魔王様の城に帰ってきてから、私はその裏庭に立ちつくして視線を頭上へと向けていました。
わずかに曇った空。その隙間に見えるのは、赤く染まりかけた色。
また、夜がやってこようとしている。
ああ。
私は、突き動かされるような激情を感じて、自分の胸を押さえました。
魔王様の城。なぜ、私はここにいなくてはいけないのでしょうか。
老神官があそこにいたのに。
あともう少しで殺せたのに。
いっそのこと、思い出した瞬間にその首を刎ねてしまえばよかったのか。せっかくのチャンスを、私は逃してしまった。
この手で、彼を殺せる名誉を失ってしまった。
「……魔王様」
私はただ、そう囁きました。
今の私の心の中にあるのは、今の魔王様の姿ではありませんでした。誰よりも好きだった、前の魔王様のことだけ。
「申し訳ありません」
空を見上げながら、私は目を見開いていました。そうしないと、涙が出てしまいそうだったから。
「あなた様の仇を討つことができませんでした。申し訳ありません」
そこで急に私は、自分の心臓が激しく脈動するのを感じて息を大きく吐きました。
忘れていた人間への憎悪。それを思い出すと、私が壊れていくような気がします。何て激しい感情だろう。こんな感情が私にもあったのだ、と恐ろしくなるほど。
呼吸が、できない。
私は唇を噛んで、俯きました。
視界が狭い。
足下が揺れているような気がする。
「歩いて下さい」
私は自分自身に命令しました。その場に根が生えてしまったような私の両足。歩き方を忘れてしまったかのような。
そしてやっとの思いで右足を前に出し、そして次は左足。
そんなことを繰り返しているうちに、歩き方を思い出す。暗くなろうとしている庭を進み、自分の部屋へと戻るために。
その途中で、木々の合間からシーザーが歩いてくるのが視界に入りました。
でも何となく、彼に見つかりたくなくて、誰とも話をしたくなくて、必死に足を動かします。しかし、私の思いとは裏腹に、シーザーは私の姿を見つけたらしく、いつもと同じような快活な声で私を呼ぶのでした。
「よう、シェリル。今日はどこに行ってたんだ?」
私はそれを、聞こえなかったふりでやり過ごそうとしました。だからそのまま歩き続けたのに、いつの間にか彼に隣に並んで歩かれていました。
「魔王様もいらっしゃらないみたいだな、今。何かあったのかと……」
そう言いかけていた彼が、急にその声を低くさせました。突然、何かに気づいたかのように。
「……お前、何があった?」
「何がですか」
私は前方を見たまま歩き続け、彼を見ようともしませんでした。私の声は相変わらず冷えたままで、たとえ相手が魔物であろうとも、この胸に宿る暗い感情のままに、酷い言葉を投げつけてしまいそうだったのです。だから、誰とも会話などしたくなかった。
「こんな言い方は変だと思うんだが、お前はシェリル、だよな?」
困惑したような、彼の声。
「他の誰に見えるというのですか」
突き放すような自分の声に戸惑いを感じながらも、私は歩き続けます。城の中に入り、自室へと向かうために。
「俺の知らないヤツに見える」
シーザーはどうやら本当に戸惑っているようで、やがてその足を止めました。隣を歩く姿がなくなったことで、私の中に安堵が生まれます。早く部屋に戻って、鍵をかけてしまおう。誰も入ってこられないように。
そう考えていた時、背後から小さな塊が抱きついてきました。必然的に、私の足も止まります。
「シェリル、お帰りー!」
グラント、でした。
私の腰に回された小さな腕。彼の顔を見なくても予想がつきました。にこにこと笑っているだろうということが。だって、尻尾が揺れている気配がしましたから。
「グラント……」
私はそう囁き、急激に襲ってきた別の感情に戸惑います。胸が苦しい。
「シェリル、お前の魔力が強すぎる」
背後から、シーザーが強ばった口調で呟きました。明らかに何かを疑っているような気配。そして、「グラント」と彼が続けた時、シーザーが私に抱きついている少年のことを心配していると気づきました。
私の魔力。
記憶と一緒に戻った力、それは確かにとても大きなものでした。魔王様のためだけに使われる力。しかし、そうです。私の力は、力の弱い魔物をすら消すことができるのです。たとえばグラントのような幼い命くらい、簡単に奪える。
私の手が、そっと獣人の少年へと伸びました。ふさふさとした髪の毛。そこから覗く、三角の耳。髪の毛を撫でると、グラントが心地よさそうな表情で私を見上げてきます。
何て、邪気のない笑顔だろう。
グラントは私の変化に気づいていない。昨日までの私と変わりがないと思い、こんな風に笑いかけてくる。
でも、私はもう、昨日までの私ではないというのに。
こんなにも、内側に黒いものを抱えているというのに。
駄目だ、触れてはいけない。
私は急に、そう思いました。だから、ゆっくりとグラントの肩を押し、シーザーの方へと彼を追いやろうとして。
「シェリル、何があったの?」
少しだけ心配そうに言った彼の姿に、胸が突かれるような思いがしたのです。
「何かつらいの? 酷い目に遭った?」
少年の手が私の顔に伸びて、心配そうに撫でようとしました。でも私は慌てて後ずさり、その手が触れるのを避けました。
でも、グラントが傷ついたような表情をしたのを見て、また胸が痛みます。
「大丈夫です。大丈夫」
必死に私は笑みの形を唇に作ろうとしました。しかし、笑い方を忘れていました。ああ、どうやって笑うのだろう。グラントを安心させるための笑顔は、どうすれば作れる?
