2月14日 6


 終わりにしなくてはいけない。
 もう、こんな関係を続けるわけにはいかない。
 最初が間違っていたのだ。こんな関係にしなければよかった。友人のままでよかったのだ。

 藤崎のことを避けるようになった。少しでも距離を置きたいからだ。
 しかし、そう考えているのが紛れもなく事実だとしても、もしも彼から「部屋にこいよ」と誘われたら抗いきれないだろう。それが私の弱さだと思う。それでも、私が彼を拒否しているということを精一杯彼に態度で示した。
 藤崎も、それに気づいたようだ。
 私に近寄ってくるのを躊躇うようになったし、時々遠くから私を窺うように見つめてくる。それを無視したのは私だ。自分から仕掛けたことなのに、彼からの接触が減ったことに淋しさを感じているのは馬鹿馬鹿しい。
 仕事が終わっての帰り道は、藤崎とは絶対に一緒に帰らなかった。わざと寄り道をして、普段だったら行かないような店にも足を運び、時間をつぶすだけの毎日を選んだ。
 デパートの中を適当に歩き回り、買う予定ではないものを時間をかけて見つめる。書店で買った本を、喫茶店で読みながら時間をつぶす。
 そんな毎日。
 私が足を運ぶ場所は人が多く、騒々しい場所ばかりを選んでいるというのに、なぜか淋しいと感じた。それは、その場にいる彼らが私に関わりのない人間だからだ。どんなにたくさんの人がいようと、彼らは他人であって、私の人生に関わることはない。
 こんなことを考える私は、今までとあまりにも違っていて、自分でも戸惑っていた。

 由梨さんを見たのは、そんな時のことだった。
 仕事帰り、私は駅の構内にあるスターバックスに寄っていた。コーヒーを飲むといえば、最近はほとんどここだった。文庫本を持って立ち寄り、長居をするつもりで注文を済ませる。それから、できるだけ奥にあるテーブルを選んで席に着き、ただ夜が更けるのを待った。
 最近は夕食をまともに取っていない。食欲がないから、コーヒーを飲むだけで満足してしまう。それでも、職場の人間に気を遣わせたくないので、昼食だけは何とかそれなりに取ろうと努力はしていた。
 私がふと文庫本から視線を上げ、大きな窓の向こう側を見つめた時、彼女がいた。
 本当に目立つ女性であるから、見間違えということはあり得ない。胸を張って歩く姿は、やはり視線を奪うだけの魅力を放っていた。
 彼女は駅の構内から出て行こうとしていたらしいが、ふと足をとめるとスターバックスの中にやってきた。そのまま、数十秒頭上にあったメニューの写真を見つめ、小さく頷いてカウンターに近づく。
 女性の「いらっしゃいませ」という言葉が明るく飛び交い、「ランプの方へどうぞー」と受け渡し口へと案内される。
 由梨さんは無表情でコーヒーを受け取ると、私からさほど離れていないテーブルについて携帯電話を取り出した。どうやらメールを打っているらしく、しばらくの間は彼女の視線は携帯電話の小さな画面に向けられていた。そして、携帯を折りたたむと小さなバッグにそれを放り込み、ため息をついてからコーヒーに口をつける。
 何をやっても様になる女性だ。
 私はふと、小さく笑った。
 彼女が藤崎の思い人であるのは、よかったと思う。とても魅力的な女性だから、素直にそう思える。
 藤崎は彼女にふられたと言っていたが、本当なんだろうか? 藤崎の勘違いということはないんだろうか?
 もしも由梨さんが藤崎のことを好ましく思っているのなら、全て丸く収まるのだ。二人が交際を始めれば、それでいい。もう、私の存在は藤崎にとって不要になる。
 藤崎が最近、機嫌が悪いように思えるのは、多分彼女と上手くいっていないからだろうと思う。もともと、それが原因で藤崎は荒れていた。だから我々はこんな関係になった。
 もしも、由梨さんが藤崎のことを少しでも好きなら。
 そうすれば。

