本日の魔王様 23


「まず、落ち着いて話をしよう」
 クレイグは私のことを抱きしめたままの格好で言いました。
 その腕はあまりにも優しくて、私を居心地悪くさせています。こんな風に扱われるのは、私には似合わない。
「聞こえてるか? まず、俺を見てくれ」
 クレイグが重ねてそう言って、私はのろのろとした仕草で言うとおりにしました。
 彼はそんな私を苦笑混じりに見つめ、また軽く私の背中を叩きます。
「こんなことを俺が言うのも変かもしれないが、もしもお前が団長のことを好きだと言うなら、こういうのは駄目だと思う。絶対後悔するぞ?」
「しません。好きじゃありません」
 間髪入れずに私が応えると、さらにクレイグが困惑したように首を傾げました。
「お前ってよく解らないな」
 彼は少しの間、言葉を探していたようでした。そして、思い切ったように続けます。
「じゃあ、こういう言い方をしよう。お前は何で、人間である俺と寝ようとする? 人間は嫌いだろう?」
「嫌いです」
 これもすぐに応えます。
 クレイグのことを見つめたまま、私は頭の中に浮かんだ言葉を口にしました。それはあまりにも自然に飛び出た言葉でした。
「でも、あなたは私を殺してくれる人ですから」
「何?」
 クレイグの表情から笑みが消えました。「どういう意味だ?」
「そんなことどうでもいいでしょう。それに、あなたと寝るのは魔王様からの命令です。そうです、そうしたらあなたと私がセックスしている途中に魔王様がここにきて、それから……」
 と、そこまで言いかけてクレイグが慌てたように私を押しのけました。
「それはよくない。厭な予感しかしない」
 彼は急に寒気がしたように肩を震わせてから、私をベッドに座らせました。そして、自分はベッドのそばにあった椅子に腰を下ろし、小さくため息をこぼします。
 そして、私のことを真っ正面から見つめ、短く言いました。
「お前、死にたいのか」
 だから、私も短く答えました。
「はい、死にたいです」

 クレイグはそれを聞いて沈黙してしまいました。ただ、何か質問したいような雰囲気だけがあります。
 この状態でいることが居心地が悪くて、私は言葉を探します。
 でも、何も出てこない。
 沈黙だけが続きました。
「お前は、人間を殺したかったんだろう?」
 やがて、クレイグがぎこちない発音でそう言います。私はそれに頷いて、何とか笑みの形を唇に作って見せました。自分でもその表情が、情けないものであったろうということは解りました。
 そうです。
 私は人間のことを殺したかった。
 魔王様を目の前で殺されて、怒りに我を忘れて、そして気がつけば魔王様どころかユーインすら失って。あの時の喪失感、絶望感は口では言い表せない。
 ユーイン。私と同じ種族の魔物で、一人きりで森にいた私に手を伸ばしてくれた存在。幼かった私に、住む場所を与えてくれた。戦い方、魔力の使い方、何もかも教えてくれた。
 魔王様から信頼されていて、いつだって彼は魔王様の横で控えていた。そんな彼のそばにいて、私もいつか彼のように魔王様の力になれたら、と考えていた。
 魔王様は戦いを好まない方で、いつも穏やかな表情をされていて。
 こんなたいした力のない私にすら、優しく微笑んでくれて。
 だから、あんなにも好きになって、あの方のために死のうと考えて。
「でも、失敗した」
 私は身体を前後に揺らしながら、小さく呟きました。「私は魔王様のためになんにもできなかった……」
 泣くな、みっともない。
 私は顔を両手で覆い、唇を噛みました。
 無力だ。私は、何の力もない。本当に、みっともない生き物。
「シェリル」
 そっと肩にクレイグの手が置かれて、私はびくりと身体を震わせました。涙の浮かんだ顔のまま彼を見ると、どことなくクレイグの表情は痛ましげに歪んでいて。
 私はつい、笑ってしまいます。
 勇者。
 彼は私たちの敵。
 でも、こんな風に優しさを見せてくれる。
「今になって、気づいたんです」
 私は泣き笑いのまま言いました。「あれは八つ当たり以外の何ものでもありませんでした。私は人間を殺したいと思った。それは、魔王様を人間に殺されたから。だからただ、闇雲に怒りのままに人間を襲いました。でも、つらかった。どんなに人間を殺したって、魔王様はもう生き返らない。それに気がつくと、生きていけないと思いました。あのまま生きていくのがつらすぎて。だから、自分の記憶を消してもらったんです。悪夢と一緒に、夢魔に渡しました。そして今になって、こうして記憶を取り戻してみると、私のした行為はただの八つ当たりにすぎなかったと解るんです。魔王様を殺した人間にだけ攻撃をすればよかったのに、それすら思い浮かばなかった私は、本当に愚かだった。人間にだって、優しい人はいるのに」
 そこまで言った時、さらに私の目からは涙がこぼれていました。
 そう、優しい人はいる。
 たとえば勇者のように、ラースのように、そして魔王様が愛した人間のように。

