その夜、私は夢を見ました。
悪夢でした。
それは今までも――記憶を失っていなかった頃、何度も繰り返し見た夢です。だから、その破壊音が聞こえてきた時、絶望を感じたのです。
ああ、また私は『あの時』を繰り返している、と。
破壊音。
壁が崩れる音。
城が攻撃されている。
私が城の二階の窓から中庭の方を見下ろすと、城の周りにたくさんの人間たちがそれぞれ武器を手に集まっているのが見えました。城の周りを囲っていた塀は、一部破壊され、そこから人間たちが雄叫びを上げて走り込んでくるのも見えます。
魔物たちが城から出て行き、彼らと戦っています。
獣人たちが巨大な獣の姿に変身し、攻撃してくる人間たちの胸元や首を引き裂く姿。
飛び交う矢、時には火矢も飛ばされ、それは獣人たちの身体へと突き刺さります。悲鳴を上げる獣人たち、怪我を負った彼らを複数で襲う人間の姿。
なぜ、こんなことに?
私はしばらくの間、茫然としていました。あまりにも急に、戦いが始まりすぎていたからです。
「早く、魔王様の元へ行きなさい!」
ユーインが叫んでいるのが聞こえて、私は我に返ります。気がつくと、人間たちがあふれかえった中庭で、ユーインが人間から剣を奪い、立っているのが見えました。
長い銀髪、銀色の瞳、私と同じ種族の彼。
ユーインは私よりもずっと年上で、戦いにも慣れています。その彼が、二階の窓際にいた私に気がつき、厳しい表情で叫んでいました。
「魔王様をお守りしなさい! それがあなたの役目でしょう!」
「あ、はい!」
私はそこで叫び返しましたが、自分の声が震えていることにも気づきました。そうです、これは恐怖です。
人間たちを恐れているのではありません。
自分が死ぬことを恐れているわけでもありません。
ただ、今、魔王様が人間に襲われているということが怖かったのです。
そう、よりによって『今』。なぜ、今なのか。なぜ、魔王様が生きる気力を失っている今なのか。
今、人間を前にして、魔王様は戦えるだろうか?
いいえ、いいえ。
今、襲われたら。
そうしたら。
「魔王様!」
私が大広間に駆け込んだ時には、もう遅かったのかもしれません。
魔王様はただ、そこに立っていました。
その周りには、人間たちが立っていました。剣を携えた勇者、神官、魔法使い、そしてたくさんの人間たち。騎士らしい姿もあれば、農民らしい姿もありました。近辺に住む村中の男性が武器を持ってここにいるのでしょう。
魔法使いの手から、白く輝く鎖が伸びて魔王様の身体に巻き付いていました。
おそらく、そんな鎖など魔王様の力にかかればたやすく千切れるはず。でも、魔王様はそれを振り払うことすらしないで立っていたのです。
辺りに漂う殺気、遠巻きに魔王様を睨みつける人間たちの喉からは、威嚇するかのような低い唸り声が響いていました。
「シェリル」
ふと、魔王様が大広間のドアの前で立ちつくしていた私に目を留め、薄く微笑みました。しかし、その瞳は何も映してはいませんでした。そう、私の姿すら。それは闇の色でした。何もかもを飲み込む、暗闇の色。
「ユーインのところへ戻れ」
魔王様は平坦な声でおっしゃいます。「そうしないと、彼も死ぬだろう」
彼も?
