本日の魔王様 12


「本当に解らないヤツだ」
 勇者は苦笑しつつ頭を掻き、それからふと気づいたように立ち上がりました。窓の外の薄闇を見て、彼は空腹を思い出したようでした。
「何か食べたい物は? 部屋に持ってこよう」
 勇者はどうやら、本気でそう言っているようです。私はいわゆる捕虜で、食事など気にかけてもらえるような立場ではないのですが。
「いえ、結構です。私はあまり食べなくても大丈夫なので」
 にこりと微笑んでそう応え、『どうぞお好きにどこへでも行って下さい、私はここで待っています』的なことを仕草で示すために、縛られたままの腕を上げてドアの方へと手を振ってみました。
「逃げる気か?」
 勇者が目を細めます。「俺がここを出たら、どこに行こうと?」
「縛られたまま逃げ出したら目立ちますし、大人しくしてますよ。大丈夫ですから、ごゆっくり」
 そのまま当分帰ってこなければ、私も彼を誘惑するという厄介な任務のことは考えずに済みます。むしろもう帰ってこなくていいのに。食事を取っている時にでも、何か問題がおきてそちらにかかりっぱなしになってくれればいいのに。私の存在はとりあえず、忘れておいてもらえれば。
 なんて考えながら、あまりにもにこやかにしていたせいでしょうか。
「すぐ戻る」
 彼は短くそう言って、食堂からもらってきたらしい食事の乗ったトレイを手に、あっさりと部屋に帰ってきてしまいました。
 なぜこうなるんでしょう?
 勇者と二人きりにはなりたくないなあ、というのが私の本音なのに!

 部屋にランプの明かりが灯され、勇者はその中で食事を取っていました。彼は幾度か私に本当に食べないのか、と疑問を投げかけてきましたが、その都度「私は魔物ですから」と言って断ります。
 そして、やることのない私がぼんやりと部屋の中を見回していると、食事を終えた勇者が声をかけてきました。
「あまりこういうことを言うのも何なんだが」
 彼はそう前置きして続けました。「お前は確かに魔物で、我々に敵対する立場にある。コンラッドが言う通り、俺はお前を殺さねばならないのかもしれない」
「はい」
 彼の声はとても真剣でしたが、私はただ笑顔でした。「それは当たり前です」
「いや、あのな」
 彼は私の口調に呆れたようで、深いため息をこぼします。その眉間に皺を寄せ、まじまじと私を見つめ返してきました。
「どうも調子が狂う。普通、そこは『やめろ』とか『命だけは』とか言うところだろう」
「ええと、では、命だけは――」
「話を合わせなくていい」
「すみません」
「お前たち魔物は、命に対する執着とかないのか。死ぬことに対する恐怖は?」
「恐怖……」
 私は首を傾げ、少しの間考え込みました。
 恐怖を感じたこと、そういったことは今まであっただろうか、と。……それとも、忘れているだけなのか。しかし、恐怖とは何に対して? そもそも、恐怖を感じることの意味は?
「解りません」
 随分長い沈黙の後に、私は顔を上げて言いました。「でも、恐怖を感じることは不要ではありませんか? 恐怖など感じていたら、いざという時に何もできないではありませんか」
「それはそうだが……。俺が言いたいことと、お前が言いたいことは違うんだな」
 何を当たり前なことを。
 私はそう思いましたが、口には出しませんでした。
 やがて、勇者が呟きました。
「団長も、そうなんだろうか。もう、以前の団長とは……本当に違うのか」
 その言葉は、おそらく私に向けられたものではなかったのでしょう。勇者の視線は宙を彷徨ったままでしたし、物思いに沈んでしまったかのようでした。
 そんな勇者の横顔に向かって、私は問いかけました。
「ラースのこと、お好きだったんですか」
「お好き……」
 彼は頭痛を覚えたかのようにこめかみを指で揉みながら、私を睨みつけます。「お前、言葉の選び方がおかしいぞ。人間じゃないから当たり前なのかもしれんが。……そりゃあ、団長には憧れていたと言えるかもしれない。若かったけど人望はあった。あの団長だからこそ、一緒に戦おうと思った人間もたくさんいる。そして、一緒に死んでいった……と思った。まさか、生きているとは思わなかった。しかも、我々の敵となって現れるとは」
 確かに、いきなりこんな再会があったのでは驚くのでしょうね。私はそっと頷きます。
 それから、もう一度素直に訊いてみました。
「すみません、お好き……というのは、恋愛感情として、という意味なのですけども?」
 すると勇者はなぜか急にむせたようで、げほげほと咳き込んでから私に向かって叫びました。
「馬鹿かお前は!」

