「意外だな」
だんだん空の色が紅く染まっていくのを、私たちは並んで見ていました。
ラースはいつになく物静かで、いつもだったら私をからかうようなことを言ってくるのですが、今日はそんなことはありません。彼はその魔力で私をこの場所に連れてきてくれました。私はただ彼の力に身を任せただけで、気がつけば険しい岩場の真ん中で空を見上げていたのです。
「何が意外なんですか」
私は空を見上げたまま訊きます。
向かって右側には切り立った崖があり、そのてっぺんの辺りには木々が生い茂っているのが見えました。
左側には、枯れ木の多い森があります。どうやらこの場所は山の一部らしいのですが、足元に転がる石の多さから、あまり自然豊かな場所とはいえないと予想できます。雑草すらほとんど生えていません。
「何の酔狂で、俺と一緒にきたんだ?」
だんだん暗くなっていく空から目をそらし、辺りを観察し始めた私にラースは小さく問いかけてきます。その声の裏には、本当に不思議そうな感情が感じられました。
私はやがて、ラースの方に視線を投げました。
ラースはまだ、辺りを見つめ続けていました。どこか、淋しげな横顔だと思います。
「何故と言われても……さあ、よく解りません」
私は正直にそう答えてから、ゆっくりと辺りを歩き回りました。
足の下で砂利が鳴ります。
その音を聞きながら、私は彼に問いかけました。
「この辺りで戦が?」
「ああ」
ラースが小さく笑いました。「ここはもう、隣国の領土──俺の国の敵地でな。見ての通り、何もない。戦中、食料の調達は無理だった」
そう言った後で、ラースがふと言葉を切りました。
そして、小さなため息をこぼして続けます。
「失敗したな。やっぱり、連れてくるんじゃなかった」
「何故ですか?」
「お前を口説くには、良い場所じゃない」
「何を馬鹿言ってるんですか」
一瞬の間の後、私は呆れて彼の顔を見つめ直しました。こんな時に何を言っているのか、と責めるような視線になっていたと思います。
すると、彼は薄く微笑んだまま頭を掻きました。わずかに言葉を探すように俯いた後、ふと近くにあった大きな岩に腰を下ろし、立ったままの私を見上げます。
「こんなのは、お互い自分らしくねえ」
「自分らしくない?」
私はラースの向かい側にあった岩に近寄り、腰を下ろします。これで視線の高さが近くなりました。
「むしろ、本当の自分らしさが出ているのでは?」
少しだけからかうような口調で言うと、彼はただ苦笑を返しました。だから、私は続けます。
「本当の自分を見せるのは、その相手が特別だからではないでしょうか?」
「言うね」
ラースが小さく笑います。今度は優しさを含んでいます。彼はしばらく私の顔を見つめ続けていました。それはもう、こちらが居心地が悪くなるほど長い間。
私はどうしたらいいのか悩みましたが、何も言わずに沈黙を続けていました。そうすれば、彼の方から話しかけてくるでしょう。そして事実、彼は沈黙に負けたようにため息をこぼし、髪の毛を掻き回しながら言いました。
「どうも最近、昔の夢を見る。忘れたい過去ばかり、繰り返される。もうずっと、こういう夢は見たことなかった。ここ……戦場となったこの場所のこととかはな」
「夢?」
私が話を促すように首を傾げると、彼は小さく頷きました。
「多分、あいつの顔を見たせいだ」
「あいつ?」
「クレイグ・タイラー。俺の部下だった男で……」
「今は勇者と呼ばれている人ですね」
そして突然、そこに響いたのは。
「覚えていてもらって嬉しいです」
聞き覚えのある声が聞こえてきても、ラースは身じろぎ一つしませんでした。その表情は人形のようだとすらも思いました。
私はその声のした方へ視線を投げ、そのまま立ち上がります。なぜか、ラースの前に立つようにして、私は勇者──クレイグ・タイラーを見つめました。彼は紺色の服に身を包み、その腰には剣を下げています。その表情はひどく緊張していて、我々に挑むかのように正面から見つめてきていました。
彼のすぐ横には、以前見たときに一緒にいた若い魔法使いがいます。その魔法使いは、マントをわずかに自分の身体の前でかき合わせるようにして、居心地悪そうに軽く首を振っていました。そして、ときどき勇者の方を見つめ、理解に苦しむ、と言いたげにため息をこぼしました。
おそらく、急に彼らが私たちの目の前に現れたのは、その魔法使いの力によるものなのでしょう。
彼らが我々と顔を合わせることの意味は簡単に予想ができます。
なぜなら、我々は敵同士であるのですから。
「生きているとは思ってもみませんでした。騎士団はほとんど全滅に近かった。おそらく、団長も……と思っていたのです」