 胸が苦しいのは仕方ない。だが、きっといつか私は藤崎のことを忘れられるだろう。かなわない恋なのだから、あきらめるしか手段はない。
 たとえ時間がかかっても、いつかきっとただの友人に戻れる時がくる。
 そうすれば、この痛みすら笑えるようになる。
 今は笑うことができなくても。
 でも、いつか終わるのだ。

 ふと、由梨さんが私の視線に気づいたように、こちらに視線を向けた。
 目をそらさなくては、と思ったのは確かだ。しかし、彼女のその双眸の輝きに気圧されて動くことができなかった。
 彼女が眉を顰めた。
 しまった、と思って私は瞬時に色々考える。
 店を出ようか、それとも。
 そして、私は椅子を立ち上がった。

「由梨さん、ですか?」
 そう声をかけてしまったのは、なぜだったのだろう。彼女のテーブルの前に立ち、思い切って口を開いた。
 困惑したように私を見上げる彼女は、やはりとても綺麗な人だった。藤崎が好きになるのも納得できる。
「私は、藤崎の友人の倉知といいます」
 そう言って何とか微笑みを作って見せると、由梨さんは「ああ」と苦笑した。その肩から力を抜き、安堵したように息を吐く。それから、私を観察するかのように見つめ、その手をゆっくりと自分の前にある席の方へ挙げた。
「座るならどうぞ」
 彼女は平坦な口調で言う。
 私は少しだけ悩んだ後、自分のテーブルの上に置いたままだったコーヒーカップを持ってくると、彼女の向かい側に腰を下ろした。
「すみません、突然」
 私はすぐにそう口を開いた。すると、彼女は微かに笑って首を傾げる。
「いや、別にかまわない」
 彼女の口調は素っ気ない。女性らしいというよりも男性らしい口調だ。しかし、それが不快感がないのはどういうことなんだろう。
 彼女は私をじっと見つめ、口を開いた。
「あの馬鹿の友人なら、聞きたいことがあったのでちょうどいい」
「あの馬鹿……」
「もちろん、馬鹿とは藤崎のことだ。馬鹿だろう、あいつは」
「……肯定していいのでしょうか」
 私はつい苦笑した。何て言ったらいいのか解らず、そっとカップに口をつけた。
「君こそ、私に用があったのではないか。私のことを知っていたし、藤崎に何か聞いているのか」
「ああ、それは……」
 どう説明すべきか解らない。しかし、余計なことを言うのも馬鹿馬鹿しい。私はすぐに、小さく頷いてこう続けた。
「藤崎と付き合っていらっしゃると思ったのですが」
「ああ、しばらく前までは付き合っていた」
 由梨さんはあっさりと認めた。しかし、『しばらく前まで』と。
 私は内心では緊張しながらも、できるだけ平静を装って続ける。
「バレンタインの前にふられたと藤崎は言っていました。とても落ち込んでいて……」
「ああ、落ち込んだとしても大丈夫だ。もう、私のことは関係ない」
「関係ない?」
「そうだ。私たちはもうお互い、何の関係もない。食事に誘われたら付き合うが、せいぜいそのくらいだ。ただの友人関係だよ。あの馬鹿も、もうすでに私のことなど何とも思っていないはずだ」
「なぜ、そう言い切れるのですか」
 私は少しだけ、困惑していた。自然と表情が強ばるのが自分でも解り、それ以上言葉が見つからなかった。ただカップに手を添えたまま固まっていると、彼女は楽しげに笑みを漏らした。
「藤崎の友人にも面白い人間がいるな」
 そう言って首を傾げる彼女は、明らかに今の状況を楽しんでいるらしかった。彼女の目は明らかに私を観察するもので、だんだんそれはあからさまになっていく。
 私は妙に居心地が悪くなり、この場を離れようかと考え始めた。
 すると、彼女は肩をすくめて見せる。
「あの馬鹿を気遣ってくれる友人がいるというのはいいことだ。物好きだな、とも言いたいが、あいつには君のような人間が必要だろう。私は面倒だからあまり関わりたくないが、君のような人間だったら、真面目に色々言ってくれそうだ」
 私は多分、怪訝そうな顔をしたのだろう。その後、彼女が苦笑したから、私は慌てて表情を消した。しかし彼女は笑いながら続けた。
「あの馬鹿を心配して私に会いにきたのだろう。それだけで君が真面目な人間だということが解る」
「いや、それは」
 急に私の心の中に生まれる罪悪感。
 そうじゃない。それが目的ではない。真面目な人間だとも思われたくない。由梨さんに会い来たのは、口には出せない理由があるからだ。視線がテーブルの上に落ちて、私は何て言おうか考えた。
 しかし、私が口を開く前に彼女は言ったのだ。
「あの馬鹿は、好きな女ができたらしい」