 なるほど、恋愛感情とは違うらしい。
 私は勇者の青ざめた頬を見つめ、いや、青ざめて見えるのは明かりが暗いからかも、と思いつつ笑って見せます。
「奥が深いですね」
「何がだ!」
 勇者は苛立ったように立ち上がり、そのまま部屋の中をぐるぐると歩き回ります。その姿を目で追いながら、言い訳の言葉を探しました。
「いえ、その、よく解らなかったものですから。もしかして、そうなのかなあ、と思いまして」
「男同士で恋愛感情があってどうする! そんなもの、どこかに捨てろ!」
「いえ、もしかしたら男同士でもあるのかなあ、と。それに、魔王様があなたに」
「解った、お前は黙ってろ!」
 そう言い残すと、勇者は傍らのテーブルの上に置いたままだった料理の皿を持って、部屋を出て行きます。明らかに怒らせてしまったような気がするのですが、ところで私の目的は何だったでしょうか。ああ、誘惑するって、こういうことでは絶対にない気がします。
 まあ、どうでもよくなってきました。
 もう、こうなればヤケです。開き直るのが一番です。
 やがて、勇者が部屋に戻ってきたとき、私はただ彼を見つめていました。勇者は少し落ち着いたようで、私を疲れたような目つきで見ながら言いました。
「お前、恋愛がなんなのか解ってないんだな?」
 ああ、確かによく解っていないのかもしれません。
 でも。
「私は魔王様のことが好きだと言ったではありませんか」
 これはきっと、恋愛感情でしょう?
 おそらく私は、勇者に向かって問いかけるような視線を投げていたと思います。
 やがて彼はベッドに腰を下ろし、真剣な表情で言いました。
「お前の恋愛感情とやらは、多分十歳の子供並だ」
 えー。
「そういう顔すんな」
 そんなことを言われても。
 私はしばらく、その部屋で首を傾げたまま固まっていました。

 ふと、ドアの外に足音が聞こえて、私は身構えます。勇者もそれに気づいたらしく、わずかに緊張した面持ちでドアに向かいました。
「失礼」
 その声を聞いて、勇者が表情を緩めます。神官の声に間違いありません。
「どうしたんだ」
 勇者がドアを開けて神官を部屋に入れようとすると、ドアの向こう側に立った彼はちらりと私に視線を投げた後、低い声で続けます。
「廊下で話そう」
「……解った」
 勇者も神官の視線を追って私を見つめた後、何やら納得したような表情で頷きます。なるほど、私には聞かれたくない会話のようです。彼らはドアを閉めて廊下の奥の方へと移動したようでした。
 私は相変わらず椅子に座ったままじっとしていましたが、離れていても私には彼らの会話が聞き取れました。意識を集中すれば、私の聴覚はそれなりに鋭くなるのです。
 だから、その彼らの意味ありげな会話は、私に混乱をもたらすことになりました。
「急に思い出したのだ」
 そう言ったのは神官でした。わずかに声を潜め、時折その廊下を通る泊まり客の足音にかき消されるくらいの大きさで続けます。
「銀色の髪と瞳を持つ魔物の噂だ。それが、今あの部屋にいる彼なのかどうかは解らないのだが」
「どんな噂だ?」
「私が都の神殿にて働いていた頃だから、結構前のことだ。魔王のそばに、銀の魔物が仕えていると聞いた」
「銀の魔物、ね」
 勇者が小さく鼻を鳴らしたのが解りました。「確かに、あいつはそう呼べるかもしれないな」
「もし、私が聞いた魔物と彼が同じだとしたら、彼は危険だ」
 神官の声はさらに低くなりました。「コンラッドの言う通り、殺さねばならん」
「アレが危険?」
 勇者は小さく笑い出し、さらに何か言おうとしたようです。しかし、それは笑い声にかき消されて続きませんでした。何ですか、私が危険ではない生き物だと言いたいのですか、失敬な。私だってれっきとした魔物の端くれで――。
「笑い事ではない」
 神官は続けます。「君はあの魔物に騙されているのかもしれないのだ。君を油断させ、我々に近づいたのではないとなぜ言える?」
「あの馬鹿な感じが演技だと?」
「私には彼が馬鹿には見えん。よく解らんが、彼は只者ではないと思える。人間のような姿をし、ここまでやってきて、そしてまだ殺されずに存在している。これは、今までの我々の行動にもあり得なかったことだ」
「確かにそうだが」
 勇者が笑みを消して言葉を返します。「ただの偶然ということも考えられる」
「本当に偶然か? だから確かめねばならん。彼がもしも――もしも、そうなら」
「そうなら?」
「君がやれないと言うのなら、コンラッドに任せようと思う。その方がいい」
 ――さて。
 殺される可能性が高まったようです。
 私はぼんやりとそう思います。そして、必死に考え始めました。殺されてしまったら魔王様の命令を果たすことができません。もちろん、それが一番重要なことです。
 しかし、神官が言っているのは何のことなのか。
 魔王様に仕える銀の魔物。
 確かに私は、いつも魔王様のそばに控えています。いつでも命令を聞くことができるように、と。ただあまり、今まで命令されて行動することは少なかったと思います。いつだって魔王様は自分勝手に――いえいえ、配下の力を借りずとも何でもおやりになってしまうので、我々の出る幕がなかったというだけで。
 それに、神官は『危険』だと言いました。私が魔物だという事実の他に、何か特別な理由があるのでしょうか?
「確かめねばならん。だが今夜は動けない。だから、明日は」
 神官はそう言って言葉を句切りました。
 勇者の声は聞こえません。
 しかし、彼らの足音が部屋の前に近づいてくるのが解って、私は慌てて目を閉じました。わずかに深く、ゆっくりと呼吸を繰り返し、眠っているふりをしたのです。
 ドアが静かに開き、彼らが中へと入ってくる気配を感じます。
 彼らは黙ったまま、私の前に立ったようです。無言ということの重さを感じつつ、私はじっと寝たふりをしていました。やがて、神官が小さく呟くのが聞こえました。
「今なら殺せる」
 しかし、何も勇者は言いませんでした。
 だからなのか、やがて神官はあきらめたようなため息をこぼし、ベッドへと近づいていきます。やがて勇者ももう片方のベッドへと近づき、そのベッドが軋む音が部屋の中に響きました。
 それきり、その部屋の中には静寂が訪れたのです。
 そして私はといえば、何となく不安に似た感情が胸の中に広がり始め、その夜はまんじりともしないまま、朝を待ちました。

