「……それは一体、どういうことで……」
随分経ってから、私は我に返りました。そして、恐る恐る訊いてみます。すると、魔王様は低く笑って言うのでした。
「言葉通りのことだ。お前が勇者を誘惑し、油断をさせる。勇者がその気になってお前を押し倒し、ガンガン突いている時にはやはり、さすがの勇者と言えど背後の様子など気づかないだろう」
「……ガンガン……」
突いてる?
私はぼんやりと魔王様の楽しげな笑みを見つめていました。
すると、魔王様はまるで腹の底からわき上がってくる、と言いたげな高らかな笑い声を上げて続けます。
「その通り! あの勇者がお前の足を割り開いて突っ込んでいる間に、私は勇者の背後から近づいて無理矢理押さえ込み、勇者がお前に逸物を入れたままの格好のままで、私が勇者に背後からぶち込む!」
「……ぶち込む?」
「ちなみに、絵にするとこうだ!」
突然、魔王様の目の前に巨大な羊皮紙が降りてきました。どこからか現れたその羊皮紙に、やはりどこから取りだしたのか解らない羽根ペンを魔王様は右手に持ち、さらさらとそこに絵を描き始めました。意外なことに、妙に上手い絵です。
そして、その絵では。
男性が男性と向かい合って絡んでいます。
ええと、腰が、というか……その、そういう部分がそういうことになっています。
で、魔王様らしき男性の絵が描かれ、その方は一人の男性の背後に近づき、つまり……その、えええええ!
「すごいつながり具合である」
魔王様はどこか夢見ているような目つきのまま、うっとりと囁きました。
で、私はといえば。
がくりとその場に膝をついて、両手を床に置いて言葉をなくしていたのです。
「ちなみに、おそらく私のマックス時の実物大は……」
と、魔王様がハイテンションに絵を描き続けます。
妙にリアルに描かれたソレは、か、描いてはいけないものだと思います! 何も、そんな写実的に描かなくても!
そんなものを見せられたら、色々想像してしまうではないですか! 考えてはいけないことまで!
私は魔王様の描かれている絵に目を合わせないように、ただ床に視線を落としました。とりあえず、落ち着かなくては。
何度か深呼吸を繰り返しているうちに、だんだん私の思考能力も少しは元に戻ってきたようで、魔王様の言葉が自分の頭の中に染みこんできます。つまり、それをやらねばならないということで。
……できるんでしょうか、私に。
どう考えても、無理なような気がします。
うーん、と私が唸っていると、頭上で魔王様が上機嫌に続けました。
「お前はシェリルに惚れているのか」
魔王様のその問いに、ラースが息を呑みました。
私が驚いて顔を上げると、ひどく真剣な表情のラースが魔王様を見つめ返しています。そして、彼はゆっくりと頷きました。それは、魔王様の問いの答え。
私は何故か、心臓がざわついたような気がします。でも、それは気のせいだと自分に言い聞かせ、ゆっくりと立ち上がりました。さすがに、ずっとこの体勢のままというのは魔王様に失礼だと思ったからです。
居住まいを正してそこに立った時、魔王様はラースに向かってこう続けていました。
「お前も一緒に参加するか? シェリルの口は空いているだろう」
口は空いている……?
私はその意味が解らなくて、ただ首を傾げます。
魔王様はにやりと笑って見せました。
「4Pというのも面白い。お前がシェリルとそういう体勢になるならば……」
魔王様は持っていた羽根ペンでまた宙に浮かんだ羊皮紙に絵を描き足しました。「おそらく、こうなる!」
私はその絵を見て途方に暮れました。
そ、そういう体勢は無理なのではないでしょうか。私の役目は……役目は……。
私は勇者とラースを相手に……ええと。
泣いていいでしょうか。
「どうだ、参加できそうか?」
魔王様のさらなる問い。
私が恐る恐るラースの方を見て、その答えを確認しようとします。すると、ラースの目が据わっています。そして、彼は短く言いました。
「ええ、ぜひ」
ええっ!
私は魔王様に気づかれないように、ぶんぶんと首を横に振りました。そっと、ラースにだけ気づいてもらえるように。しかし、彼は魔王様を正面から見つめたままで、私の方に視線を投げようともしません。
無理、無理です、絶対。
だって私は。
「できるな? シェリル」
そう、魔王様が突然私の方へ微笑みかけました。とても美しい笑顔だと思います。その、内面のとんでもなさとは裏腹に、その笑顔だけ見ていたら本当に素敵な方だと思うのですが、思うのですが!