「好きな……?」
 一瞬、意味が解らずに私は顔を上げて固まった。すると、由梨さんは少しだけ真剣な表情で頷いてみせる。
「君には何も言っていないのか。職場の女性らしいが……君はあの馬鹿と同じ会社の人間か?」
「……ああ」
 私はしばらく茫然と彼女を見つめてから、やがて頷いた。「ええ、同僚です」
「なるほど、恋の相談はできなかったらしいな」
 由梨さんはそう言って息を吐くと、やがて小さく笑った。「しかしあの馬鹿は、恋をしているという自覚はないらしいから仕方ないか」
「そう、ですか」
 私はぎこちなく笑う。
 だんだん彼女の台詞が私の頭の中に浸透してくると、自分がここにいることの馬鹿馬鹿しさにうんざりした。
 なんだ、藤崎には好きな女性がいるんじゃないか。
 由梨さんが言うのなら、それは間違いないのだろう。
 藤崎には、もう次の相手がいるのだ。
 もう、私の存在はいらなかったのではないか。心配することなど何もなかった。もう、終わりなのだ。
「すみませんでした、いきなり声をかけて」
 私はやがて、そう言って立ち上がる。彼女に微笑みかけ、礼儀正しく頭を下げた。
 すると、由梨さんはまるでからかうような表情で私を見つめ、小さく言った。
「気にしなくていい。結構、楽しかった」

 職場に藤崎の思い人がいる。
 そう知ってしまうと、彼が誰のことを気にかけているのか……と、つい藤崎の様子を観察したくなる。だが、仕事中、時折彼の様子を見てもいつもと変わったところはなく、誰か女性の方に視線を向けているわけでもない。仕事中だから、当たり前なのかもしれない。
 時々我々の視線がぶつかることもあったが、必ず私の方から目をそらした。
 見つめていたという事実が情けなくもあったし、彼の視線が怖かったからでもある。会話することはもっと怖かった。
 彼の考えていることは全く解らない。
 好きな女性がいるのに、なぜ私に関わるのだろう? その女性に声をかければいいのに。
 その人と上手くいってしまえば、彼だって幸せになれると思うのに。
 一番怖いのは、彼に抱かれている間の私の感情そのものだ。感情と肉体が求めているものが、あまりにも違いすぎる。
 どうしたらいいのか解らない。
 好きでもない相手に抱かれて、こんなに感じるのか、と彼に言われた時、私はつい、言ってしまいそうになった。好きだから感じるのだ、と。それとも、相手が藤崎ではなくても、私はあんな風に……感じるだろうか? いや、考えるだけで嫌悪が先にわき上がる。多分、藤崎だから……なのだ。
 私は彼の存在に囚われ過ぎている。
 彼のことを手に入れることはできないと知りながらも、身体だけの付き合いでもいいから、と馬鹿なことを考える。

 そういうのを何て言うのか知っているか?
 性欲処理のためだけの相手。

 友人だった頃がいいか?
 それとも、そこに心はなくても肉体につながりがあった方がいいか?

