「脱げよ」
ラースは私の部屋に入るなり、短く言いました。
素っ気ない口調ではありましたが、わずかに興味津々といった感じも受けます。
私はなぜか彼を見ることができず、彼に背を向けたままで身につけていたマントに手をかけ、そのまま床に落としました。
大丈夫、大丈夫。
そう自分に言い聞かせながら上着に手をかけたところで、背後からラースの腕が私の腰に回され、抱き寄せられます。
……大丈夫じゃないかもしれない。
何だか急に眩暈に襲われたような気がしました。
「お前、慣れてんのか」
また、乱暴な手つきで顎に手がかけられ、背後からキスが落ちてきます。服を脱ぐとかそんなことはどうでもよくなって、私はただ彼の唇を受け入れ、割り入ってきた彼の舌に犯される感覚に泣きそうになります。
魔王様とした一度だけ経験した口づけは、触れただけの優しいものでした。あの時、自分の心臓がどんなに震えたか、今でも思い出すと胸が苦しくなります。
でも、今ラースとしているそれは、別の苦しさを引き出していました。
これから起こることが不安でありましたし、何だかこの行為は魔王様に対する私の恋心への裏切りとしか思えませんでした。もちろん、私の好きだった魔王様はもうこの世界には存在していませんし、そんな状況で裏切りとか言っているのは馬鹿馬鹿しいことなのかもしれません。
もともと、私はそんな綺麗事を口にできるような存在ではなかったはず。
だから、何をしたっていいはずなのです。
もっと汚いことをしてもいい。
もっと愚かなことをしてもいい。
そして、早く死んでしまえばいい。
ラースはやがて私をベッドの上に押し倒し、そのまま馬乗りになってきました。ベッドの軋む音が聞こえると、何だか変な気分になります。そして身動きが取れずに彼を見上げている私を見つめていた彼は、小さく笑いました。
「慣れてるんだったら俺の上に乗ってくれてもいいんじゃないか?」
「上?」
どういう意味なのか解らず、私は困惑して眉を顰めます。
「人間の商売女だったら、すごく積極的だろ? 俺は女とヤることしか慣れてないんだ。お前から動けよ」
「商売女……」
私は彼が求めていることがどんなことなのか解りませんでした。男性経験どころか、女性経験すらない。ただ、今の魔王様のそばにいて、多少は知識として仕入れていることがあります。それを参考にすればいいのかもしれません。
……しかし、強姦される知識しかない。
そんな現実に気がついて、私は苦笑しました。
「あまり、優しいことはしてくれないんですね」
彼に優しさを求めるのは間違っている。それは自分でもよく解っていました。
私は彼に酷いことを言った。傷つけた。
だから、謝罪しなければいけないのは私だと頭の中では解っています。そう、彼が望むようなことをするのが一番いいのかもしれない、と。
「優しいこと?」
頭上からラースの呆れたような言葉が降ってきました。「悪いが、俺は惚れた相手にしか優しくはない。さっきも言った通り、相手が女の場合だ」
「だったら、無理にやらなくてもいいんじゃないですか?」
私はやがてそう言いました。それは自分自身に対する言葉だったのかもしれません。
ラースに押し倒された状況で、私は彼の頬に手を置いて、そっと撫でます。もう片方の頬は、仮面に隠されていて触れることはできません。以前は、その仮面は傷を隠すためのものでした。でも、今は違う。彼の過去は全て消えた。何も覚えていない。それが現実。
あの傷。
あの傷のあるラースの方が好きでした。
優しく私を見てくれた彼の目の方が。
彼は私のことを愛していたわけじゃない。でも、私のことを気にかけてくれた。その上で、寝ようと言ってくれた。ただの興味本位だったのかもしれない。でも、確かにそこには優しさがあったのに。
私は彼の胸に手をやり、そのまま押しのけました。
何だか笑えてしまって仕方ない。
本当に馬鹿馬鹿しい。
自分はどうしたというのだろう。一体、何を考えているというのか。
あの傷のあるラースの方が『好き』? 今、私はそんなことを考えた。好きとか嫌いとか、そんなものはどうでもいい。優しいとか優しくないとか、そんなこともどうでもいいんです。
そんな甘いことを考えていた過去の自分は、記憶をなくして頭の中がからっぽだったからでしょう。魔物に感情など必要ない。必要なのは冷酷さだけ。そうしなければやっていけない。
だから、そんな甘っちょろいことを考えていた過去の自分は、魔物として欠陥品だった。
そして今も、欠陥品のまま。