勇者の口調は、とても丁寧ではありましたがどこか突き放しているような響きがありました。彼の視線は私にではなく、私の背後にいるラースへと向けられたままです。
ラースが口を閉ざしたままでいると気づくと、勇者は続けました。
「何故、魔王側にいらっしゃるのですか。あなたは、尊敬できる人でした。戦渦に置いても冷静さを失わず、我々をいつも導こうとしてくれていました。……最終的には我が団はほぼ全滅となりましたが──」
「別に、意味はない」
急に、ラースが低く笑いながら口を開きました。「理由を強いてあげれば、魔王様の下で働いた方が楽しいからだろう」
「それは嘘でしょう」
勇者が信じられないと言いたげに首を振ります。「あなたは、そんな人ではありません。魔王の側にいるのは……もしかしたら、わざとそちらについているのでは? 内部からの切り崩しを」
「クレイグ」
ラースが鋭く彼の言葉を遮りました。岩に腰を下ろしたままだった彼は、そこでやっと立ち上がり、私の前に立ちました。勇者のすぐ目の前に足を進め、どこか奇妙な声で言います。
「俺はもう、人間ではないんだ。その意味が解るか? もう、人間の味方をするような立場じゃねえ」
「しかし、あなたは」
「なあ、クレイグ」
ラースが低く笑いました。それは、相手を挑発するような笑い方でした。相手の神経を逆なでするような響きが、あまりにも明確に伝わってくるものでした。
「俺が魔物になって初めて、やったことが何か解るか? ……俺は前王を殺したんだよ。俺たちの騎士団を見捨てた王だ。気持ち良かったぜ、あの男が地を這う姿を見るのはな」
「嘘だ」
クレイグが一瞬の後に、一歩後ずさるのが見えました。その顔色はみるみるうちに白くなり、急に我に返ったようにも見えました。
「君主を手にかけたと……?」
クレイグはかすかに首を横に振りながら、ラースを見つめ続けていました。
それから、その瞳に生まれたよそよそしさは、彼がラースへの信頼という感情を断ち切ったことを意味するのでしょう。ただ、わずかにまだ、期待のようなものもその瞳に見え隠れしています。
もしかしたら、という想いが。
でも、ラースの態度は変わりませんでした。あくまでも挑発的で、冷ややかな声。彼は冷淡な口調で続けます。
「俺は、魔王様が人間を殺せと命じるならその通りにする。それが今の俺だ。人間のことなんか知ったことではない。もう、面倒だしな」
「面倒?」
勇者が信じられないと言いたげに繰り返します。「何が面倒だと……」
「魔物になって気づいたのは、人間的な感情というものがいかに邪魔だったかということだ。それがなくなった今は、何もかもが楽だ。好き勝手にやれる。自分の望むままに、自分のためだけに。……人間を殺すのも、ためらうことなどない」
その言葉を聞いているうちに、勇者の表情が強ばっていきます。その顔から血の気が失せていくのもはっきりと見てとれました。
私はラースの背中を見つめているうちに、少しだけ不安になりました。
彼はおそらく、わざと敵役であろうとしている、と思ったのです。いつもの彼以上に、必要以上に露悪的であろうとしている。
そう、勇者が彼を憎めるようにと。
私はつい、ラースの方へと歩み寄り、その腕を掴みました。すると、驚いたようにラースが私を振り返ります。一瞬だけ、我々の視線が絡み合ったと思った瞬間。
ラースが急に私の手を振り払い、そのすぐ後に私の肩を抱き寄せました。何を、と思う間もなく、私はいつの間にかラースに背後から抱きしめられるような格好で、勇者たちを見つめていました。
「あの」
私が慌ててラースの腕を振り払おうともがきます。
勇者と魔法使いの視線が、私に向けられていました。少しだけ怪訝そうに、戸惑ったように。
「あの、ラース」
言葉を探しながら小さくそう呼びかけると、ラースはその唇を私の耳元に寄せ、耳の付け根の辺りにキスを落としました。
途端に頭の中に生まれる混乱と、羞恥と。
私がラースの腕に手をかけ、そのまま引きはがそうとした瞬間。
「魔王様が見ていると思う」
私の耳元で、ラースの小さな声が響きました。
「……だから、余計なことは言うな」
身動きすることを忘れた私に、ラースは重ねて囁きます。耳にキスをしながら。
「団長」
そこへ、クレイグが鋭く言ってきました。「確かに、あなたはもう俺の知っている団長ではないのかもしれない。……それならば、もう敬語は無用だ」
