「お前、何かやったのか」
ラースがわずかに緊張したような声で言いました。しかし、私には老神官に恐れられるような理由など解りません。なので、「さあ?」と短く言葉を返しただけでした。
しかし、その場の空気はぴんと張り詰めていて、私をこの場に連れてきた神官は、「やはり」とその表情を強ばらせています。
「とにかく、ごちゃごちゃ言わずに殺せばいいんだろ? 任せろよ」
コンラッドはわずかに老神官の様子に戸惑っていたようですが、少なくともその立ち姿には一分の隙も見られませんでした。今にも攻撃を仕掛けてきそうな気配。
しかし、なぜ?
なぜ私は老神官にここまで恐れられる理由が?
「よく解らないのですが」
やがて私は魔法の輪で縛られた手首を彼らに見せ、小さく笑います。「無抵抗の相手に攻撃するのは、魔物のすることだと思っていたのですが、この場合、逆ですよね?」
「無抵抗?」
老神官が引きつった笑みを浮かべました。「そんな枷など、お前はすぐに壊すことができるだろうに、何を考えている? 何が狙いだ? ――私の命か?」
「あなたの命?」
私はつい、吹き出してしまいました。だって、私が手を下さずとも、人間の命というものは期限が短いのです。今、目の前にいる人間はかなり年老いていて、あと数年生きれば上々といった様子です。何も、殺さなくても――。
と、私が考えた時のことです。
私は自分の笑みが消えていたことに気づきました。
目の前にいる老神官。
ああ、我々はどこかで会ったことがある。そう、直感したからです。
そうだ、会ったことがある。私の胸の奥に芽生えた感覚は、今まで私が知らないものでした。じりじりとした、曖昧な感情。頭の奥を誰かに引っかかれているかのような。
「あなたは、誰ですか?」
やがて、私の喉から漏れた声は、酷く嗄れていました。
何だろう、何だろう。何が引っかかるのだろう。
「シェリル」
ラースが低く私の名前を呼び、そっと肩に触れてきました。そのまま引き寄せられ、私を庇うように自分の背中の後ろへと押しやろうとします。
守護者。
何となく、私はラースのことをそう思います。
彼は私を守ろうとしてくれている。
でも私は……私は誰かに守られるような存在ではない――。
「……あなたは誰なのですか」
喉の奥がひり付くような感触がありました。
私の声はこんな感じだったろうか。私という存在は、なぜここにいるのだろうか。
私は一体、何者なのか。
「お前はわざと自分を封印してきたのか?」
老神官は鋭く言いました。「私の元にくるために、わざと力を消してきた……」
彼は何か納得したように頷きました。そして、コンラッドに向かって「力を貸せ!」と叫びました。そこには、恐怖という感情があるのは確かでしたが、それ以上に明確な殺意が感じられました。
「お前を殺して何もかも終わりにする。それが私の最後の役目だ」
老神官がそう言った直後、彼と魔法使いコンラッドのそれぞれの唇が動きました。コンラッドの魔法、そこに加わる神の加護の力。
「ちと、やばいな」
ラースが静かに囁き、私もそれに頷きたかったのですが動くことができませんでした。
私の目は老神官に釘付けで、ああ、何か思い出そうとしている、と自覚していたからです。まるでそれは雲を掴むかのように曖昧で、すぐにでも逃げられてしまいそうな感覚。
でも、それさえ思い出せれば、多分私は本当の自分に戻ることができる。
そんな予感がしたのです。
我々に襲いかかってきた魔法は、とても大きな力を放っていました。真っ赤な閃光。それはやがて白い輝きに変わりました。
ラースが右手を前に出して防御壁を作り、その力を跳ね返そうとします。ラースはとても強い魔力を持っています。とはいえ、彼は自分だけではなく、私をも守るために力を使っていました。その防御壁は我々二人を包み込んでいて、やがてその防御壁がじりじりと小さく狭まってきたのを感じました。
「やばかったら逃げろよ」
ラースの声は穏やかです。
なぜ、こんな風にしていられるのだろう。私はラースの背中を見つめながら、言葉を探しました。
でも、それ以上に気になっていたのは。
どこで会った?
