「私は魔物です。同情心などありません」
私がそう強く言った時、背後からグラントの明るい声がかかりました。
「どうしたの、木に向かって」
私は目の前にある大きな木の幹に手を置いて、呼吸を整えます。後ろからグラントに服を掴まれて揺すられましたが、しばらく何も言えませんでした。
「シェリル、木に何を言ってたの」
「いえ……」
私は少しだけ考えてから俯いたまま言いました。「ちょっと、予行演習を」
「何の?」
「うーん……何なのでしょうね」
私はやがて小さく笑い、ゆっくりと少年の方に向き直りました。
予行演習。ラースに向かって言うための。でも、言えるのでしょうか。何だかもう、疲れて頭が働いていません。
私はため息をついてから、まじまじと目の前の少年を見つめ直しました。
グラントは相変わらず邪気のない笑顔を見せています。しかしどこか、以前とは違う笑みだと思いました。少しだけ、芯の感じられる表情。自信という輝きが灯った瞳。
「グラントこそ、どうしたんですか。今日はシーザーとは?」
「今日も訓練があるよー。大変だよね、結構」
ふと、グラントが頭を掻いて見せます。そのまま彼は私の胴に腕を回し、抱きついてきました。ちょうど、私の胸元の位置に彼の頭が押し当てられます。髪の毛から覗いた三角の耳がぴくぴくと動き、彼の長い尻尾が力無く揺れました。
「疲れてるみたいですね」
私がそっとその柔らかな髪の毛に手を入れて、くしゃくしゃと掻き回すと、グラントは小さく鼻を鳴らしました。
「そりゃ、しごかれてるもん。疲れるし大変だし噛みつきたいけど、まあ、ちょっとずつ強くなってる気もするからいいや。でもさ、変なんだよ、僕は」
「何がですか?」
「父さんが殺されて、仇を討つために人間を殺したいと思った。でも、こうして毎日シーザーと身体を鍛えて強くなろうとしていると、だんだん解らなくなってくるんだ。シーザーは人間に殺される前に相手を殺せって言う。そういう世界に住んでいるんだからって。魔王様に命令されたら、たとえ相手がどんな人間であれ、殺さなくてはいけないんだって。でも、これから僕が殺す相手は、父さんを殺した人間じゃない。そうだよね。それでも殺さなくちゃいけないんだ。そうだよね」
「そう……ですね」
「でも何だか……よく解んないや。強くなろうと思ったけど、誰かを殺すために強くなるのって嬉しくないよね。よく解んないけどさ」
「ああ、そうですね」
私はやがて、彼の腕を振りほどいて、そっとその場に屈み込みました。そして、グラントの同じ視線の位置になって彼を見つめます。
「でもいつか、強くなったことを感謝する時がきますよ。例えば、あなたが誰かを好きになったら。あなたがいつか大人になって、女の子を好きになったとして、もしもその女の子が危険な目に遭っていたらどうしますか? 守ってやりたいと思いませんか?」
「……うん、そうだね」
「殺すための強さもあるでしょう。でも、誰かを守るための強さもあるんです。問題は、あなたがどちらの強さを選ぶのかということ。重要なのはそこですよ、きっと」
私は彼にそう言って微笑み、やがてグラントがほっとしたような笑顔を見せてくれたことに安堵しました。そして彼はもう一度私に抱きついて、「ありがと」と言った後に魔王様の城の裏庭へと走り出していきました。また、今日も彼はシーザーと一緒の時を過ごすのでしょう。
そしてその場に残された私はと言えば。
何て白々しいことを言ったのだろう、と俯きました。
誰かを守るための強さ。
ああ、そうでした。私はそれが欲しかった。
でも、守れなかったのです。そう、守れなかった。
守らなくてはならなかったのに。それが私の役目であったのに。
でも。
私が守らなくてはならなかった相手。それが思い出せない。
「でもそんなもの、どうでもいい」
やがて私は小さく呟きました。
自分が選んだのは『この道』なのだ。私が選んだ道を歩み、過去をなくして『ここ』にいる。
それで充分ではないでしょうか。
膝を地面についたままだった私は、やがてゆっくりと立ち上がりました。そして、ぶるぶると首を振ってそれまでの考えをふるい落としました。ばしばしと両手で自分の頬を叩くと、気合いが入ったような気がします。
何はともあれ、私は私のすべきことをしなくてはなりません。
大役です。
無謀なほどの大役です。
「いざ、出陣といきますか」
私は、やっとの思いで奮い立たせた自分の心を、何とかそのまま保とうと努力しながら城を出ることにしました。
ラースのことが気にかかります。
私は森の中を歩きながら、まだ魔王様の城にいるであろう彼を思い浮かべました。しかし、どんなに彼のことが気になったとはいえ、その彼と一緒に行動するのは躊躇われます。多分、何を喋ったらいいのかすら解らない。