「せいぜい勇者を惑わしてもらいたい」
そう、魔王様がおっしゃいます。
……魔王様の言葉は『絶対』です。命令に逆らうことなどできません。
私は内心で途方に暮れながら、そしてもちろん、泣きそうになりながらも微笑みました。
「はい、お任せ下さい」
言ってしまいました。絶対、無理だと思うのに!
大広間から出て、後ろで扉が閉まった音がした瞬間、私はそのまま壁に手をついたままずるずると座り込みました。
眩暈がします。
お任せ下さい、などと言ってしまいましたが、あの、誘惑というのはどうやってすればいいものなのでしょうか。男性を誘惑するのは、女性の仕事なのではないでしょうか。色っぽい服装で男性にしなだれかかり、優しく微笑む。これが私の考える『誘惑』です。
私は自分の露出の少ない服装を見下ろし、これでどうやって誘惑すればいいのかと真剣に考え込みました。肌の露出が多くても、男性というのは普通はあまり魅力を感じない姿形をしているはずです。
「シェリル」
私の頭上から、強ばった声が聞こえました。ラースの声です。
私がのろのろと視線を上げると、突然ラースは私の腕を掴んで引っ張り上げ、その勢いで抱きかかえて廊下を歩き出しました。
「あ、あの、一人で歩けますが?」
私は困惑してラースの腕から降りようと藻掻きましたが、彼の腕は緩まることはありませんでした。しっかりと私を抱きかかえたまま、そして先ほど見た時と同じく、妙に目が据わったままで歩き続けています。
ちょっと、厭な予感がしました。
「落ち着いてください」
私はそっと話しかけます。「私も落ち着かなくてはいけないんですが、とりあえずまずあなたも落ち着きましょう」
「黙ってろ」
ラースは大股で廊下を歩き続け、私の部屋の前までやってきました。そして、乱暴にドアを開けて中に入り、私をベッドの上に投げ出します。その乱暴な手つきは、いつになく焦っているようにも思えます。
私はすぐにベッドから起きあがり、そのまま立ち上がってラースから離れようとしました。しかし、無理矢理腕を掴まれてベッドの上に押しつけられてしまいました。
……ええと。
私はベッドの上に寝ころんで、ラースの顔を見上げる体勢になっていました。
この体勢は、つまり?
「あいつに抱かれる前に、俺の物になれ」
苦しげにラースが囁きます。とても真剣な眼差しだったので、冗談を言っているようには思えませんでした。冗談だったらよかったのに。
「あの、あの」
私は必死に言葉を探しました。「そうは言われましても、心の準備が」
「大丈夫だ、俺も心の準備はできてない」
「余計安心できません」
「もう少し時間をかけるつもりだったんだがな」
ふと、ラースが薄く微笑み、わずかに性急な手つきで私の服を脱がし始めました。私は慌ててその手を押し返そうとします。何も、こんな突然に!
しかし、ラースはそんな私の抵抗など気にした様子もなく、私の喉にキスを落としてきました。彼の唇がゆっくりと喉のラインから鎖骨辺りへと滑っていくのを、くすぐったく思いながら私は叫びました。
「待って、待って下さい、落ち着いて!」
「落ち着いてられるか、くそ」
ラースは笑みを消して呟くように言います。「俺はお前に惚れてると言ったろう。なのに、あのクソガキにお前を盗られそうになってるんだ。お前を抱くのは、俺が先だ。あいつには触らせたくない」
「いえ、でも、魔王様の命令は絶対ですし、でも私には彼を誘惑とかできそうにないですし、どうしたらいいのかも解らないわけですから、どうしたらいいんですか!」
私は混乱したまま続けます。「だ、だいたい、あの勇者が男性に対して『そういう気』になるのかどうかも解らないじゃないですか! 私が誘惑したとして、彼が拒むかもしれないですよね!」
「受け入れるかもしれないだろ」
ラースは短くそう言うと、無理矢理私の足を割り開き、空いた隙間に身体を乗せてきました。ベッドが軋む音が、奇妙にリアルに響きます。
あああ、もう!
