」
 わたしはやがて、彼の心の中にある感情を刺激するために言葉を選んだ。「我が儘で身勝手でどうにもならないような男?」
「いや、そこまでは思わないけど」
「仕方ないのよ。陛下は、父親に拒否された人間だから。色々問題を抱えているの」
「問題?」
 そう。
 親子そろって莫迦なんだから。

 わたしは不老の魔術師と呼ばれてきた。
 前の陛下――レイン・サラディアールの父親が若かったころから、ずっとこの国の魔術師として名前を馳せてきたのだ。前王もまた、お莫迦さんとしか言いようがない。『王』としては優秀だった。でも、父親としてはからきし駄目だった。一人息子であるレインを、王妃が病で亡くなってからは厳しく躾けなくてはいけないという思いから、必要以上に厳しく接したのだ。
 レインにも言ったように、わたしは彼にも言った。
 言葉に出して言わなければ伝わらないものもある、と。だから言ってね、と。
 でも、前王は言ったのだ。
「レインはそれほど莫迦ではない。私が言いたいことは理解しているはずだ」
 似た者同士っていうのよ、こういうのを。それとも、血は争えないって言葉の方が似合うかしら。
 前王はレインよりもずっと頭が固かった。わたしの意見といえば、政治に関係することは聞き入れてくれたけれど、レインの教育に関しては全く相手にされなかった。
 母親が死んで、兄弟のいないレインは淋しい思いをしただろう。もともと、あまり素直な反応をする男じゃない。必死に強がって、できるだけ父親のいう通りに優秀な王位継承者であろうと努力をしたけれど、結局前王の願うような『完璧な人間』にはなれなかった。
「『私を失望させるな』というのが前王の口癖だったわね」
 わたしはコウジに向かってそう続けた。「でも結局、失望させ続けたのよね。そして、父親に声もかけてもらえなくなった」
「嘘だろ」
 コウジが信じられない、と言いたげに笑う。「だって、父親じゃん」
「父親である前に、彼は『サラディアール王』だったのよ。愛情はあったのかもしれないけど、少なくともレイン陛下は父親の愛情など感じたことなかったでしょう。優しい言葉も、思いやる言葉も、世間話すらもしてもらえなかったからね」

 コウジが沈黙してしまうと、わたしは小さく笑った。
 そして、部屋の中央に視線を向け、手を伸ばす。広いだけの部屋。寝室にはたくさんの書物があるけれど、ここは誰が来ても大丈夫であるように、必要なもの以外は何もおかないようにしている。だから、窓際にある小さなテーブルと椅子の他には、ほとんどなにもないと言ってもいいくらい。
 何もないから、大理石の床がひどく広々と広がっているようにも見える。
 私は呪文の詠唱に入り、手のひらに熱が生まれるのを感じた。
「すげえ」
  背後にコウジの声を聞きながら、わたしは大理石の床の上を舞い踊る魔術の呪文を見下ろしていた。呪文が完成すると、床の上に変化が現れる。床が歪み、形を変え、盛り上がって小さな世界地図をそこに描くのだ。
 山々の形もそのままで、水の流れている川、風に揺れる木々。
 小さくなっただけで、この世界そのままの姿の地図。
 サラディアールだけではなく、その近隣の国々の形まで。
「ここがサラディアール」
 私はその小さな世界の地図のそばに膝をついて、我々が暮らす場所を指で示した。サラディアールは自然豊かな国だ。他国に比べると若干、人口は少ないかもしれない。しかし、広い領土を誇る国だ。
「ここ?」
 コウジが興味津々といったように地図を覗き込み、目を見開いている。
「綺麗でしょう。わたしはこの国を守るための魔術師なの。この国が平和なのがわたしの幸せ」
「綺麗、だよな。うん、日本とは全然違う」
 ため息交じりの声。
 そうね、確かにコウジの世界とはあまりにも違うでしょう。わたしが見たコウジの住む世界は、奇妙な形の物であふれていた。自然と呼べるようなものは少なく、大地の持つ力も薄い。あまりにも違う世界に住む我々だから、お互いに求めるものが違うのかもしれない。
 わたしがコウジに求めたのは陛下の心の平安のみ。他は正直、どうでもいい。
 シアンにはつらい思いをさせることも理解していた。でも、シアンはああいう生き方しか選べない男だ。彼はたとえ自分の思いを陛下に理解してもらえなかったとしても、ただつき従うだろう。それしか彼にはできない。可哀そうな人。
 そしてコウジは――。

