ギルバートとの帰り道、私の横を歩く彼の陽気な声を聞きながら、私はずっと考え込んでいました。いえ、考え込むという感じではなく……自分の意識の中に引きこもっていたというべきなのでしょうか。
何だか、もうどうでもいいような気がしていたのです。
ギルバートが何か私に話しかけているのは解ったのですが、その言葉は頭の中には入ってきませんでした。だから、私は時折彼に笑いかけていただけでした。何だかとても現実感のない光景でした。
魔王様の城に戻ってからも、ひどく自分自身の存在すら曖昧なまま、ただ廊下を歩き続けます。大広間に入り、魔王様の姿を拝見したその時に、やっと目の前の世界が現実味を帯びて感じられました。
我々は並んで魔王様の前に立ち、ゆっくりと床に膝をつきました。
「よくやった!」
頭を下げているギルバートに向かって、魔王様が微笑みかけます。それはとても上機嫌な笑顔でした。ギルバートは少し照れたような表情で俯いていましたが、やがてそっと顔を上げて言いました。
「あの、魔王様。あの人間に時々ちょっかいを出してもいいですか? いや、ちょっと楽しかったので」
「何をしてもかまわん!」
と、魔王様が低く笑いながらそうおっしゃったのですが、すぐにその流麗な眉が顰められました。「まさか勇者に手を出そうというわけでは」
「いやいやいや」
ギルバートが慌てて顔の前で手を振ります。「ガチムチは苦手なんで!」
……。
私が頭痛を覚えてため息をこぼしている間、魔王様とギルバートの明るい笑い声が響いていました。
二人とも、とても楽しそうだなあ、と羨ましくなります。
そして、ぼんやりと思うのです。
死んでしまったら楽だろうなあ、と。
こんなにぐだぐだと悩む必要もない。私という存在がこの世界から消えるだけです。私の代わりなど、この世界にはたくさんいるはずですし、魔王様に忠誠を誓っている存在は、それこそ数え切れないほど存在している。私がいてもいなくても、魔王様は気にも留めないことでしょう。むしろ、私よりももっと強い魔力を持った魔物を、お側に置かれるかもしれない。
そう、たとえばラースのような存在。
私などよりもずっと、ラースの方がいいのでしょう。
以前の魔王様のことを思い出させるような、私の存在など今の魔王様には必要ないのかもしれない。
そう、そうに決まっています。
だとすれば、私の取る道は一つだけしかありません。
魔王様のために死ぬだけ。それしかありません。今度こそ魔王様を守って死ななくてはならない。
今度こそ、失敗しない。生き残るなんて失態は晒さない。
そう、今度こそは。
私はいつの間にか、微笑んでいたようでした。気がつくと目の前に魔王様の姿があり、魔王様はどこかいぶかしげに私を見下ろしていました。
「何を笑っているのだ」
魔王様がそう聞いてこられたので、私は首を傾げて見せました。
「いえ、魔王様があまりにも楽しそうでいらっしゃるので、つい」
「もちろん、楽しい」
魔王様は小さく微笑みます。「仲間を強姦されて傷ついているだろう勇者に、何て声をかければ面白い展開になるのか、考えるととても楽しいのだ」
「何かご命令があれば、ぜひ私に」
「ふふん」
魔王様はその長い爪でご自分の頬を撫でて笑います。そしてしばらくの間、何事か考えこんでいらっしゃいました。それから、急に何か思い出したかのように手を打って、私を見つめ直します。
「そういえば、勇者はどうやらお前に興味を持ったようだな?」
「興味……?」
私はまたまた首を傾げてから、どうしてもその『興味』の意味が解らなかったので聞き直してみました。「どういう意味でいらっしゃいますか?」
「お前に気があるのかもしれん」
「気がある……」
つい、顰め面になっていたようでした。眉間に妙に力が入っていることに気づき、私は軽く頭を振ります。
「そんなことはないと思いますが。それに、いくらなんでも魔王様に申し訳が」
「何がだ」
「クレイグ……、いえ、勇者は魔王様の思い人でいらっしゃいます。私の目的は……」
あれ、誘惑することだったでしょうか。
と、しばらくその場に固まって考え直してみました。そして、自分でも知らないうちに独り言を言っていたようで。
「私も強姦されないといけない展開だったような気が……」
「強姦だろうが和姦だろうがかまわん!」
急に、魔王様がそう叫んで私はびくりと肩を震わせました。ああ、びっくりした。
「誰か他の者に心を奪われつつも、しかしその身体は別の者に奪われ苦悩する姿も美しい! そして、そんな勇者の身体を奪うのはこの私なのだ!」