「いいえ」
私は暗く微笑みながら首を横に振りました。「私はここで死ねれば本望」
そう言って、私は喉の奥から叫び声を捻り出しました。空気が震えるような叫び。それを聞いて、人間たちが私を恐れたように身を震わせました。
血が逆流するような感覚。
両手の爪がぐぐぐ、と伸びて。犬歯が伸びて。
そして、私は人間を襲うだけの『獣』になる。
床を蹴って、一番近くにいた人間の喉を爪で引き裂き、血を辺りに振りまきました。同胞の血を浴びた彼らは、狂乱に陥ったかのように闇雲に剣を振り回し、私に襲いかかります。でも、そんなもの、私にとっては子供の遊びに等しい動きでした。
舞い散る血。
人間たちの怒号。
視界の隅に魔法使いの姿が見える。あともう少し。彼の腕を、腹を切り裂き、魔王様を自由に。
でも。
魔法使いはまた呪文を詠唱し、魔王様に新しい鎖を巻き付け、それを締め上げていきます。
勇者が剣を握りなおし、床を蹴るのが見えて。
私は叫びました。
魔王様、逃げて下さい、と。
厭です、厭だ、そんなのは厭だ。
私はあなたを守らねば。あなたのそばにいられたら。一緒にいられたら。他に何もいらない。ただそれだけで。どうか。
勇者の剣が一閃し。
跳ね上がったのは魔王様の。
魔王様の。
「あああああ!」
喉が裂けるほどの叫び。
それは、私の声でした。
今までに上げたことのない絶望の声でした。
床に落ちた魔王様の首。
途端、魔王様が死んだことによって、我々魔物たちの力が半減するのが解りました。身体が重い。腕を上げるのすらこんなに重い。
歩くことも。
呼吸することも。
何もかも重い。
でも、そんなもの。
私の怒りの前には、何も必要ない。逃げる理由なんてない。人間を殺さねば。そして魔王様を。
勇者が魔王様の首を無造作に持ち上げるのが見えました。まるで『物』のように。
だから私は、勇者を殺すことに決めたのです。簡単には殺さない。魔王様にそんなことをした男を、簡単に赦してたまるものか。
そして、私は狂ったのだと思います。その後の記憶は曖昧で、ただ人間を殺し続けていたような気がします。
気がつけば辺りには人間の屍がたくさん転がっていて、勇者や神官、魔法使いの姿は見えません。追わなくてはならない、と思った瞬間、私はユーインの存在を思い出しました。
彼はどうしただろう。
どこにいるだろう。
そう意識した瞬間、彼の存在がどこにも感じられないことに気づきます。
「ユーインのところへ戻れ」
魔王様の声が頭の中に響いたと思いました。
私は大広間から走り出て、中庭へと降りました。そこもまた、血の海でした。崩れた城壁、人間や獣人たちの死体、そして。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
私は彼の――ユーインの死体を目の前に、膝を突いて泣いていました。「魔王様を守れませんでした。私のせいです。私が守れなかった。どうして、どうして、私はここにいるんですか」
魔王様。
ずっと好きでした。
誰よりも、誰よりも魔王様のことが好きでした。
たとえ魔王様にとって、私がただの配下の一人に過ぎなくても、一緒にいられたら満足でした。一緒にいて、そして魔王様のために死ねたらそれでよかったのに。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
私はユーインの冷えた身体を抱き寄せ、小さく囁きました。「死にたい」
目が覚めて天井を自分が見上げていると知った時、この天井が崩れてきたらいいのに、と思いました。そして私なんかつぶされて死んでしまえばいい、と。
私はあの後、勇者を殺しました。魔法使いも。
後は、神官を掴まえて、そして。
「あああ」
私はベッドから起き上がり、髪の毛を掻きむしりました。魔王様が――今の魔王様の命令で、あの神官を追うことは許されない。
何のために?