そう言って、クレイグは疲れたように前髪を掻き上げました。彼の隣にいた魔法使いはずっと無言のまま、ただこちらを見つめています。ただ、いつでも攻撃のための呪文は唱えることができるのだと言いたげな視線だと思いました。こちらを警戒し、緊張した面持ちの魔法使い。彼はおそらく、勇者が言えばすぐに攻撃をしかけてくるでしょう。
そう、勇者が一言、言ってしまえば。
でも。
私は少し、複雑な思いも抱えていました。
私を背後から抱きしめているラースの腕は、相変わらず優しいと思います。でも、彼は──我々は人間と戦うべき立場にあります。人間から憎まれ、その命を狙われる。
それを哀しいと感じたことはありません。
でも、それは私が元々人間ではないからです。ラースは違う。彼は元々、人間であったのだから。だから、こうしてクレイグと敵対する関係は……彼にとっては辛いものであるはずなのに。
「残念だ」
クレイグはそう呟き、腰に下げていた剣に手をかけました。途端にその場に走る緊張は、私の身体も震わせました。魔法使いもまた、身構えます。
「お前は城に戻れ」
私の耳元で、ラースが短く言いました。抱きしめていたその腕が緩み、私の身体を自分の後ろに追いやろうとするのに気がつき、私は慌てました。
ラースが変だと思うからです。
勇者にあんな物言いをした後で戦う、ということは。
何となく、彼が死に急いでいるような気がして。
「待ってください」
私はクレイグの剣が鞘から抜ける音を聞きながら、必死に言いました。何とかこの場を離れなくてはいけない。戦うのを避けなければ。
私は必死に続けました。
「勇者を傷つけてはなりません。あなたも知っているでしょう?」
私は何とか言葉を探します。ラースだけではなく、勇者たちにも聞こえるように。
「魔王様がお怒りになります。だから、絶対に攻撃は」
してはいけない。
そして、この場から一緒に離れてもらう。
そう考えていると。
「大丈夫、こちらから攻撃するつもりはないさ」
ラースが苦笑と共にそう囁きました。「……お前が逃げる時間くらいは作れるだろう?」
「あなたって……」
私は絶句しそうになりました。
やっぱりそうだ。彼は生きようとしていない。
私は彼を睨みつけた後、その腕を掴んで引っ張りながらクレイグたちを見やりました。
「すみません、ここで失礼します」
「……お前」
少しだけ、クレイグが不審そうにこちらを見つめ直します。私は勇者の視線を避けるようにして、ラースの腕を引いて歩き出しました。
振り返りはしません。私は気配に鋭いほうですから、彼らが近寄ってくる気配がしないことも、攻撃のための呪文が詠唱される気配がないことも解っていました。
ただ、彼らが我々を攻撃してこないことの方が不思議と言えば不思議でした。
「死にたいんですか?」
勇者たちから随分離れたところで私は立ち止まり、ラースを振り返りました。すると、ラースもそれに合わせて立ち止まり、私を見下ろします。彼は苦笑して言いました。
「別にどうでもいい」
「どうでもいいわけがありません」
私は何故か、苛立っていました。理由など解りませんでしたが、むかむかして仕方ありません。私はラースを睨みつけたまま、できるだけ低い声で続けます。
「とにかく、あなたはもう勇者と会わない方がいいと思います。あなたがたの過去が……おそらく、あなたにとっては良くない結果を巻き起こすような気がしますから」
そう、過去など。
過去などない方が──。
そこまで考えて、私は息を呑みました。
ジャッキーも同じようなことを言っていました。辛いだけの過去ならない方がいい。でも、ラースはそれを望みませんでした。過去も全てひっくるめて、彼なのだと。
でも。
でも、このままだと。
私は少しだけ考え込んだ後、踵を返して勇者たちのところに走り出します。後ろから、戸惑ったような声でラースが私の名前を呼ぶのが聞こえました。
勇者たちはまだあの場所にいるだろうか。
そんな不安もありましたが、岩場に二人は立っているのが見えてほっとしました。彼らは何ごとか難しい表情で言い合っているようでしたが、私は気にせず彼らのところに駆け寄りました。
「何をしにきた」
最初に私の存在に気がついたのは魔法使いです。
彼は私が近寄らないようにと手を上げ、何か呪文の詠唱を始めました。
「待て」
勇者が魔法使いの腕を取り、呪文を遮ります。クレイグは私を見つめ、何をしにきたと言いたげに鼻を鳴らしました。
「ラースの言葉は本音ではありません」
私はすぐに口を開きました。「彼は確かに魔物ですが、心はまだ、人間のままだと思います」
「……そうは思えない」
クレイグがそう呟くのを聞いて、私は叫びました。
「上辺だけです!」