とにかく、私がやらなくてはならないのは『勇者を誘惑すること』です。
誘惑して……ええと、そこに魔王様がやってきて、ついでにラースもやってきて、ええと。こういう肉弾戦は初めてなので、どうしたらいいのやら。
「剣を振り回す方が簡単だったかもしれません」
私はつい足をとめ、近くにあった木の幹に自分の手をついて、またため息をこぼしました。ああ、ため息と一緒に奮い立たせておいたはずの意気までこぼれていきます。
これではいけない、とばかりにまた歩き始めます。
目的地は決まっています。勇者たちがいる村の名前は知っていました。長い森を抜ければ、見えてくるはずです。そこは大きな都から遠く離れたところにある、小さな集落です。しばらく前から彼らはそこにいるらしいと魔王様に教えていただきましたので、ただ一直線にそこへと向かいます。
森が終わらなければ楽なのに。
そんなことも考えましたが、終わらない森などありません。
私はやがて、森が尽きる場所へと出て、村へと続く一本道の前に立ちつくしていました。
「あああ」
私はつい、その場にしゃがみ込みました。
それから、ふと、ある期待が心の中に芽生えます。
もしかしたら、勇者たちはもうあの村を出てしまっているかもしれない。どこか遠くへ向かい始めていたら、私と彼らは行き違いになって……。
どうせそうなったら追うだけです。で、きっと追いつく。
あああ、もう。
私はゆっくりと呼吸を整え、また立ち上がりました。そして、自分の格好を見下ろします。
飾り気のない灰色のマント。フードを目深に被っていますから、私の目元まではすっぽりと隠れています。銀色の長い髪の毛が、少しだけフードの隙間からこぼれ落ちていました。
マントの下にある服も、質素なものです。普通の人間が着ているものとほとんど変わりありません。アクセサリーの類も武器も何一つ持ってきておりませんでしたので、一見するとただの行商人に見えるかも知れません。もちろん、取引のために運んできた、何か大きな荷物を持っていれば、でしょうが。
村に入るのは簡単でした。
私の姿は、その目の色さえ抜かせば人間と変わりはありませんので、誰も私に疑惑の目を向けたりはしないでしょう。
もちろん、村への入り口のところには、見張り台がありました。おそらく、森から危険な生き物が出てこないか、魔物が出てこないか見張っているところなのでしょう。若い男性たちの姿が、そこにはありました。彼らは見張り台に交代で立って、異変がないか確かめています。しかし、彼らがチェックしているのは『化け物』の姿ですので、どこからどう見ても人間の姿である私は警戒する必要がないはずでした。
でも、万が一のことを考えて、私はその出入り口から入ることは避けました。少し遠回りになりますが、人気のない場所、ぐるりと壁に覆われている一角を狙い、そこを飛び越えて村の中に入ったのです。
その村はとても平和なところのようです。大通りに出ても、行き交う人々の姿は多くはありません。それでも、遠くの街からきたのであろう行商人たちの姿もちらほらと見かけました。笑いながら駆け抜けている子供たちの姿も、道端で談笑している女性たちの姿も。
問題は、勇者たちがどこにいるか、です。
おそらく、この村にも宿はあるでしょうから、そこを当たってみるのも一つの手かもしれません。問題は、もしもそこで勇者たちを見つけてしまったら、私は何をすればいいのか。
うーん。
物陰から見守るだけでは済まない……でしょうねえ。
私はとりあえず、村の中心へと足を向けました。その辺りには村の店が集まっていて、小さな村とはいえど多少のにぎわいを見せています。だから、私のような者がいても違和感はないでしょう。人気のないところに立っているよりは、ずっと。
そう考えて大通りを歩いていると、突然私は後ろから右手を掴まれ、引っ張られました。
驚いて振り返るのと、鋭い声が飛んでくるのが同時でした。
「何をしている」
私の腕を掴んで引き寄せて唸るように言ったのは、できれば会わずに済ませたかった勇者その人でした。
何て運がないんでしょうか、私は。
いつの間にか、私は彼に路地裏へと連れていかれました。人気のない場所で彼はさらに私に鋭く訊いてきます。
「ここに何をしにきた」
「いえ、それは」
私は慌てて辺りを見回しましたが、運が良いのか悪いのか、そこは本当に何もない場所で、ここにいるべきもっともらしい理由を見つけることもできません。
「魔王の差し金か」
勇者は眉根を寄せてそう言い、私の腕を掴む手に力を入れました。その痛みに気づかない振りをしながら、私は必死に考えます。
魔王様の差し金。