彼は誰だ?
我々は確かに会っている。それはおそらく、私が彼を。
殺そうとした。
どん、と急に自分の足下が沈みました。私はつい小さな叫び声を上げてへこんだ地面を見下ろします。コンラッドたちの力がわずかにラースの力を上回っている。防御壁がさらに小さくなり、地面を圧迫して。やがて、壊れる。
「ラース! 逃げなきゃ……!」
「下がれ、シェリル!」
我々の声が重なり、そして身体に衝撃が走りました。防御壁が破壊され、凄まじい風圧が我々を吹き飛ばそうとします。ラースの腕が私の身体を捉え、こんな時にすら私を庇おうと――。
その時。
コンラッドたちの力を身体に受けた私は、凄まじい衝撃に悲鳴を上げていました。彼らの力は、私の身体の表面を傷つけはしませんでした。しかし、内面が。私の心が。
記憶が。
壊れた音がしました。
「ちょっとぉ、何よこれー!」
誰かが叫んでいます。
聞き覚えのある声。
空間が歪んだのが解りました。誰かがその歪みの中から現れたことも。
「やめてよ、せっかくもらったのよ! 何で壊すのー!」
私はのろのろと顔を上げます。その声の持ち主の方へと視線を投げ、低く笑いました。
「ちょっとシェリル、何よこれ!」
私の前に降り立ったのは、夢魔でした。顔色をなくして茫然としたまま、辺りを見回しています。そして、私の肩をわずかに乱暴に揺らしました。
「せっかくもらったあなたの夢、壊れちゃった! 何で? 何があったの? 今までこんなことなか……!」
「あなたの力が弱かったからですよ」
私は短く夢魔にそう応えると、乱れた自分の髪の毛を掻き上げようとしました。しかし、魔法の輪が邪魔をしていることに気づき、小さく笑ってそれを引きちぎります。柔らかな粘土。そんな感触。
あっさりと壊れた輪を鼻で嗤いながら、私の視線はコンラッドへと向けられました。
「弱い」
そう呟いた私を、彼は驚いたように見つめ返してきます。
そして私は、不意に喉からついて出た笑い声をとめることができず、しばらくの間肩を震わせていたのです。
「あーあ、残念。元に戻っちゃった……」
夢魔がどうやら、混乱から立ち直ったようです。私の背後で、ため息と一緒に吐き出した言葉が聞こえました。
「今までで最高に凄い夢だったのに。ああもう、がっかり、帰るわ」
夢魔がそう言った後、その気配が辺りから消えました。見なくても解ります。また、空間の歪みから元の場所に戻ったのでしょう。
そして私は、ただじっと老神官を見つめていました。
ああ、そう、そうです。私は探していたのです。ただ、あなたのことを。
そしてあなたも知っていた。私があなたを追っていることを。
だから、ずっとこんなところに隠れていた。
こんな、小さな神殿の中で。神の力に守られながら、その気配を消していた。
「神に感謝すべきですか?」
私は自分の全身が、血も、肉も、何もかもが歓喜していることに気づきました。記憶が戻ったこと、それが嬉しくてたまりませんでした。一度手放した記憶。自分自身で望んで封じたもの。しかし、しかるべき時に戻ってきた。
これに感謝せずにいられるというものか。
「あなたが生きていた。つまり、この手で殺せるというわけですから」
私はただ、嬉しくて仕方なかったのです。
老神官がそんな私の様子に怯え、「頼む、誰かあれを殺してくれ!」と叫んでいる姿が、どんなに愛おしく感じたことでしょう。
「……お前、何者だ?」
どこか気の抜けた表情で、勇者がそう呟いているのに気づきます。
私はちらりと彼に視線を投げ、笑みを消しました。
忘れていた人間に対する憎悪が戻ってくるのも解りました。
人間など、全て死んでしまえばいい。魔王様が許して下さるのならば、私のこの手でそれをやってのけるのに。
「人間などにお前呼ばわりされるいわれなどありません」
私はそう短く吐き捨てると、右手を軽く挙げました。途端、神殿が崩れ落ちていきます。老神官も、慌てふためいて崩れゆく建物から逃げ出しました。ああ、そのみっともない逃げようは見ているだけで楽しくて仕方ありません。
「お前……」
遠く離れた場所から、老神官が憎しみを込めて私を見つめてきます。
でも、知っていますか?