「はあ」
私はぼんやりと魔王様を見つめながらも頷き、そんなものなのか、と納得したようなしないような。
で、結局私は勇者と寝なくてはいけないということなのでしょうか。
うーん。
「どんなに心では厭がっても、快楽には勝てん! あらゆる手段を使ってあの勇者を性奴隷にまで堕としてやろうではないか!」
私が唸っている間にも、魔王様はどうやらご自分の世界にお入りになってしまったらしく、放送禁止用語が並んだ言葉を大声で叫んでいらっしゃいましたが、何だかギルバートはそれが笑いのツボに入ってしまったらしく、肩を震わせて笑いをこらえていたようでした。
それから数日の間は、何事も起こらない日々が続いておりました。
魔王様は水晶球の前でクレイグたちの様子を覗き見しては楽しそうに笑っておいでで、私はその側に控えつつ何か命令はないのだろうかとじっと待つだけでした。それは、平和というよりも退屈であったかもしれません。
しかし水晶球の中では、『あの後』のクレイグたちの様子が映っていました。気にしてはいけないと思いつつ、私もそっと彼らの様子を観察していたのでした。
それに、期待していたというのもあったのでしょう。
今度こそ、彼らは魔王様に全力で立ち向かってくるのではないかと。おそらく、ギルバートのあの行為は、彼らの中にあるだろう魔王様への憎悪を増幅させただろうからです。そうすれば、もうそろそろ戦いが始まる。
私は戦を待ち望んでいました。
だから、彼らの今後の行動にはとても興味がありましたし、今すぐにでも魔王様の城へやってきて欲しかったのです。
水晶球の中には、クレイグたちが泊まっている宿の光景がありました。
魔王様はクレイグのことだけに興味があるようなので、コンラッドの様子はほとんどそこには映し出されはしませんでした。クレイグとコンラッドは別の部屋を取っているのか、宿の中でクレイグはいつも一人であるようでした。食事をする時も、眠る時も。
そういえば、神官はその後、どうしたのでしょう。一緒に行動していたはずのあの神官は?
彼だって、我々に戦をしかけてくる一人であるでしょうに。
いつしかじりじりと焦燥感を覚えつつ、水晶球に見入っていると。
「よお、元気ー?」
と、無駄に脳天気な声が響いてきました。
水晶球の中の光景で、コンラッドが宿の二階から階段を使って降りてこようとしている時のことです。コンラッドの顔色は優れず、あまりよく眠れてはいないのだと言いたげな表情をしていました。
ちょうどその時、クレイグは一階の食堂にいて、階上のコンラッドの姿に気がついて椅子から立ち上がったところでした。しかし、宿の木の扉を押し開けて入ってきた『彼』がコンラッドに向かって大きな声を上げた時、コンラッドとクレイグの表情が一変したのでした。
「お前っ、よくもこんなところに!」
クレイグが腰に下げていた剣の柄に手をかけ、彼――人間の姿をしているギルバートに向かって大きな声を上げました。
宿屋の食堂には、たくさんの人間がいました。それはちょうど、夕方のこと。そろそろ食事をしようと、集まって来始めていたところです。その場にいた皆が、その様子に驚いて息を呑み、クレイグとギルバートを交互に見やります。そして階段の途中で足を止めていたコンラッドは、ギルバートの姿を見て憎悪の眼差しをしたと思います。
しかし、ギルバートはそんな彼らの――そして宿に宿泊している人間たちの様子など全く気にしない様子で、にこやかに笑って右手を挙げていました。まるで、友人にでもするかのような態度で。
「いやいやいや、この間のことは悪かったと思って! だから、謝ろうと思って!」
ギルバートのその明るい笑顔は、多分人好きのするものであっただろうと思います。実際、その場にいた他の人間たちは、彼の笑顔を見て警戒心を解いたようです。そして、逆にクレイグたちの強ばった表情や、大きな剣などといったものに目を留め、まさかこんなところで暴れないだろうな、と猜疑心の含まれた瞳をしています。
「……謝れば済むとでも?」
と、冷えた声が階段の途中から降りてきました。
コンラッドの唇がわずかに震えていましたが、それはおそらく怒りからくるものであったのでしょう。その双眸には剣呑な輝きが宿り、今にも魔法の呪文を詠唱し始めるのでは、という状態で。
「だってしょうがないだろー。あれは俺だって命令に従っただけで」
と、ギルバートが肩をすくめて見せた時、コンラッドが呪文の詠唱を始めました。
「コンラッド!」