 そして夜明けが来て、最初にベッドから起きてきたのは神官の方です。とはいえ、神官はほとんど眠っていないようでした。幾度もベッドの上で寝返りを打っていましたし、時折私が起きていないか様子を窺っている気配を感じましたので。
 朝になっても私はまだ眠ったふりを続けながら、緊張感のない姿を彼に見せつけています。神官はしばらく私を見つめていたようでしたが、身支度のためにか、部屋を出て行きます。
 そこでやっと私は目を開きました。
 さて、今日は何が起こるのか。
 私は自分の手首に巻き付いたままの魔法の輪を見つめます。いざとなったら、逃げ出すことは可能だろうか、と考えて手首を捻ります。しかし、どうやっても無理そうだ、と気づいてため息をこぼします。
「逃げられそうか」
 突然響いた勇者の声に、私は飛び上がりそうなほどびっくりしました。
「あ、起きていらっしゃったんですね」
 誤魔化すように微笑み、彼の方へと視線を投げると、寝起きでわずかに髪の毛の乱れた彼の姿がありました。勇者は疲れの残った表情で立ち上がり、着替え始めます。
「別に逃げられるのなら逃げてもかまわない」
 彼はそんなことを言います。
 しかし、私が逃げたら、おそらく彼の立場は悪くなるのだろうということも簡単に予想が付きました。
「……本気でおっしゃってるんですか?」
 私が首を傾げると、勇者は苦々しげに笑ったのです。
「だったらどうする?」
 そんな言葉と一緒に。
「解りません」
 やがて、私はそう言いました。「でも、あなたはそんなことを言ってはいけない立場でしょう?」
「そうだな」
 勇者は着替えが終わると私の方を見やり、ベッドの脇に立てかけてあった剣を腰ベルトと服の間に差し込みました。それきり、彼は黙り込んでしまいました。どこか話しかけにくい雰囲気を漂わせていたものですから、私もただ沈黙を続け――その空気が変わったのは、コンラッドがこの部屋に入ってきた時のことです。
「朝食を取ってる時間がない。行くぞ」
 コンラッドは私を見ようとはしませんでした。そしてまた、勇者に視線を合わせようともせず、先に立って歩き出します。ぴりぴりとした雰囲気が漂い、私もだんだん緊張してきました。
 勇者は私の銀色の目が他人に気づかれないようにと、服のフードをかぶせて腕を引いて立たせます。彼に促されるままに部屋の外に出て、階下に立っていた神官と合流し、宿の外へと出ました。
 まだ外は明るくなったばかりで辺りに人の姿はほとんどなく、見かけたとしても仕事のために忙しく行き交う人々のみでありましたから、我々のことに気を払う者などいません。それは好都合とばかりに、神官たちはどんどん歩き出しました。
 彼らがどこに向かっているのか全く解りませんでしたが、自分が困った立場にいることは確かです。
 ラースはどこにいるのだろう。
 私がこんなことになっていることを知っているだろうか?
 それに、こんな展開になっていると知られたら、魔王様に何て言われるだろう。いえ、もう知っていらっしゃるかも。
 と、考えても仕方のないことをぐるぐると考えながら、私は地面を見下ろしていました。大通りの綺麗にならされた道は、やがて小石がごろごろと転がる道に変わり、草が生い茂る獣道に変わり、人家も辺りから消えて森の中へと入っていきます。
 一体、どこまで行くのだろうと私が困惑し始めた頃、神官たちが足をとめました。
 私がそこでやっと顔を上げて、我々がどこにいるのか確認した時、つい厭な表情をしてしまったのは仕方なかったでしょう。
 なぜならそこは、神の力で守られた神殿であったから。