やっと見つけたのに。
ずっと見つからなくて、気が狂いそうで、いえ、多分狂っていたから私は記憶を投げ出した。消して何もかもなかったことにした。
記憶がなかった時、私はとても平穏でした。
毎日、のんびり今の魔王様の元で暮らしていました。
でも、でも。
それは本当の私の姿ではない。
本当の私はこんなにも弱くて、醜くて、何の価値もない存在で。
魔王様を守る力がないのに、なぜ存在しているんだろう。
私は魔王様のためだけに生きているはずなのに。なぜ、今もこうして弱いままで生きていかなくてはならないんだろう。
私はぼんやりと床を見下ろしました。
どうやらまだ、夜明けまでは時間がありそうです。
よかった、一人で泣く時間はある。
空が明るくなり始める前に、私は自分の部屋から出ました。辺りはまだ静かで、鳥すらも木々に足を休めているだろう時刻。
廊下に出た瞬間、その廊下の奥にラースが立っている姿が見えて頬が強ばります。
夢が。
先ほど見たあの悪夢が忘れられず、人間への嫌悪がまだ胸の奥に広がったままです。
私はラースの視線を受けているのを感じ、喉の奥がひりつくような感覚に陥りました。なぜ緊張する理由が? ラースは元は人間で。たとえ今は魔物であっても、彼は人間だった。だから。
でも、彼は私に優しくて。しかし、そんなもの。
相反する感情が私の中にある。
でも、認めたくない。
「シェリル」
ラースが緊張した様子でこちらに歩いてくるのが見えました。その様子から、彼がずっと私のことを待っていたのだと解ります。
「もう一度、ゆっくり話がしたい」
彼は真摯な態度だったと思います。
ただ、私が彼に真剣に向き会うつもりがなかっただけで。
「こちらには話をする理由がありません」
私はただそう言って、彼の横をすり抜けて歩き続けました。背後でラースが何か言ったような気配を感じながら、ただ無情であるようにと自分に言い聞かせていたのです。
呼吸が楽になったのは、大広間に入った瞬間、魔王様のいつもの姿が見えたからでした。
魔王様はいつもと変わりません。美しくて、いつも何か企んでいるかのような瞳をしていて、そして事実、よからぬことを企んでいらっしゃいます。
そうだ、私は今、この魔王様の元で生きているのだ、と実感します。
新しい魔王様。
敬愛していても、愛してはいない。あの狂おしいまでの激情を抱いたりはしていない。
でも、それでいいのです。
私にとっての恋は、もう終わってしまった。あの方が亡くなった時に、私の心も死んでしまった。それでいい。
そんなことを考えながら、大広間の片隅で私は魔王様の姿を見つめていました。その時、魔王様は手に水差しを持っていて、それをゆっくりと傾けていました。水差しからこぼれた水は、石の床に広がって水たまりとなります。その後、魔王様は水差しを傍らにあったサイドテーブルの上に置き、薄く微笑みました。
水たまりの上に右手をかざし、そしてその手のひらから柔らかな光が生まれ、その光が水たまりに反射し、変化が起きたのです。
水たまりは、鏡のようになっていました。いえ、何と言ったらいいのでしょうか。
水たまりの中に、はっきりと映っているのはクレイグとコンラッドの姿でした。
ああ、水晶珠と同じようなものなのでしょう。ただ、水晶珠よりもずっと大きかったので、彼らの姿も大きく映ってはいました。
そして彼らは、我々がこうして水鏡で見ているということに気づいていませんでした。
彼らのいる場所は、どうやらどこかの森のようでした。クレイグが先に立って歩き、その後をコンラッドがついていく。まだ薄暗い時刻、彼らはどこに向かっているのか。
しばらくの間は彼らの間に会話はなく、ただ草を踏みしだく音だけが辺りに響いていました。
やがて、コンラッドが気の進まない様子ながらも口を開きます。
「クレイグ、なぜ、ここまでやる必要がある?」
「何がだ」
クレイグは足をとめようともせず、ただ前を向きながら応えます。すると、コンラッドが足をとめて声を張り上げました。