 軽蔑されたとしても、彼のそばにいられるのなら。
 彼が私に飽きるまで、あと少ししかないとしても。
 
 また、私の意識はそこへ戻ってしまう。
 終わりにしなくてはいけないと、あれほど自分に言い聞かせていても。

 しかし思い出せ。藤崎が何て言ったか覚えているか?
 淫乱。彼は私をそう呼んだのだ。明確な嘲りの色があったろう?
 あんな風に言われてもなお、私は多分、彼に抱かれたら嬌声を上げるのだろう。プライドなんかかなぐり捨てて、ただ悦ぶのだ。もう、あんなのは厭だ。そうだろう?

「よう、倉知。飯、食ってる?」
 合コンの日、私は待ち合わせ場所だった駅前に到着するなり、そこに立っていた城ヶ崎に乱暴に肩を叩かれた。
「ああ、食べてる」
 私は苦笑しながら彼に返事をし、さらにこう続けた。「今夜はさらに食べるつもりだが」
「よし、食え」
 城ヶ崎は明るく笑ってそう言ってから、その場に集まっていたメンバーの紹介を私にし始めた。
 待ち合わせの時間は夜の七時で、その十分前に私はそこに着いたのだが、まだ全員集まっていなかったらしく、しばらくその場で談笑することになった。
 最終的に集まった人数は、男性六名、女性八名、あまり男女のバランスはよくないのかもしれない。しかし、それほどそのことを気にしている人はいないようで、誰もが上機嫌で最初の店に向かった。
 座敷のある居酒屋で食事をし、その後カラオケへ。
 多少の酔いも手伝ってか、初対面の相手がそれぞれあったものの、気さくにうち解けることができた。
 私も城ヶ崎とだけではなく、他の人間とも色々話をして幾分、いつもよりも饒舌だったと思う。
 藤崎のことを考えたくなかったというのも理由の一つ。
 忘れられるのなら、何でもよかったのだ。私の内部から、藤崎の存在を追い出すために。