 森の奥にあったその建物は、それほど大きいとは言えませんでした。しかし、綺麗に手入れされていて、朝日に輝くまっ白な壁が眩しく、私は眩暈を覚えたほどです。
 我々魔物というのは、神殿というものには縁はありません。そして、近づくことをしません。なぜなら、近づいただけでも我々の魔力を奪う力を放っているからです。
「入れ」
 神官が静かにそう言ったものの、正直、私はその場に立ちすくんでいました。
 この中に入る?
 本当に?
 背中にちりちりとした感覚が広がります。指先が震え、明らかに私の肉体がそれを拒んでいます。
 私は自分の手首を見下ろしました。絶対に外れなさそうな魔法の輪。しかし、自分の最大限の魔力を放って片腕を犠牲にすれば、逃げることは可能かもしれない。そう、意識を集中する時間さえあれば。
 しかし、コンラッドが苛立ったように私の肩を小突き、中に入るようにと促します。やはり、逃げることはできない、彼らの命令に拒否することはできないのだ、と唇を噛んだその時。
「すまないが、シェリルを返してもらおう」
 と、背後から聞き慣れた声が響いたのです。
 ああ、ラースの声だ、と思った時には、辺りに凄まじい竜巻が起こりました。ラースの魔力を感じます。そして、私の近くにいたコンラッドや勇者――クレイグ、神官がその竜巻に身体をはね飛ばされるのを視界の隅で捉えました。
「厄介なところに連れてこられたな。大丈夫か」
 ラースはそう言って、いつの間にか私の前に立っています。
 私は神殿に入らずに済んだ安堵のあまり、ラースの肩にもたれかかりながら、笑い出してしまいました。だってあまりにも、正義の味方みたいな登場の仕方でしたから!
「何を笑ってるんだ」
 そんな私の反応に苛立ったのか彼の声は怒りを滲ませていて、そのまま乱暴に私の頭を突き放したのですが、私はといえばこんな言葉を返すのが精一杯で。
「助けに来てくれるのではないかな、とちょっと期待してました」
 ラースは驚いたように私を見つめ直した後、その仮面の奥の瞳に映っていた怒りを和らげて、そっと笑います。
「そりゃどうも」
 彼はそう短く囁いた後、すぐにその視線を勇者たちに向けました。私をその背中で庇うように立ち、低く笑いました。先ほど私に向けた笑みとは違う、威嚇しているかのような、挑発しているかのような笑い声。
「魔王様の命令で、クレイグは殺せん」
 ラースは唸るように言います。「だが、他のヤツは殺してもいいはずだ。さて、軽くちょっとやり合ってみようか?」
 その台詞の後、ラースの右腕の辺りから、青白い炎のようなものがゆらりと立ち上りました。辺りには鋭い風が生まれようとしています。
 勇者もコンラッドも、そして神官も竜巻にはね飛ばされた後に体勢を立て直し、我々から距離を取って身構えています。特に、コンラッドの表情は他の誰よりも厳しく、今に一触即発状態にあるということが解りました。コンラッドの唇が微かに動いていることから、彼が魔法を使おうとしていることも。
 どうしよう。
 私が息を呑んで見守っている中で、新しい動きが見られました。
 神殿の白いドアが重々しい軋みと共に開き、その中から白い神官服を身にまとった老人が現れたのです。顎には長く立派な髭、眉も、そしてその長い髪の毛もまっ白で、その顔に刻まれた皺は深い。勇者たちと一緒にいた神官よりも遙かに年上だと見て取れる風貌。
「……一体何事か……」
 その神官は困惑したように我々の顔を見回した後、ぎょっとしたように私を見つめたまま動きをとめました。その顔色は瞬時にして土気色に変わり、そして。
「なぜ、ここに」
 彼はそう呟いた後、慌てたように他の者たちを見回しました。
 勇者と魔法使い、神官。彼らが人間であると理解したと同時に、老神官は叫んだのです。
「殺される前に倒せ!」
 そう、老神官は明らかに怯えていました。
 私という存在に対して。

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