「あのシェリルという魔物の言葉にいいように操られてるとしか思えない。過去などどうでもいい。俺たちの目的は」
「魔王を倒すこと、そうだったな」
「そうだ。それなのにお前は今、余計なことに囚われすぎている」
「余計か?」
「当たり前だろう。神官にまで、この件について調べさせるために他の村の神殿にまで行かせるとは。無駄足になったらどうするつもりなんだ」
「無駄足?」
クレイグはそこで足を止め、コンラッドの方に振り返ってため息をこぼしました。コンラッドの視線は厳しく、明らかにクレイグを責めているような色がその双眸に浮かんでいます。
コンラッドはゆっくりとクレイグの方に歩み寄り、低く続けます。
「お前は何のために『勇者』となった? 魔王を倒すためだろう。魔王とは何だ? 我々人間の敵だ。それ以外に何がある?」
「確かにそうかもしれない」
クレイグは静かに返します。「しかし、何も知らないまま戦うのは厭だ。過去、人間と魔物の間に何があったのか知りたい。元々、我々が敵対する関係になければ……」
「へーえ」
コンラッドが皮肉げな笑い声を上げました。「敵対する関係になければ、お前はあの魔王に尻でも貸そうっていうのか?」
「そんなこと誰も言ってない」
さすがにクレイグが鼻白んでそう吐き出すように言うと、コンラッドの声はさらに辛辣な響きを含みました。
「ああそうか、じゃあきっと理由はこれだな。お前はあのシェリルとかいう魔物にのぼせてきてるんだ。確かに見た目は人間みたいだし、顔も悪くない。女代わりとして抱いてもよさそうだしな?」
「そういうつもりもない」
「じゃあ、何が原因だよ」
コンラッドは声を張り上げ、クレイグの右手を掴みました。魔法の呪文を使ったのか、クレイグの右手を掴んだ彼の左手は白く輝いていて、クレイグが力任せに引きはがそうとしても無理のようです。
「そんなにあのシェリルとかいう魔物が気に入ってるなら」
コンラッドはさらにクレイグの腕を捻り上げ、力任せにその場にクレイグを押し倒しました。誰も通らない、森の奥深く。そんな場所で、コンラッドがクレイグを俯せにさせてその背中からのし掛かり、酷く優しく囁きます。
「あいつを犯してから殺せばいい」
「違う!」
クレイグの怒りに満ちた声。「いいからどけよ!」
「それとも、抱かれたい方なのか」
嘲るような声がコンラッドの唇からこぼれ、さらにクレイグの腕を掴むその手に力が込められました。輝くコンラッドの手のひら、痛みに唇を噛みしめるクレイグ。
そんな姿を見て。
「待て貴様、それは私の物だ!」
と、魔王様が水鏡に向かって悪態をついていました。
「そうとも勇者の尻の穴は私のためだけに存在し、私が時間をかけて開発し、私のピーをねじ込んで悲鳴を上げさせ、さらにはよがらせ――」
と、妄想モードに入ってしまった魔王様を誰もとめられるはずもなく、魔王様はそれからしばらくの間、大声では普通は言えないような単語を連発していました。
耳を塞ぎたいなあ、と心の片隅で考えつつも、私はぼんやりとその場の様子を見つめていて。
「国のために戦う『勇者』とやらがこんな腰抜けだと知られたら、さぞかし皆はがっかりするだろうなあ。魔王と戦ってあいつらを倒すことよりも、魔王たちと仲良くなる方が重要って言ってんだから質が悪い」
その低い声を聞いてクレイグが怒りに頬を紅潮させ、さらにその怒りを助長するかのようにコンラッドが言葉を投げつけます。まるで睦言を囁くかのように、クレイグの耳元に唇を寄せ、酷く優しい声で言うのです。
「戦わない『勇者』ってのは必要ねえよ。せいぜい役に立つとしたら……」
そう言ってコンラッドは、わざとらしく空いているもう片方の手でクレイグの頬を撫でて。
魔王様がその様子を見て、キレました。
こめかみに青筋を立てて、というのはこういうことなのかな、と思えるような風情。激高した魔王様は怒りに燃える瞳を私に向け、水鏡を指で指して叫びました。
「お前、この魔法使いを強姦してこい!」
そんな無茶な。