ラースにただのセックスの相手としか見てもらえず、しかも相手からやってもらうんだったら寝てもいい、くらいにしか考えられていない自分。それを自覚して傷ついているなんて。
今の魔王様だって、クレイグ……勇者のことを好きだから強姦したいと考えている。
でも、私はラースにとって、強姦する労力を払う価値すらない。そういうことでしょう。私の存在価値なんて、もう何もない。
「おい。お前から誘ったんだろう?」
ラースが困惑してそう声をかけてきましたが、私は冷ややかに彼を見つめ直し、平坦な口調で言いました。
「また今度にしましょう。私みたいな男が相手だと、あなたも面白くないでしょうから」
そして、私は床に落ちていたマントを拾い上げ、ぐるりと身体に巻いてドアを開けます。背後からラースのため息が聞こえましたが、気にしませんでした。
廊下に出て、そのまま一気に地上へと瞬間移動します。
月明かりが照らしている裏庭。
私はそこに降りたって、唇を噛んで俯きました。
もう何もかもが厭でした。
立っているのも面倒で、早く全部終わらせたかった。
「シェリル……といったか? まず話をしよう」
私を追いかけてきたらしいラースが背後に立って、私はうんざりとした表情で彼の方を振り返りました。そこにいたラースには、明らかに戸惑いの表情が浮かんでいます。彼が何を言いたいのかは解るつもりです。
せっかく簡単にできるセックスの相手が見つかったのに、逃げられたら困る。
そうでしょう?
そう言ってくれればいいのに。
そうすれば、あなたのことなんか嫌いになれるのに。
……嫌いになれる?
私は動きを止めて自分に問いかけました。
じゃあ、今、好きだということ?
記憶をなくして私のことなんか忘れてしまった彼のことを、優しさのかけらもない目で見てくる彼のことを、元は人間で私が憎むべき存在であるはずの彼のことを、好きだと?
記憶を取り戻して全く別の人格になったと思う自分なのに、それでも、今現在の私がラースのことを好きだとでも?
違う違う、そんなことはあり得ない!
私が彼のことを好きだと勘違いしたのは、記憶のなかった私であって、今の私ではない。今の私は誰のことも何とも思っていない。今の私は魔王様の命令を聞くだけの道具であって、何の感情も持ち合わせていないはず!
混乱した頭を振っていると、そこに我々とは違う誰かの気配が近付いてくるのが解りました。
私は考えることを放棄して、そちらの気配の方へと目を向けます。すると、そこにはギルバートの姿がありました。
「おい、シェリル! ちょうどよかった、ちょっと村まで付き合ってくれ!」
と、相変わらず明るい笑顔を向けて走ってきた今の彼は、完全に人間の姿へと変身していました。彼は私の腕を掴んで、私の返事を待たずにそのまま歩き出しました。
「何をしにいくおつもりですか?」
私が小さく訊くと、ギルバートは空いているもう片方の手で頭を掻きながら苦笑します。
「いやー、どうやっても相手に近づけなくてさ」
「相手?」
「コンラッドのこと」
「……そりゃそうでしょうけども」
私がため息混じりにそう言っている横に、ラースが並んで歩き出しました。ラースは少し慌てたような口調で話しかけてきます。
「怒らせたか? すまん」
「怒ってません」
私が彼の方を見ずに言った時、ギルバートがそこでやっとラースの存在に気がついたようで、少しだけ歩みの速度を緩めて申し訳なさそうに眉根を寄せました。
「ごめん、何か話の邪魔をした?」
「してません」
私はすぐにギルバートに微笑みかけます。この際、ラースから逃げられるのであれば何でもいい。とにかく、ラースの顔が見えないところに行こう。そう思いました。
「とにかく、コンラッドに会いに行くのが目的なのですね?」
私はラースとの会話を終わらせたくて、ギルバートとの会話に専念することにしました。「会いに行って何をするんですか?」
「こっちがめちゃくちゃ謝ってるのに話も聞いてくれないし、近寄ろうもんなら魔法使って俺を殺そうとするし、ちょっとシェリルに力を借りて、せめて会話の場を作れないもんかと」
「謝ったって無理なものは無理でしょう」
私は深くため息をつきました。「あなたはご自分が彼に何をしたのか忘れたんですか?」
「忘れてない。強姦した」
と、急に横でラースが咳き込んだのが聞こえました。
とりあえず無視しておきます。
「普通、強姦されたらそれが当たり前の反応じゃないですか? 顔も見たくないでしょう?」
「俺は違う!」
「まあ、あなたはそうでしょう」
またため息をこぼしてしまいました。
何だろう、この疲れは。