まさにその通りなんですが、その通りだと応えるわけにはいきません。だから。
「そういうわけでは」
ありません、と言いかけたのですが、勇者の目は猜疑心にあふれたままです。当たり前でしょうけども。私はそれとなく彼を観察しました。
マントに隠れてはいましたけれども、彼の腰には剣が下がっています。このまま切り伏せられてもおかしくない状況です。彼は『勇者』で私は『魔物』なのですから。
でも、彼はなぜか私を攻撃するつもりはなさそうでした。ただ、なぜ私がここにいるのかということを気にしているようです。
「……団長も……いや、あの男も一緒か」
勇者が低くそう言った時、私は『なるほど』と思いました。彼が本当に気にしているのは。
「いえ、一緒ではありません」
私がそう応えると、勇者は少しだけ私を睨みつけるように見つめ直した後で、ゆっくりと肩から力を抜きました。
私の腕は彼に掴まれたままです。
しかも、背中には家の壁。逃げ場がありません。
勇者はしばらくの間、地面を見下ろしたまま何ごとか考え込んでいるようでした。しかし、やがて我に返ったように顔を上げます。
そして、困惑したように言うのです。
「じゃあ、何故お前はここにいるんだ?」
それは訊かないで欲しかったです。
勇者を誘惑する。
……誘惑する。
私はじっと彼を見つめました。目深に被っていたフードがわずかにずり落ちていましたので、私の銀色の瞳が露わになっていました。
勇者の瞳は明らかに戸惑っています。そして、掴んだままだった手に気づき、そっと私から離れました。数歩下がって私を見つめ直し、わずかに首を傾げて見せます。
確かに勇者は、女性に好かれそうな顔立ちをしています。
いかにも、『男らしい』というような。頼りがいのあるような。冗談の中にも影があるような、ラースとは違う瞳。真っ直ぐなその輝きは、ずっと見つめられているとこちらが困ってしまうような……。
──私の考える『誘惑』というのは。
優しく微笑み、相手にしなだれかかり……。
無理。
「すみません、出直してきます」
大きなため息をついてから、私は勇者の視線を避けるようにして身を翻しました。そのまま足早にそこを離れようとしたのですが、勇者にまた腕を掴まれて引き戻されてしまいました。
「何を考えている」
彼は平坦な声で言いました。「何のためにここにきた? あの魔王は何のためにお前を」
「いえ、あの」
私は振り向かないままで呟きました。「その辺りは色々と事情があるのですが、とても言えるようなことでは」
「事情とは何だ」
「いや、ですから」
私は小さく唸りつつ、必死に考えました。そして、ふと頭に思い浮かんだことを続けます。
「魔王様は……その、あなたのことがお好きなのです。ちょっとその、過激なところもありますが、でも意外と……そのお茶目なところもあるというか何というか、ぜひとも毛嫌いなどしていただきたくないというか何というか」
「過激で済ますな、あのクソ魔王のことを」
途端、勇者が不機嫌そうな声になって言いました。「あの馬鹿魔王が俺にしたことといえば……したことと言えば」
勇者が乱暴に頭を掻きました。「とりあえず忘れることにする」
「うーん……」
まあ、忘れた方が精神的によさそうな気もするのですが、でもそれは魔王様がお喜びにならないでしょうし。
「……お前は変なヤツだな」
ふと、背後に立っていた勇者の声色が怪訝そうなものへと変わりました。少しだけ興味が惹かれたと言わんばかりに、苦笑混じりの声。
「お前は魔物だ。我々の敵だ。なのに、なぜ、こんなところへ? 俺に殺されても文句は言えまい」
「もちろん、文句など言う気はありません」
私がそう応えると、勇者が鼻を鳴らします。
「魔王の命令なら、か」
「もちろん、そうですが……」
そう言いかけた私の言葉を遮り、いきなり勇者が声を低くして問いつめます。
「その命令とは何だ」
「いや、だからそれは」
私は必死に勇者の腕を振りほどこうとしながら言いました。「こ、こういうのを『言っていいことと悪いことがある』というのでは」
「違うだろう」
あっさりと勇者にそう言われると、私も何も言い返せません。とりあえず、笑って誤魔化して隙を見て逃げ出す算段を始めました。
しかし。
「クレイグ」
そんな声が辺りに響き、気がつけば路地裏に入り込んできた影があります。私が緊張しながらそちらに目をやると、以前もその姿を見た若い魔法使いであることが見て取れました。
魔法使いは私に気がつくと、その表情を強ばらせました。そして、その右手に緊張を走らせつつ、勇者に小さく叫びます。
「何故、ここに?」
「理由は知らん」