私は慌てて足を閉じようとしました。でも、もう遅いのかもしれません。
彼の手が私のシャツの間から、腹の方へと伸びています。ゆっくりと、そしてだんだん下腹部へと降りていく彼の手のひらを感じながら、私はただ「駄目です駄目です」と繰り返しました。
正直なところ、誰かとこういったことをしたことがありません。
どうしたらいいのか、どう反応したらいいのかすら解りません。
とにかく、彼の手に触れられているのが恥ずかしく、そしてこれからやろうとしていることを考えると全身の血が逆流するかのようで、何も考えることができません。こんな状態で、こんなことをやるなんて納得などできませんでした。
「そんなに俺が厭か」
私のやまぬ抵抗を見て、少しだけラースが苦しげに囁きました。その手の動きがとまり、ゆっくりと持ち上げられて私の髪の毛に触れます。それは、いたわるかのような優しい動きでした。
「厭とかそういうことが問題なのではありません。わ、解らないんです。どうしたらいいのか!」
私は必死にそう告げると、ラースが小さくため息をこぼします。
「お前、魔王様が好きなんだよな。……前から解ってはいた」
「ええ、それはもちろんです」
私はこくこくと頷き、ラースから遠ざかろうとじりじりとベッドの上で後ずさろうとします。そして、必死に考えながら言いました。
「私がこの城にいるのは、全て魔王様のためです。魔王様の元で働くためです」
「全て魔王様のため、か。あいつ……クレイグと寝るのも、魔王様の命令なら簡単にできるのか」
「……簡単とまでは言いませんが」
私は眉を顰めました。「でも、それが命令なら仕方ありません。……でも、どうしたらいいのか本当に解らないので……」
「くそ、お前は真面目だ」
ラースは突然、私から離れました。そして、ベッドに腰を下ろしてため息をこぼします。
自由になった私は、彼が気を変えないうちにとばかりにすぐに身体を起こし、乱れた服装を直しました。そして、ラースの横顔を見つめながら言いました。
「あなただって魔王様の命令には従うでしょう? これが当たり前なんです」
「それはそうだが……」
ラースがふと、私に視線を投げました。
真剣な瞳。顔色はよくありません。
「だが、お前にとって、魔王様は『特別』なんだろう」
彼はどこか暗い口調で続けました。「俺などよりもずっと大切な相手なんだ。惚れているからか」
「私は……」
惚れている。
魔王様に、私は惚れている……と思います。
最近はよく解らなくなってきましたが、ずっと私は魔王様だけを見つめてきたと思います。私が好きなのは、魔王様の美しさではなく、もっと別なところ……だと思うのですが。
魔王様はいつも暴走しています。
呆れてしまうことも多々あります。
それでも、私にとって魔王様は特別な方でした。
それは、今も昔も変わらない……はずなんです。
なのに。
私は急に、不安になりました。
──あの魔王様は違う。
急に、私の心臓が高鳴り始めます。
何かが私の中で動いた気がしました。壊れていた何かが修復されていく感じ。忘れていたものを思い出している、その途中に私は立っている。
「魔王様は……」
私の唇が勝手に動きました。
胸が痛い。切なくて痛い。もどかしいくらいに。
私は自分の意志とは関係なくこぼれてくる言葉を紡ぎました。
「魔王様は、手の届かない方です。どんなに望んでも、手に入れることのできない方です。私はずっと、それでもいいと思っていました。あの方が幸せなら。私の思いなど関係なく、あの方が幸せなら」
ラースの目が私を捉えます。真っ直ぐに、ただ私だけを見つめる双眸。それは、切なそうに見えます。
「だから、私の思いなどどうでもいいんです。そばにいられるだけでいい。それだけで満足で」
突然。
私は何かに突き動かされるように、息を呑みました。
気がつくと私は泣いていて、何故自分が泣いているのか解らないから、頬を伝う涙に触れてそれを見下ろします。これは何のための涙なんでしょうか?