「守ってあげるよ」
グラントは笑顔のままで、そして真剣な眼差しで続けました。「シェリルのこと、頑張って僕が守るよ。だから、そんな顔しないで」
何てことだろう。
こんなに小さな手なのに。
こんなに幼いのに。
この少年の手は、私を守ろうとしている。
私はしばらくの間、グラントを見つめ続けていました。
「大丈夫ですよ」
やがて、私の口元に忘れていた笑みが浮かびました。ああ、確か笑うということはこういうことだ。無理矢理作る形ではない。自然と生まれるもの。
「大丈夫です。私はとても強いんですよ。逆に、私があなたを守ってあげましょう」
そう言って、私はその場にしゃがみ込みました。グラントと同じ高さの視線になるために。
しかしその時、私の笑みが強ばるのも感じました。
それは、背後に『彼』を感じたからです。その場の空気が歪むのを感じました。『誰か』が空間をねじ曲げて、ここにやってこようとしている。そしてその気配は、私がよく知っているものでした。
「シェリル」
私の背後で、草が踏みしだかれる音がしました。
そして、近づいてくる気配。
「話がある」
「……私は話などありません」
そう、振り向かずに応えました。背後に立っているラースの気配がとても大きく感じられて、ただ身体を強ばらせます。
人間に対する憎悪、嫌悪感。それを振り払うことなどできません。確かにラースは今、魔物ではありますけども、昔は人間だった。その事実を、どうやっても変えることができない。
ぎりぎりと締め付けられるような感覚が、心臓に生まれます。それが原因なのかどうか、突き動かされるかのように、目の前にいたグラントを抱きしめました。とても小さな身体。そのグラントが何か感じたかのように、その瞳に力を込めました。おそらく、ラースが私に何かをしたと思ったのでしょう。ラースを睨みつけるようにして、その喉から威嚇するかのような声を上げ始めます。
「大丈夫」
私はグラントを安心させるようにそう囁き、じっと身動きをしないようにしていました。
すると、ラースが低く呟きます。
「そうか。俺じゃどうやっても無理なのか」
彼は自嘲するかのように笑い、そしてその気配を消しました。
少しだけ経ってから私が振り向くと、その場にラースの姿はなく、薄闇が辺りに降りてこようとしているだけ。
酷く、寒々しい光景だと思いました。
やっぱりよく解らないのですが、胸が苦しい。
「大丈夫、シェリル?」
グラントがそう心配げに囁くのと、シーザーが「何があったのか説明してくれ」と近づいてくるのが同時でした。
しかし、私はその時、また別の気配に意識を奪われていました。
大きな力が動いている。空間が歪もうとしている。
魔王様です。魔王様が帰ってきた。
空間の歪みが元に戻り、強大な力の固まりが城の大広間へと現れたのを感じました。
だから、私は慌てて立ち上がり、大広間へと向かったのです。後ろにグラントが追いかけてくる気配を感じながら。
「魔王様」
大広間に入っていくと、魔王様がいつもと同じように椅子に座り、その美しい髪の毛を掻き上げているところでした。
魔王様はつまらなさそうな表情で私を見やり、小さく鼻を鳴らします。明らかに不機嫌そうでしたが、私はこう問いかけずにはいられませんでした。
「恐れ入りますが、あの老神官は今……?」
すると、魔王様は目を細め、一瞬だけ何事か考え込んだ後に言うのです。
「ああ、あれは逃げた」
逃げた?