クレイグが辺りを素早く見回して、慌てたように声を上げました。しかし、彼の攻撃魔法はギルバートへと一直線に突き刺さり、そして魔法が弾け飛びます。自分の身を守ろうと上げたギルバートの右腕には、未だに私の魔力によって作られた銀の腕輪があったからです。
「学習しねーなー」
ギルバートは呆れたようにコンラッドを見やり、小さくため息をこぼします。
コンラッドの魔法のせいで、宿の入り口辺りにはたくさんの荷物が散乱することになりました。その場にいた人たちはそれぞれ逃げだし、少し離れた場所から迷惑そうにコンラッドを見つめています。
「お客さん、暴れるんだったら外に行ってくれ」
そのうち、宿の主だと思われる男性が建物の奥から出てきて、コンラッドやクレイグを睨みつけるような有様となり。
「そうそう、場所は考えようぜ、場所は」
と、ギルバートでさえ呆れたように注意されるような始末で。
「一体、何のために来たんだ」
やがて、クレイグが警戒した表情のままギルバートを見やり、小さく訊きます。ギルバートはそこで申し訳なさそうに微笑むと、乱暴に頭を掻きながら言ったのです。
「だから、お詫びだって言ってるだろ? 俺だってやり過ぎたと思ったからさ、借りを返したいというか何と言うか」
「へえ、どうやって詫びるつもりだ」
コンラッドがクレイグの横に立ち、そっとその手をクレイグの剣の方へと伸ばしました。魔法が効かない相手だと解ったから、今度は……ということなのでしょうか。
「うん、とりあえず綺麗なおねーちゃんのいる店を紹介するから、お前も気分転換に」
と、相変わらず脳天気な声でギルバートが言って、コンラッドがクレイグの剣を鞘から引き抜いて叫んだのです。
「気分転換をするのなら、まずはお前を殺してからだ!」
そしてその直後、彼らは怒りで肩を震わせた宿の主に追い出されたのでした。
「楽しそうだな」
魔王様が目を細めているのを見やり、私はまたため息をこぼしました。
そして、ひどく疲れているような気がしたので、そっと大広間を抜け出しました。廊下を歩き、特に目的地などはないのですが、とりあえず外へと出ます。
城の外は、だんだん暗くなろうとしていました。空が赤く染まり、やがてそれが闇の色に変わる。
私はしばらくの間、その空を見上げていました。
私が待ち望んでいる戦は、いつやってくるのだろう。そう考えます。
やがて、私は森の奥へと歩き始めました。その途中で、誰かの気配を辺りに感じたので一気に大地を蹴ります。誰にも今の自分を見られたくない、そんなふうに感じていました。空を飛んで森の奥に降り立つと、そこにあった湖の畔に立って手をかざします。
私の右手に集まってきた魔力。それは青白い輝きを放ち始めます。木々に囲まれた湖は暗く、魔力の輝きに照らされて黒い水面を見せていました。
私の魔力によって、その水がぐぐぐ、とせり上がってきました。そして、見覚えのある姿へと形を変えようとしています。水が変形し、私の目の前に起き上がってきて。
私はただ、ぼんやりとそれを見つめました。
「ユーイン」
彼の名前を呼びます。
水の力を借りて、私の会いたかった彼の姿と変わる。
私と同じ種族、同じ魔物。銀色の髪を持つ、まるで私の兄のような存在だった彼へと。
透き通った水。しかし、今は暗闇の中でユーインの姿形を取り、その顔つきまで彼そっくりになっていきます。私の記憶通りの彼。長い銀髪、穏やかに笑う彼。
彼はいつだって、私が悩んだ時に相談に乗ってくれました。
戦い方を教えてくれたのも彼。つらいときにこそ笑いなさいと言ったのも彼。
「ユーイン」
私はもう一度彼の名前を呼びました。
水によって器を作られた人形は、そっとその目蓋を開きました。でも、そこに虹彩はありません。しょせん、水は水。意志を持たない人形。
「私も早く、あなたの元へ行きたいと思います」
私は手を伸ばし、その人形の頬に手を触れました。それは弾力を持たぬ肌。私の指先はその頬の中に潜り込み、やがてぱしゃん、と音を立てて辺りに四散します。
いなくなってしまったユーインの面影を頭の中に描きながら、私は小さく呟きました。
「でも、以前ほど苦しくはないんです。魔王様と一緒にいた時ほど、苦しくはない」
でも、あなたの助言が欲しい。助言、いや、叱って欲しいのかも知れない。しっかりしなさい、と怒られたいのかも。
やがて私は首を振り、その場を離れました。
すっかり日が落ちて暗くなった空。私は魔王様の城へと足を向け、そのまま自分の部屋へと向かいました。廊下を歩きながら、私は思うのです。