私とギルバートは暗闇の中、歩いていきます。城の裏庭を抜け、村の方へと向かって。一緒にラースもついてきているのですが、そのことには気を払わないつもりでした。
「一体、何の会話をしてるんだ」
と、呟いた彼の独り言にも反応はしませんでした。ええ、独り言です。話しかけられているわけではありません。
やがて我々は村の中に侵入し、クレイグたちが泊まっているという宿の前にやってきます。
深夜という時間だと思いますが、宿の窓にはいくつか明かりがついていました。
もちろん、時間が時間だけに家々の外には人間の姿はありませんでしたが、あまり騒ぐと厄介なことになるでしょう。
「……出直してきた方がよろしいのでは?」
私は窓を見上げて言いました。「もっと明るい時間帯の方が目立たないと思いますが」
「でも、昼間っからエッチするのはなしじゃねえ?」
「あなたは何のために来てるんですか!」
つい、大声を上げてしまいました。失敗。
「……謝りに来ているんじゃなかったですか?」
私は慌てて声を潜めて続けました。「またコンラッドを強姦して怒らせる……いえ、怒らせるどころの話では」
「いやいやいや、今度は強姦じゃなくて口説いてから寝る」
ギルバートもなぜか声を潜めて言いましたが、その目のきらきらしていることと言ったら!
「いや、無理ですよ」
「諦めんなよ!」
「いえ、あなたが諦めて下さい」
だいたい、何があってこういう展開になっているんでしょうか?
私はギルバートの顔を見つめて首を傾げました。
「もともとあなたは女性が好きなのではなかったですか? なぜ急にコンラッドのことを?」
「それは確かに自分でも不思議だ」
コンラッドは小さく頷きながら続けます。「でも、怒ってる顔とか怯えてる顔とか、強姦されてる時の屈辱に歪む顔とかがすごく可愛くて、思い出すとちょっとぞくぞくする」
「……悪趣味」
「コンラッドのことを馬鹿にすんなよ! ああ見えてすごくイイ顔をすんだぞ!」
「コンラッドのことを馬鹿にしているんじゃなくて、あなたを馬鹿にしているんですけどね」
「ああ、そっか」
と、一瞬だけ彼は笑ってから。「何だよ、それ!」
「もう、帰りましょうよ……」
そう私が頭を抱えていると、隣からラースが困惑気味に口を挟んできました。
「お前たちが何を言ってるのか解らんが、上を見ろ」
え? と私が顔を上げた瞬間、上空から光が弾けました。
自然と私は右手を上げてその光を遮ります。手のひらに感じる衝撃は、軽くはありませんでした。衝撃と同時にその光は四散し、辺りに暗闇が戻ってきます。
それと同時に、宿の窓が開いているのが目に入りました。でも、そこに人影はなく。
背後に気配を感じました。
「何をしにきたのかは聞かない」
その気配……そこに立っていたコンラッドの顔色はひどいものでした。今にも倒れそうなくらいに、憔悴していると言えます。その双眸には暗い光が灯り、何の感情も映し出してはいません。しかし、明確な殺意だけは読み取ることでできました。
「聞く必要もない」
コンラッドはそう呟くと、また魔法の呪文を詠唱し始めました。途端に、彼の右手の手のひらに生まれる光。それは、先ほどよりもずっと強い魔法のようです。
「どういうことだ?」
ラースがぼりぼりと頭を掻きながら、わずかに笑います。
私がそれでも彼のことを無視していると、さすがに苛立ったように私の腕を掴みました。
「いい加減に俺を見ろよ、シェリル! そういう態度だと嫌われるって気づけ!」
「大歓迎ですとも!」
私も声を荒げて応えました。「私だって、あなたのことなんて大嫌いですから、さっさとどこかに行って下さい!」
「お前……」
ラースが私の腕を振り払い、私の頬を平手打ちします。その目には苛立ちがありましたが、私を殴った時に、一瞬だけ「しまった」という表情をしたのが見えました。罪悪感なんて感じて欲しくありませんでした。徹底的に私のことを嫌って欲しかった。
「そういうことばかり言ってると、無理矢理犯すぞ?」
少しだけ、ラースが困惑したように言います。
でも、私は彼に挑むように睨みつけながら、薄く微笑みました。
「できなかったじゃありませんか」
そう、さっきは何もできなかった。
私に興味などなかったから。
「所詮、口だけなんですよね。もう、解りましたからあなたは帰って下さい。そして、もう二度と声をかけないで下さい。私は私で、やらなくてはいけないことがあるんです」
「お前の方が俺を見ていたんだろう。だから声をかけたのに」
「気のせいでしょう」
「よく言うよ」
どこか失望したような彼の声音。
それを聞いて、胸が痛むような気がするのはなぜですか?