あなたは確かに私を憎んでいるのかもしれません。しかし、憎悪の大きさでは私の方がずっと上なのですよ。
「年を取りましたねえ」
私は薄く微笑み、老神官の全身を観察します。「でも、その醜さは以前とちっとも変わりませんね。覚えているでしょう? あなたはあの時、勇者を見捨てて逃げ出しましたよね」
「言うな!」
老神官が叫び、そしてその場にいた他の人間たちの視線も彼に集まりました。誰もが我々の会話に興味を惹かれているのが解ります。
「少しは罪悪感を覚えていらっしゃるのですか? 人間って面白いですねえ。あんなに簡単に仲間を見殺しにしておいて」
「黙れ! お前たちは魔物で、我々は」
「知ってますか? 勇者は最後には命乞いしましたよ」
くく、と私の喉の奥が鳴りました。
甦った記憶はあまりにも鮮明で、私は今、その場にいるような気すらしたのです。
「仲間に見捨てられて、一人で私のところに残されて。私がどんな方法でその彼を殺したか教えてあげましょうか?」
「やめろ」
「少しずつ、切り刻んであげたのですよ。激痛に堪え続ける彼は、とても綺麗でした。本当、可哀相にね。助けてくれ、と何回も繰り返しました」
そして最後には、殺してくれ、と懇願した。
「化け物がっ!」
老神官が両耳を自分の手で押さえ、私の声を遮断しようとします。一瞬だけ、その両腕を切断して耳を塞ぐなんてことができないようにしてやろうかと思いました。しかし、そんなことをしたら簡単に人間は死んでしまう。
駄目だ。
それは駄目だ。
彼には苦しんでもらわないといけない。
なぜなら。
誰よりも敬愛する魔王様を殺したのは、彼らだったのだから。
私はあの頃、魔王様のそばに控える魔物として名前を知られていました。魔王様の命令なら何でも聞きましたし、それらを全うしてきました。
魔王様のために私は存在していたのです。魔王様のためなら、何でもできました。この命もいらなかったし、どんな犠牲でも払う覚悟がありました。
そうです。
あれは恋だった。
魔王様が私にそんな想いを抱くことはありませんでしたが、そばにいられるだけで幸せでした。あの方の姿を毎日見られるだけで。誰よりも近い場所で、魔王様のためだけに生きる。
誰よりも好きだったからです。あれは恋だった。間違いなく、恋でした。魔王様が私の全てでした。
……そう、魔王様が人間たちに殺されるまでは。
我々は、平穏に――人間を攻撃することもなく、ただ魔王様の城で安穏と暮らしていたはずなのです。
許さない、許さない、許さない。
許さない許さない許さない許さない許さない許さない
「あなたを殺すために、私は生きながらえてきたのですよ」
そう言葉にした瞬間、凄まじいまでの感情が胸の中で弾けました。人間に対する憎悪。それは、私の理性などといったものを焼き尽くしていきました。
肉体が軋む。
ぎしぎしと音がする。
人間を引き裂くための、両手の爪がぐぐぐ、と伸びました。手の甲に、腕に、銀色の血管が浮かび出てきます。そして、わずかながらに犬歯が伸びて唇に当たるのを感じました。
はあ、と吐いた息が白くなる。
一気に、辺りの温度が冷えたと思いました。
「シェリル……」
勇者が戸惑いがちにそう言ったのを聞いて、私は嫌悪感のままに叫びます。
「気安く私の名前を呼ばないで下さい! 人間ごときが!」
そう吐き出したら、とても楽になりました。内面に渦巻く、人間への憎悪。吐き出さないと私が壊れてしまう。気が狂ってしまう。
人間への憎悪。
殺意。
虐殺への衝動。
そう、私はあの時、壊れていたと思います。