こんな悩みなど、削ぎ落としてしまいたい。悩むことは無意味です。何の意味もない。
そして、廊下の先にラースの背中を見つけて、急に胸に痛みを覚えました。その場に足を止め、私はじっと彼の背中を見つめ続けます。おそらく、彼も自分の部屋に戻る途中なのでしょう。よく見慣れた大きな背中。
でも、もう彼は以前の彼ではない。
そのことに戸惑う理由も、胸が痛む理由もありません。
だから、これは気のせいです。彼が私のことを忘れてしまったこと、そのことにショックを受ける必要などあり得ないのです。
私が唇を噛んでいると、私の視線を感じたのかラースがこちらを振り向きました。そして、私の存在に気がついて彼が眉を顰めます。
妙に居心地が悪くて、私は足早にその場を離れ、自分の部屋に逃げ込もうとしました。
しかし、急に腕を掴まれてしまいます。
「おい」
ラースが私の腕を掴んで引き寄せ、背後から私の顔を覗き込んできました。からかうような笑顔、でも以前ほど親しくはない、よそよそしい雰囲気。
「何でしょうか」
私が突き放したように言うと、ラースが苦笑しました。
「いや、視線を感じたから興味があるだけだ」
彼はすぐに私の腕を放し、肩をすくめました。「お前、魔王様の側にいつもいるような気がするな。強いのか」
「魔力が、という意味でよろしいですか?」
少しだけラースから距離を置いて立ち、私は静かに訊きます。すると彼が頷いたので、礼儀正しく応えます。
「それなりには強いと自負しております」
ラースとの距離。今ほど強く感じたことはありません。
「それなりには、ね」
彼の笑みは、少し困惑しているようでもありました。それは私も同様で、これ以上何を話したらいいのか解らず、ただこの場から逃げ出したいと思うだけです。ラースの視線が私に向けられるのが、こんなにも居心地が悪いなんて。
「何で俺を見ていた?」
やがて、彼が訊いてきます。私はその問いの答えを何て言ったらいいのか考え、結局曖昧に微笑んで見せました。
「別に理由はありません。気に障ったようでしたら申し訳ございません」
「他人行儀だな」
さらに彼の苦笑が濃くなって、私は「わざとそうしているんですよ」と内心で呟きました。もう、我々の関係は以前とは違うのですから。
もう、あなたは私の知っているラースではない。
そういえば、ラースは「死ぬ前に一度くらい、ヤろうぜ」と言いました。あれは多分、昔の記憶があったから。そうなのではないでしょうか?
今の私と同じ。
死に場を失って、ヤケになっていたから。
そうでしょう?
どうせ死ぬなら一度くらい……と、思ったからでしょう? そこに本当に恋愛感情はあったのでしょうか? いいえ、あるはずがない。
ラースが私のことを好きになるはずがない。
そうに決まっています。
だからあんなことが言えた?
私がじっとラースの顔を見つめ続けていると、さすがに彼もどうしたらいいのか解らなくなったようで、何か言葉を探しているように見えました。
だから、私はそっと笑って言ったのです。
わざと親しげに微笑み、冗談めかして。
「もしもあなたさえよければ、一度セックスしてみませんか? 死ぬ前に、一度だけでも」
「……おい?」
虚を突かれたように彼は身を強ばらせた後、慌てたように両手を挙げました。私はさらに小さく笑って付け加えます。
「もちろん、本気じゃありませんよ? 冗談に決まっています」
「……お前な」
ラースが呆れたように息を吐き、頭を掻きます。彼が本当は女性が好きなことは解っています。以前会った時に、村へ来た目的を彼は「女を抱きにきた」と言いましたから。だから、本当は男性に興味を持つような性格ではないはずです。
「すみません、少しからかってみたくて」
私がそう言って彼に頭を下げ、自分の部屋の前に歩み寄りました。そのまま部屋に入ろうとして、また彼に腕を掴まれて引き寄せられました。そして乱暴に背後から抱き寄せられ、顎を掴まれ――。
気がつくと、我々はキスをしていました。
ただ、ラースによって蹂躙されるだけの、愛情も何もない乱暴な口づけでした。
状況が把握できずに私が抵抗するのを忘れていると、ラースが唇を離して小さく囁きます。
「別に俺はいいぜ? このままヤるか?」
からかうように、笑いながらの台詞。彼の唇がそのままもう一度私の唇へと押し当てられて。その熱があまりにも心地よかったので、私は自分の身体が震えだしたのを隠すために必死に手を握りしめ、全身に力を入れて微笑みました。
そして私は。
「そうですね、一回くらいやってみましょうか」
完全に自暴自棄になっていました。