私はしばらくの間、茫然としていたと思います。
その言葉の意味を理解したくなかったからです。
「ジジイを犯す趣味はないのだ」
魔王様がそう言って……それはそうでしょうけども、そうでしょうけども!
私の呼吸が乱れました。逃げたといっても、所詮人間の足。そうそう遠くまでは行けないはずです。今すぐ追えば、掴まえることができるかもしれない。そして今度こそは。そう、今度こそは。
「お前は面倒だ」
突然、魔王様の姿が私の前に現れました。たった数メートルの距離を、空間移動したようです。
私はただ、魔王様の秀麗な顔を見つめ返し、息を呑んでいました。
魔王様はじっと私を観察するかのように見つめ、やがて低く笑います。そんな表情を見たのは、これが初めてかもしれません。
「前の魔王の噂は聞いている。そして、お前の噂も聞いていた。記憶をなくして腑抜けになったが、扱いやすいとも考えた。確かにそうだったと言える。何も面倒ごとは起きなかったからな。もう一度、記憶をなくしてしまえば楽になれるのではないか。お前が望むなら、もう二度と記憶が戻らぬようにしてやろう」
もう、二度と?
突然、私の中に恐怖が芽生えました。
初めて感じる『恐怖』。それは。
「どうか、それだけは」
私はその場に膝を突き、深く頭を垂れました。「魔王様にご迷惑はおかけしません。ですから」
前の魔王様のことを、もう忘れたくはないのです。
『すまんな。私はこのくらいしかお前にしてやれることはない』
そうおっしゃって笑っていただいた、あの記憶さえ忘れていたなんて。
忘れたくない記憶があるのです。どんなに苦しくても、それだけは忘れたくないと感じるのです。
なぜ私は夢魔に悪夢を渡してしまったのだろう。なぜ記憶を捨てていられたのだろう。
ああでも確かに、記憶のないこれまでは、とても平和だったと言えます。苦しみとは無縁だった。憎悪とも無縁でいられた。
しかし今は。
「私は享楽的にいきたいのだ」
魔王様は唇を歪めるようにして笑いました。「過去などどうでもいい。今が楽しければそれでいい。それを掻き回されるのは好まん」
「はい、おっしゃる通りです」
「ならば、私の命令に絶対に服従できるか?」
「はい」
「それが納得できないものであってもか?」
「魔王様の命令は絶対です。納得できないはずがありません」
「老神官の命を諦めよと言ってもだな?」
何て残酷な方だろう。
私は一瞬だけ息を呑んだ後、短く応えました。
「全て仰せのままに」
「よし、では」
魔王様が顔を上げ、目を細めました。どこか遠くを見るような目つきです。
そして私も気づくのです。また、空間が歪もうとしているということに。誰かがこの城にやってこようとしています。
そしてそれは。
「シェリル」
私の服の腰の辺りの布を掴み、いつの間にかグラントが不安そうに私を見つめていました。私はそんな少年を見つめ返し、ゆっくりと立ち上がります。
少年の手を握りながら、大広間の空間が歪むのを見届けました。
そしてその場に現れたのは、勇者クレイグと魔法使いコンラッド。まるで羽根が舞い落ちるかのようにゆっくりと、宙から降りてきた彼らは、酷く緊張して我々を見つめていました。
「聞きたいことがある」
勇者が静かに、そして短く言いました。
しかしその横では、コンラッドが明らかに殺気を滲ませていて、話をしにきたのではないと思わせる気配を放っていました。
「そうか」
魔王様はふ、とその口元に笑みを浮かべて両手を広げます。嫣然、そんな表現が似合う笑み。普通の人間なら、その美しさに惑わされてもおかしくはないというのに。
「いや、お前に用があるわけではない……」
と、勇者が不機嫌そうに言いかけるのを遮って、魔王様は楽しげに叫ぶのです。
「だが私はお前のピー(また出ましたよ、この方は!)に用がある!」
すみません、私はあまりの展開にその場に膝をついて、さらに両手を床について、ただぐったりとしてしまったのです。