ぼろぼろとこぼれ落ちる涙。
それをとめる方法を私は知らない。
そして気がつけば、ラースが私を抱きしめていました。ひどく優しく、まるで壊れ物を扱うかのような手で。
「困ったな」
私の耳元で、ラースが囁きました。「強姦でも何でもしようと思ってた。クレイグに渡したくないからだ。でも、駄目だ。できそうにねえ」
私は何も言えませんでした。
急に何もかも諦めてしまったかのようなラースの態度に戸惑いながらも、その優しさに惹かれるものを感じました。だから、私を抱きしめる彼の背中に、自分の手を回します。でも、それ以上は何もできませんでした。
結局私は、何も解らないのです。
だから何も自分から選べない。何も解らないまま、命令に従うだけです。状況に流されるだけです。
それは私が空っぽだから。
そう、自分の中に何も残っていないからです。だから、自分というものが存在しない。自我といったものも、何て曖昧に存在するんだろうと思います。今の自分は、本当の自分なのでしょうか。あるべき自分なんでしょうか。
何とかしないといけない。
私は突然、そう思いました。
取り戻さなくてはいけないものがある。それを取り戻した時、必ずしも良い結果が待っているとは思えません。それでも、このままではいけないと思うのです。
「クレイグは真面目だ。俺はあいつとそれなりに長い付き合いだから、その性格のことはよく解っている」
ふと、ラースが躊躇いがちに言いました。「だから、お前が近づいて『誘惑』したら、おそらくあいつは本気になるだろう。お前に……惚れるという意味で」
「……そんなことはありませんよ」
私はかろうじて微笑んで見せました。まだ涙はとまってはいませんでしたが、声は何とか震えずに済みました。「何故なら、私は魔物で、彼は人間です。惚れるはずがありません」
「だといいんだがな、多分それは違うと思う。あいつは情に弱い。そして、お前は魔物らしくなく表情豊かで、『悪』に徹し切れていない。何だかよく解らんが、俺を庇ったりもする。俺が悪役に徹しようとしているのに、それをやめさせようとする。誤解を解こうとする。普通の魔物だったら、そんなことしないだろ? そんなことをするのは、今まで俺が付き合ってきた魔物の中でも、お前くらいなもんだ。……あいつは……クレイグは、人を見る眼はあるんだよ。困ったことに、奇妙なところで鋭い」
「でも」
私は苦笑して言葉を続けようとしました。しかし、ラースはそれを遮って言いました。
「お前は魔王様の命令通り、あいつを『誘惑』するんだろう。いや、おそらく、無意識のうちに今までもしてきているはずだ。今までだって、あいつは魔物であるお前を殺そうとはしなかった。多分、何か感じるものがあったからなのかもしれない。そして、お前が狙い通り彼に近づいて、クレイグがその気になったら……」
ラースはそこで一度言葉を切って、少しだけ首を傾けて見せました。私を見つめているその瞳は、苦しそうです。
「お前はあいつと寝るんだろう」
ラースの言葉が、少しだけ私の心に突き刺さります。
それは、私を咎めているわけでも蔑んでいるわけでもなく、ただ切なそうであったから。
「それが命令ですから」
私は何とかそう応えました。できるだけ明るく笑って見せようとも思いましたが、どうやらそれは失敗したようです。あまりにもぎこちない笑みが口元に張り付いただけで、私は彼にそれ以上何も言うことができませんでした。
「……お前にキスできたらな」
ラースがそっと私の頬に触れ、ただ笑います。「でも、それすらもできない。面白いもんだ」
ちっとも、面白いなんて思っていないだろうという口調。
彼はやがて私から離れ、立ち上がりました。そして、部屋を出ていこうとします。
「あの」
私は何故か、彼を呼び止めました。
ラースがドアのところで足をとめて、私を見つめます。私は彼を見つめ返し、緊張した声でこう言ったのです。
「私は誘惑の仕方を知りません。……だから、教えていただけますか?」
彼はわずかに目を見開いた後、すぐに首を振りました。目を閉じて、困惑したかのように髪の毛を掻き回しています。私はそんな彼を見つめながら、意を決してこう続けました。それはもう、全ての勇気を振り絞って、です!
「あなたの思い通りに……その、彼に抱かれる前に……その、私を」
そう言った瞬間、自分の頬が羞恥に染まっただろうと思います。唇が震え、頭の中がぐるぐる回り始めた気がして、彼から目をそらします。
すると、ラースが意外なことを言いました。
「無理はよせ」
「え?」
私は戸惑って顔を上げます。
すると、彼は苦笑して見せました。そして、傷ついたような目で私を見つめるのです。
「同情もよせ。お前が俺のことを何とも思っていないことを知ってるんだ」
「でも、私は」
「好きでもない相手と寝るのは、後味が悪いもんだ。俺は嬉しいかもしれんが、お前は楽しくないだろうしな。……無理はさせたくない」
彼はそう言ってから優しく微笑み、ゆっくりとした足取りで部屋を出ていってしまいました。私はベッドの上に座り込んだまま、彼の背中を見送って考えます。
これは同情なんでしょうか?
彼に対する思いはただの同情?
私は彼のことを何とも思っていないんでしょうか?
じゃあ、何故私の心臓はこんなに軋んだ音を立てるのでしょうか?
私はいつの間にか、胸に手を置いて考え込んでいました。
でも結局、答えなんてないのです。
でも、苦しい。それは事実でした。