魔王様を失い、精神的に均衡を失っていた。勇者を殺し、魔法使いも殺し、彼らと一緒になって魔王様の城を焼き払おうとした人間たち全員を殺した。
そして、彼らをけしかけた人間の王、彼を殺して笑っていたと記憶しています。
しかし、どこかに逃げ込んだ神官を見つけることができず、私は『魔物』から『獣』になろうとしていた。
だから、記憶を消したのです。夢魔に、魔王様に関する全ての記憶を渡し、憎悪や殺意などといったものを排除した。そして、新しい魔王様のところで新しい生活を――。
ああ、そんなもの、意味などなかった。
私は記憶と一緒に封じていた魔力を解放しながら、ただただ笑いました。
今、こうして私の目の前に、あれほど憎んだ相手が生きている。
何て素晴らしいことだろう。
この手で引き裂く相手がいるということは、何て嬉しいのだろう。
何もかも、どうでもいい。
ただ、殺せればいいのだ。
しかし、どうやって殺す?
「足の腱を切ってあげましょうか? 逃げられないように?」
私はゆっくりと老神官の方へ歩み寄りました。
そして、憎しみに身を任せることの快感を覚え――。
「シェリル」
後ろから、ラースに腕を掴まれて引き戻された時、激しい怒りを感じたのです。
「落ち着け。大丈夫か?」
優しく問いかける彼の口調。
私はただ乱暴に、その腕を振り払いました。そして、憎しみのままに言い放ちます。
「触らないで下さい、汚らわしい」
「おい、シェリル。お前」
「人間のくせに」
私の目の前が赤く染まりました。以前も、こうなったことがありました。憎しみに呑まれそうになった時。私の銀色の瞳が、赤く染まったことが。目に見える光景全てが、血の色に染まったことが。
人間なんか、大嫌いだ。
私はラースを嫌悪の瞳で見つめただろうと思います。
「あなただって、元は人間だったくせに」
自分の声は、とても冷ややかでした。今まで、ラースに向かってこんな口調になったことなどありません。でも、とめられませんでした。
――皆、死ねばいいのに。
私はそれを言葉にはしませんでした。
でも、ラースの顔色が変わったことが見て取れて、彼が私の言いたいことを理解したことが解りました。彼は、私に向かって伸ばしかけていた手を引き、唇を噛んで私を見つめ直します。
でも、私はそんな彼の視線が煩わしく、彼から目をそらして老神官を、そして勇者たちの姿を見回しました。
「全く、面倒な展開にしてくれたものだ」
急に、その場に響いた声。
私は背筋を伸ばしてその声の持ち主――現在の魔王様に頭を下げました。
一体、いつの間にお見えになったのか。その気配すら感じることができませんでした。それほど、私は怒りに囚われていたのでしょうか。
魔王様はつまらなさそうに鼻を鳴らし、私を見つめてきます。私はその居心地の悪さに、膝をついて地面を見下ろし、次の言葉を待つことしかできませんでした。
「お前は先に城に戻っていろ」
魔王様はそう短くおっしゃって、辺りを見回したようです。
そんな、私に帰れと?
私が顔を上げると、魔王様は本当につまらなさそうな表情で言うのです。
「私の命令が聞けんというのか? 皆の前で犯してやろうか」
「いえ、あの」
「どうした、私の命令には不服従というわけか」
「いえ」
私は唇を噛んで頭を垂れました。「おおせのままに」
魔王様の命令に納得はできませんでした。でも、従うしかありません。たとえ今の魔王様が私の敬愛した魔王様でないとしても、私は今も魔王様に仕える魔物なのですから。
いつの間にか唇を噛みすぎていて、血の味が口の中に広がりました。