「ならば何故、守るべき王を殺したのだ? もしや、それは嘘だと言うのか?」
「それは」
私が言葉を詰まらせた時、私のすぐ後ろから呆れたような声が響きました。
「シェリル、戻れ」
「でも」
私はその声の主、ラースの方を振り返り、首を振りました。ラースは少しだけ険しい表情で私を見つめています。いつにないその様子に私は言葉を失い、そして自分がやっている行為の奇妙さに気がついて目を伏せました。
「全く、お前も変なことをする」
ラースはそう言って、私の頬に手を当てました。私は慌てて一歩後ろに下がりましたが、そうすると勇者たちの方に進むことに間違いはなく、それに気づいた瞬間に大慌てで横へと跳ねるように動きました。その動きが面白かったのか、ラースが吹き出して横を向いたのが解ります。
「帰ります」
私は低くそう呟くと、先に立って歩き出しました。ラースがまだ勇者のそばに立っていましたが、もうどうでもいいような気がしました。
「……じゃあな」
ラースがクレイグに向かってそう言った後、すぐに私を追ってきました。でも、しばらく我々の間に会話はありませんでした。会話が戻ったのは、魔王様の城に戻ってきてからのことです。
「どうしたんだ、お前」
ラースが魔王様の庭で空を見上げながら訊いてきました。私は少しだけ悩んだ後に、俯いたまま応えました。
「私には過去がありません。ラースのように、悩むべき過去も何もかもありません」
「過去がない?」
ふと、ラースの声が低くなって、私はそっと彼の方に視線を投げました。すると、ラースは頭を掻きながら私を見つめています。私はつい、その瞳を見つめているのが居心地が悪くなり、すぐに視線を地面に落とします。
「過去……記憶がないと言ったらいいのでしょうか。過去はあった方がいいのか、ない方がいいのか、だんだん解らなくなってきました」
「記憶?」
ラースが困惑したように囁き、こう続けました。「記憶喪失ということか? いつからの記憶ならある?」
「この魔王様の城にきてから、だと思います。その、自分でもよく解らなくて」
「……ならば、魔王様に訊いたらどうだ」
ラースは少しだけ考え込んだ後、そう言いました。「魔王様なら何か知っていらっしゃるだろう」
そうかもしれません。
私は唇を噛んで考え込みました。でも、考えれば考えるほど解らなくなるのです。
記憶がない今の方が、幸せだったらどうしたらいいのでしょうか?
もしも記憶があったとしたら、その記憶が辛いだけのどうしようもない記憶なら。
ラースのように、過去によって苦しむ可能性があるというのなら。
でも、過去の記憶があった方が、自分らしく生きていける。少なくとも、ラースはそのように考えている。
でも、でも。
私が無意識のうちに唸っていると。
「よう、シェリル、ラースも」
遠くから、シーザーの声が聞こえてきました。私が視線を上げると、ちょうど城から出てきたところの彼の大きな姿が見えました。
「魔王様がお呼びだ」
彼は私のところにまでやってくると、それだけ言って裏庭の方へと歩いていってしまいます。私はそんな彼の後ろ姿を見送ってから、ラースに視線を投げました。
「……クレイグと会ってたのが呼び出しの原因かもな」
ラースがそう言って、私も頷きます。
魔王様の許しのないままに勇者と会ったこと、そのことに怒っていらっしゃるのかもしれません。私は少しだけ不安になりつつも、ラースと一緒に魔王様のいる大広間へと向かいました。
「お呼びですか」
ラースが先に大広間に入り、魔王様の椅子の前に膝をついて頭を下げます。私も彼の後ろに膝をつき、それに倣いました。すると、魔王様はしばらく我々を見つめた後、ゆっくりと立ち上がって私たちの方へ歩いてきました。
私たちの方へ。
いえ、正確に言えば、私の方へ、です。
私は驚きながらも顔を上げました。少しだけ、表情が強ばっていたかもしれません。
「お前の名前……シェリルだったな」
魔王様の手が伸びて、私の頬に触れます。その少しだけ長い爪が私の頬を撫でていくのを感じます。
魔王様はしばらく私を見つめた後、その形の良い眉を顰めて言いました。
「……私の方が美しいと思うのだが、どうだ」
その魔王様の問いは、ラースへと向けられたものでした。ラースは明らかに困惑して言葉を失い、ただ途方に暮れたように魔王様を見つめるだけです。
すると、魔王様は私にまた視線を戻し、こう続けたのです。
「だが勇者は、こういう顔のほうが好みなのかもしれん。……お前、勇者を誘惑できるか?」
「え?」
そう驚いた声を上げたのは、ラースの方でした。
私はと言えば、その言葉の意味が解らず、しばらく固まっていたのでした。