「どうしたよ」
 カラオケの合間、大きな部屋を借りてそれぞれテンションが高く盛り上がっている時に、城ヶ崎が私の隣に座ってきて訊いてきた。
 誰もが自分の歌う曲選びと、ノリのいい曲に合わせて歌ったり拍手をしたり忙しい。だから、我々の様子になど誰もが気を払うこともなかった。
「どうしたって?」
 私がそう城ヶ崎に問い返すと、彼は困惑したように笑って見せた。
「いや、何かあったのかと思って。結構、無理してない?」
 やはり、城ヶ崎は鋭い、と思う。
 しかし、私はただ何でもないふりをして笑う。
「無理はしていないが、そう見えるのか」
 そうとぼけて見せると、城ヶ崎は「何でもないならいいんだ」と首を振った。それから、しばらくの間は無言で私のことを見つめ続ける。
「うん、やっぱり無理をしているように見えるな」
 結局、しばらくの沈黙の後に出てきた彼の台詞はこれで。
 困ったものだ、と私は小さくため息をこぼした。
「気を遣わせてしまってすまない」
 私はやがて、城ヶ崎を正面から見つめてそう言った。「でも、本当に誘ってくれてありがとう。楽しいよ」
「そうか、気分転換になればいいんだけどな」
「ありがとうって」
  私は苦笑して彼の肩を叩く。
  すると、そこで我々が小声で話しているのを発見した女性陣が明るく声をかけてきた。
「大丈夫? 何か飲みます?」
 気を遣ってくれるのか、飲み物のメニューを我々の前に差し出してくれる。せっかくだからと頷くと、素早くソファから立ち上がって注文のために壁に備え付けてある受話器を上げた。
 その間にも、他の女性二人が「盛り上げるために歌います」と立ち上がり、マイクを取って皆の顔を見回す。
「ひかないで下さいねー」
 と言いつつも、やはりテンションは高い。
「トラジハイジのファンタスティポを振り付けありで歌いまーす」
 女性二人がそう言って、本当に振り付けをびしりと決めて歌い始めると、男性陣の間からも笑いが上がる。
「だんだん宴会芸じみてきたな」
 今夜会ったばかりの男性が、私の左隣で小さく耳打ちしてくる。つい、私も笑ってしまう。
 こういうノリのいい女性は好ましいと思う。おとなしくなりがちな男性陣を盛り上げてくれる。
「なんか歌わないのか」
 左隣からはさらにそんな言葉もかけられたが、私は「もうネタ切れなので」と笑って返した。城ヶ崎はそんな私の様子を見て、「俺たちも振り付けありで歌うか」と冗談を飛ばす。それだけは勘弁して欲しい。
 しかし、とても楽しかったのは事実だった。
 それなりに男性陣、女性陣たちは仲良くなったのも確かだ。メールアドレスの交換もした人間もいたし、それぞれ笑って解散した。とはいえ、日付が変わってからの解散であったから、電車は終電を逃していたし、タクシーの乗り合わせで帰宅するということになった。とはいえ、私のアパートはタクシーで帰るほど遠い場所ではないから、自分は歩いて帰るつもりだった。
「飲み直さないか」
 私が自分のアパートに帰るために歩き出すと、城ヶ崎はさりげなく私をそう誘ってきた。どうやら彼は私の様子を観察していて、まだ話したりないと感じたらしい。
 私は一瞬悩んだものの、それに頷いた。
「じゃあ、うちにこないか」
 私はそう言ってみる。「これからどこかの店に入るのも大変だろう。コンビニで何か買って……もう遅いから、私のところに泊まっていってくれてもいい」
「あ、それいいな」
 城ヶ崎が嬉しそうに笑う。そして、皆に手を振って我々は街灯に照らされた道を歩き出す。
 日付が変わったとしても、二十四時間営業の店は色々あるので、それなりに人通りのある道である。女性の一人歩きでは危険かもしれないが、こちらは男性二人。気楽なものだ。
 城ヶ崎は色々と雑談をしながら歩く。私もそれに笑顔で返す。
 沈黙がないことがありがたかった。
 適当に話をして、笑っていられるというのは本当にありがたい。
 しかし、それが壊れるのは私たちがアパートに到着した時のことである。

 私の住んでいるアパートは、二階建てである。私の部屋は二階の一番端の方にある。だから、階段を上がっていかねばならないのだが、その階段のところに人影があって、私たちは足をとめたのだ。
 ちょうど、登り口を塞がれた形になり、困惑したというのが一番最初にあった。
 しかし。
 階段のところには明かりが灯っていて、そこを通る人間の足下を照らし出してくれている。だから、そこにいた人間の姿もうっすらと見えていて、それが私の会いたくない人であったから、どうしたらいいのか解らなくなった。
「どうしてここに?」
 私はそう呟いた。
 そこにいたのは、藤崎であったから。