「陛下はあなたに気があるわよ」
 やがて、地図に見入っていたコウジの横顔に向かってわたしは言った。「まだ自覚はしてないみたいだけど、あなたに惹かれているのは間違いないわ」
「いや、でも、それはさ」
 途端、コウジが地図から反射的に飛びのいて、部屋中をぐるぐると歩きまわった。乱暴に髪の毛を掻き回しながら、口の中でぶつぶつと何事か呟いている。そして、おそらく何か思い出したかのように、その頬が赤くなったり青くなったり。表情豊かで面白い。
「もちろん、あなたに陛下を好きになってくれとは言わないわ。強要されて誰かを好きになるなんてことはありえないもの。あなたの心はあなたのもので、あなたにしか方向を決められない。そうでしょう?」
「う、うん、まあ、そうか」
 コウジがほっとしたように足をとめ、わたしを見つめ直す。そして、恐る恐る口を開く。
「だったら、あの予言がその通りにならなくてもいい……ってことかな」
 コウジは顔を赤く染めながらそう言い、わたしは無邪気な笑顔だと見えるだろうそれを満面に浮かべながら頷いた。
「いいわよ。そんなのわたしは気にしない」
「そ、そうなんだ!」
 コウジの表情が晴れやかな笑顔に変わり、わたしは内心で舌を出して見せた。
 もちろん、そんなのは気にしない。
 でも。
「お願いがあるの。もしも陛下のことを何とも思っていないなら、早いうちに彼を拒否しておいてね」
「拒否?」
 コウジが怪訝そうに首を傾げるのと、わたしが次の言葉を紡ぐのが同時だった。
「陛下が必要以上に傷つくのを防ぎたいの。大丈夫、陛下は誰かに拒否されるのも慣れてる。誰かに愛されるという感情を感じたこともない。でも、やっぱり心のどこかで期待しているでしょう。好きになった相手に、自分も好きになって欲しいと考えるはずよ。でも、あなたにその可能性がないなら、深入りしないうちに『嫌いだ』と伝えておいて」
 コウジは動きをとめてわたしを見つめたままで、言葉が見つからないようだ。
 ――ああ、混乱しているのね。わたしには解る。
 だって、コウジも自分の感情が解らないから。陛下のことを何と思っているのか、自分では解らないから。
 だから、逃げようとしている。解らないことを解らないままで答えを探さず、放置しようと考えている。
 でも、知ってる?
 あなた、陛下のことを嫌いではないのよ。嫌いだったら、そんなに悩まないはず。そうでしょう?
 でも、それが解らないから悩んでいる。
「曖昧にしておくことって、時には残酷なものよ」
 わたしはさらに追い討ちをかけるように言った。「最初から嫌いだと伝えておけば、陛下だって余計な期待はしない。だから、お願い」
 わたしはコウジの肩を軽く叩いて、そろそろ話は終わりという合図を出した。しかし、コウジはしばらくそこに立ったまま動こうとしなかった。
 そして、やがて我に返ったようにわたしを見つめ直し、何とも微妙な表情を作って見せた。
「それで……いいのか」
 混乱したような彼の声。
「いいのよ」
 あっけらかんと響く、わたしの声。

 でも。
 これは、コウジに自分の感情を見つめ直してもらうための一歩。
 考えて、悩んで、答えを出してちょうだい。
 わたしには、どう転がるのかもう結果は見えているのだけれど。

「本当、わっかんねえ」
 コウジは乱暴に髪の毛を欠き回しながら言った。「可愛い顔してんのに、何を考えてんのかなー」
「あら」
 可愛いってわたしのことかしら。
 わたしはわざとらしく、口元を上品な仕草で手で覆いながら微笑む。
「ありがと」
 コウジはそんなわたしにちらりと視線を投げた後、まるで威嚇するかのように小さく唸って見せた。


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