私はラースのことが嫌いです。嫌いです。嫌いです。そう自分に言い聞かせないと、何か別の言葉が口から飛び出してきそうで厭でした。
私が彼から目をそらした時、上方から声が降りてきました。
「やらなくてはいけないこととは何だ」
上の窓のところに、クレイグの姿がありました。
さすがにこの騒ぎを聞きつけたのか、いくつかの窓に新しく明かりが灯っています。そして、窓からこちらを見ているのはクレイグだけではなく、見知らぬ人間たちの姿もありました。
私はそんなことは気にせずクレイグを見上げ、大きな声で言いました。
「私のことを強姦して下さい!」
クレイグが素っ頓狂な声で「はあ!?」と叫ぶのと、その近辺の窓から人間たちの様々な反応の声が飛ぶのが同時でした。
「ちょ、シェリルさーん」
背後でギルバートが情けない声を上げていました。「俺があんたを連れてきた理由ってのがあって」
私はそれを聞かなかったことにしました。
何だかコンラッドによる魔法の力が背後でまた弾けたような気がしましたが、それも気づかなかったことにします。
私は大地を蹴って、一気に二階の窓へと飛びました。そして、クレイグの部屋の中に飛び込むと、すぐに地上を見下ろして微笑んで見せます。
「じゃあ、邪魔しないで下さいね!」
そう言って窓をぴしゃりと閉め、大きく肩で息をして、ただ呼吸を整えるのに必死でした。
頭の中がぐちゃぐちゃです。もう、訳が解らない。
「お前」
後ろから、クレイグが困ったように何か言いかけました。
でも、私は彼の方を振り返ることができませんでした。なぜなら、涙がぼろぼろとこぼれてしまっていて、少しでも動いたら情けない声を上げてしまいそうで。
苦しい、苦しい。
ラースなんか、大嫌いです。
それなのに。どうして、こんなに苦しいんでしょうか?
急に、背後から抱き寄せられました。
理由なんて解りません。
クレイグが私のことを抱きしめた時、ただ……しがみつくことしかできませんでした。相手が憎むべき人間で、しかも魔王様の思い人で、絶対に必要以上に関わってはいけないというのに。
「団長のことが好きなのか?」
クレイグが戸惑いながらも私の髪の毛に触れ、まるで子犬か子猫でも撫でるようにして。
私はその問いには答えず、ただ首を振ってから。
思い切って、自分からクレイグの唇に己の唇を重ねました。
さっき、ラースがしてきたような乱暴な口づけ。それを自分から。
クレイグの舌に自分のものを絡ませ、押しのけようとする彼の腕を掴んで引き寄せます。彼が私のことを受け入れてくれるまで、ずっと。
「早く……お願いします」
やがて私が彼から唇を離し、俯いたままで言いました。
涙が止まらない。どんどん自分の声が鼻声になっていくのが解ってしまって、ひどく情けない気持ちでした。
「困ったな」
クレイグは本当にどうしたらいいのか解らないようで、ただ私の背中を軽く叩き、そしてもう一度「困った」と繰り返しました。