「大丈夫か」
 急に、城ヶ崎が心配そうな声を上げ、私の腕を掴む。私はそこで我に返り、城ヶ崎の顔を見つめた。城ヶ崎の表情は、少し強ばっている。彼は私を見つめた後、藤崎の方へと視線を投げた。その様子はあまりにも緊張していて、つい笑ってしまう。
 緊張するのも当たり前なのだろう。
 城ヶ崎は思っているはずだ。
 一人の女性を巡っての、修羅場なのだと思っている。
 確かに、それは間違いではないのかもしれない。
 でも、根本的なところが違っているのだ。
「大丈夫。少し待っていてくれ」
 私は城ヶ崎を安心させるように微笑み、彼をその場に立たせたまま自分だけ藤崎の方に歩み寄る。近づいていくと、階段の途中でその場に座り込んでいた藤崎が立ち上がる。そして、階下に立つ私を見下ろした。
「通してくれないか」
 私は小さく言う。
 藤崎の顔はちょうど影になっていて、その表情まではよく見えなかった。しかし、彼が少しだけ動いて少し離れた場所に立っている城ヶ崎を見つめた時、少しだけその表情が見えた。緊張したような、怒っているような表情。
「……泊まっていくのか?」
 藤崎は城ヶ崎を見つめたままそう訊いた。
 私もできるだけ平坦な声になるように気をつけながら応える。
「ああ、そうだ」
 すると、藤崎がまた私の方に顔を向け、何か言おうとした。でも、それはどうやら言葉にならなかったようで、しばらく躊躇ったかのような雰囲気が伝わってくる。
「何でここにいるんだ?」
 私は純粋にそれを疑問に思い、そう訊いた。今まで彼が私のアパートに来たことはない。会社からの帰り道は、藤崎のアパートの方が近かった。だから、いつだって彼のアパートの前で別れることになる。
 なのに、なぜこんなところにいるのだろう。
 今日は土曜日――日付が変わって日曜日だが――だから、仕事も休みで、彼も休日を楽しんでいたに違いない。なぜ、わざわざ私のところにきたのか。
 そう考えて、思い当たる。
 セックスがしたくなったから?
 しばらく私が彼を避けていたから、だからそろそろ――と、考えたのだろうか。
 結局、私の存在とは、彼にとってそんなものに過ぎない。それ以上にはならない。
「ごめん、今日は都合が悪いんだ」
 私はぎこちなくそう言うと、ちらりと城ヶ崎の方を見た。やはり、相変わらず心配げにこちらを見つめている彼。私が視線を投げたことで、城ヶ崎は助けを求められていると勘違いしたらしい。すぐにこちらに歩み寄り、まるで私を庇うかのように藤崎との間に立って階段を見上げる。
「大丈夫だと言ったろう」
 私が苦笑して城ヶ崎の肩に手を置くと、城ヶ崎は信用できない、と言いたげに私を見つめ直した。
「話が……したかったんだ」
 突然、藤崎がそう口を開く。どこか苦しげに響いた声は、いつもの彼らしくなかった。
 私が藤崎の方を見つめると、彼は居心地悪そうに俯いて小さなため息をこぼした。それから、階段を降りてきた。
「邪魔して悪かった」
 藤崎は私の横をすり抜け、そのまま歩き出そうとした。実際に、数歩行き過ぎた。そして、何か気にかかることがあるのか、足をとめて私を見やる。
「倉知……」
 彼は思いきったように口を開き、また何事か言いかけ、結局何も言わずに口を閉ざす。何が言いたいのだろう。私は彼の言葉を待ちたいと思った。
 でも、これ以上何を話す必要があるというのだろう?
 もう何もない。
 我々の間には、もう何もないではないか。
 何を期待する?
 私は何を期待しているんだ?
 期待などしていない。
 いや、している。
 していない。
 している。
 もう、忘れなければ。
 痛い。とても、苦しい。でも、言わなければ。
 言いたくない。でも。

 私は藤崎のそばに歩み寄る。すると、やはり苦しげな表情で私を見つめる藤崎がそこにいた。
 何て顔をしているんだろう。つい、手を伸ばしたくなる。大丈夫か、と手を握りたくなる。
 しっかりしろ、もう間違ってはいけない。我々は友人ではなかったのか。

 私は伸ばしそうになった手を握りしめ、藤崎のことを見つめる。
 藤崎の目は淋しげで、不安げに揺れていて、でも多分、私も彼と似たような表情をしているのかもしれない、と思う。
「藤崎」
 私はやっと、口を開く。
 ぎりぎりと痛む胸は、ないものと思おう。何もなかったのだと思いこもう。
 そして、こう言うのだ。

「さよなら、藤崎」

 藤崎の表情が凍った。衝撃を受けたように固まり、ただそこに立ちつくす。
 私は彼にだけ聞こえるように、小さな声で囁く。
「もう、終わりにしよう」


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