勇者が小さく応えると、魔法使いの視線はまた私へと向けられ、その目が細められました。明らかに敵意の感じられる輝き。自然と私の身体にも緊張が走りました。
魔王様の思い人である勇者のことは、攻撃できません。でも、それ以外の人間でしたら話は別です。
奇しくもシーザーがグラントに教えた通り。殺される前に相手を殺さねばならない。
でも。
──誰かを殺すために強くなるのって嬉しくないよね。
グラントの言葉を思い出します。
確かにその通りです。
私は身体から力を抜いて、そっと勇者を見やりました。その途端、魔法使いの右腕から放たれた攻撃呪文が光の剣となってこちらに降り注ぐのが感じられました。
「待て!」
勇者がそう叫んでいるのが聞こえます。
そして、私は左肩に凄まじい衝撃を受けて地面の上に転がされました。機械的な動きであったろうと思います。私はぎこちなく顔を上げ、右手を上げて左肩へと手のひらを置きました。マントの一部が引き裂かれ、自分の肩から血が流れ出ているのが見えました。それは紅くなどありませんでした。
髪の色も銀、瞳の色も銀なら、血の色もそうなのです。
人間ではない証拠。
「何故とめる?」
魔法使いが呆れたと言いたげに叫びました。「いい加減にしろ、お前はどこかおかしいんだ! 魔物に情などかけてどうになる? そいつらは我々人間を殺すんだ。何の躊躇いもなく、女子供だって殺す。そいつが人間を殺すのを、お前も見たはずだろう!」
その通りです。
私は魔王様のご命令なら何でもします。そして事実、勇者の前で人を殺しました。
私はその場に膝をついて、勇者と魔法使いの顔を交互に見つめました。魔法使いはどこか勇者に失望しているような目つきをしています。そして、魔法使いはやがてこう言ったのです。
「これで最後だ。もしもまた、お前が魔物を庇うようなことがあれば、私は抜けさせてもらう。魔物がいても戦わないというのでは、私の存在意義がない」
魔法使いはそうため息交じりに言った後、私を見下ろしました。
私は呼吸を整え、ゆっくりと立ち上がります。あまり事を荒立てない方がいいでしょう。大人しくしていた方が、きっと──。
私は頭の中で必死に計算を始めます。
おそらく、私の行動は魔王様に見られていることでしょう。下手な行動はできませんし、よく考えて動かなくてはなりません。
そして、『誘惑』が上手くいったら……いかないと思いますが、万が一上手くいったらちょっと考えたくない未来が待っていて、そうなったらどうしたらいいのでしょうか。ここまで考えると、思考能力が停止するのが自分でも解ります。
私がじっと黙り込んで考えている間に、魔法使いはまた新しい呪文を詠唱し、いつの間にか私の両手首に光が走っていました。魔法の輪。それは、私の手首をきつく縛り付けています。我に返った私が必死に手首を捻っても、それは取れそうにありませんでした。
ええと。
私が顔を上げると、魔法使いは冷ややかに私を見つめ、短く言いました。
「何をするか解らないから、こうしておく。捕虜だと思った方がいい」
「捕虜……」
私はぼんやりとしたままそう繰り返します。
すると勇者がその光景を見つめながら眉根を寄せ、右手を自分の額に置いて魔法使いに言いました。
「捕まえてどうする? 何のために?」
すると、魔法使いが呆れたように言い返します。
「そんなことくらい、自分で考えろ」
「……とにかく、移動しよう」
やがて、勇者が疲れたように言いました。
勇者と魔法使いのやりとりはぎこちなく、どこか危うげな様子がありました。彼らの会話の間中、私はずっと手首を気にして捻っていましたが、やはり魔法で作られた輪は壊れそうにもありません。
むしろ、これで良かったのかもしれない。
これでは何の行動もできません。勇者を誘惑することだって、絶対に無理です。そう、良かった。
私はやがてそう結論づけると、彼らが促す通りに歩き出しました。肩からは相変わらず銀色の血が流れ落ちていたので、少しだけ路地裏から大通りに出た時には緊張しました。さすがにもう、自分が人間であるように偽ることはできません。その血の色だけで私が魔物であることは村の人々に知られてしまう。
すると、勇者が自分のマントを私の肩にかけ、私を見ないままで言いました。
「目立つのは避けたい」
すると、我々の前を歩いていた魔法使いがちらりとこちらに視線を投げ、わずかに首を振りました。完全に勇者の行為に呆れているようでした。
「……ありがとうございます」
私は戸惑いながらも勇者にそう言うと、彼は無表情のまま返してきました。
「お前のためじゃない」
まあ、それはそうでしょうが。
変わった人間だ、と思います。魔法使いが呆れるのも無理はありません。
私は彼らに気づかれないように、そっと苦笑を漏らしました。