 記憶が暴れている、と思いました。
 あの頃のことが鮮明に思い出されます。
 私が人間を憎むなんてことがなかった頃。ユーインと一緒にいるのが当たり前で、毎日が楽しかった頃。
 私は、魔王様に愛してもらおうなんておこがましいことは考えたことがありませんでした。
 一緒にいられれば、それだけでよかった。
 魔王様と彼女が出会ってしまったのは、必然でした。でも、二人が恋に落ちたのは誰も予想ができなかったことでしょう。
 もともと、彼女は魔王様を殺しにやってきた人間でした。
 でも、彼女は魔王様を殺せなかった。そしてまた、魔王様も彼女を殺せなかった。
 彼女は優しい人でした。少し話をしただけでそれが解りました。
 でも、その人が殺されて、魔王様が……。
 魔王様が――。

「そうか」
 私は突然、気がつきました。
 魔王様は死に面していた時、人間に抵抗しませんでした。かすかに微笑んでいたようにすら記憶しています。
 あれは、そうだったのだ。
 愛する人を失って、生きたいという意志が消えて。
 今の私のように、死ぬことだけが目的だと思って、だからあの時。だからあんなにも簡単に。
「魔王様……」
 気がつけば、私は声を出して笑っていました。
 魔王様は死んで楽になれたのだろうか。
 生きているのがつらいだけのこんな世界から抜け出して、愛した人の元へ行けたのだろうか。
 だとしたら、その後で私がやったあの行為は。魔王様の仇を取ろうとしたあの行為は、ただの私の自己満足のためのもので。死を望んでいた魔王様にとって、あれこそが幸せな結末で。
 私のやったことは、ただの虐殺。
 誰も望まない、醜い行為。
「シェリル」
 クレイグは何て言ったらいいのか解らない様子で、ただ困ったように私の頭を撫でていました。全く、敵なら敵らしくしてくれた方が、私だって楽なのに。
「クレイグ……、いえ、勇者」
 私は笑みを消して言いました。「私を、殺して下さい」

 死は救済なのだろうか。
 もしも私が死んだら、どこに行くのだろう。魔王様やユーインのところに行けるだろうか。
 それとも、死んだらただの無になって……ああ、それでもいい。
 死ぬことは、幸せなのだ。
 私のことを必要としてくれる存在は、この世界にはいない。
 そう、やっと気づきました。

「お前」
 クレイグが困ったように声を上げたその時、突然辺りに響いたのは。
「そろそろ私の出番ではないのか!」
 という、魔王様の叫び声でした。

「わははははは」
 とかいう、高らかな笑い声も聞こえてきています。私が思わず立ち上がって窓のそばに寄ると、すぐ横でクレイグが頭を抱えているのが見えました。
 窓を開けて外を見れば、どうやらまだコンラッドとギルバートの戦いは続いていたようで、ちょうどその真ん中に魔王様が仁王立ちしておられます。
「お前たちは面倒臭い」
 やがて魔王様はその秀麗な目を細め、今にも倒れそうなほど疲弊しているコンラッドの方へ手を上げました。途端、弾ける魔力。
 一瞬遅れて、コンラッドがその場に崩れ落ちるのが見えました。
「コンラッド!」
 さすがにクレイグが顔色を変え、部屋にあった剣を手にして窓から飛び降ります。
 剣を抜き、魔王様に立ち向かう姿。
 その姿を見て、私も我に返ります。だから、私も窓から飛び降りて魔王様とクレイグの間に立ちました。私の視線はクレイグに向けられ、クレイグは「どけ、シェリル!」と叫んできます。でも、私はただ笑うことしかできませんでした。
 今がその時なんでしょうか?
 何てタイミングのいいことでしょう。
「お前たちは邪魔だからどこへでも行け」
 魔王様は傍らに立っていたギルバートへと声をかけています。それを聞いたギルバートは、いつの間にか獣の耳が髪の毛の間から飛び出していました。それと、機嫌良さそうに振られている獣の尻尾も。
 彼は「ありがとうございます、お持ち帰りします!」と叫んで、身動きが取れないらしいコンラッドのそばに駆け寄りました。お持ち帰り、と言った言葉そのままに、彼はコンラッドを肩に担ぎ上げ、どこかへと消えて。
「待てっ!」
 クレイグが叫びましたが、彼の目の前に立ちはだかったのはラースでした。
 ラースは冷ややかな目でクレイグを見つめ、今にも攻撃しそうな態勢でそこにいました。
「団長、どいてくれ」
 クレイグは苦々しげにそう言いましたが、ラースは何も言い返しませんでした。
 そして、辺りにはたくさんの人間の姿もありました。ざわざわと騒ぎながらも遠巻きに見つめる人間たち。そりゃあ、あんなに騒いでいれば村の人たちのほとんどが目を覚ますはずです。
「魔王だ」
「魔王だってよ」
 そんな声が小さく響きます。そこには恐れがありました。
 そんな人間たちには目もくれず、魔王様は小さく笑います。
 それから、ふと視線を私に向けました。そのまま私の前に立つと、その細い指を私の喉にかけ、ぐ、と爪を立ててきます。鋭い痛みが喉に走りましたが、私はただ魔王様を見つめ返していました。
「お前、死にたいのか」
 魔王様は笑みを崩しませんでした。
「はい」
 私がぼんやりとしたまま応えると、魔王様は言うのです。
「ならば、お前が必要としない命は私のものだ」
「魔王様の?」
「私のために生き、私のために死ね。もともと、そのために私のそばに置いたのだ」
「え?」
 魔王様の秀麗な顔が私の目の前にありました。まるで、吸い込まれそうなほどに美しい瞳。
「誰が必要としなくとも、私がその命を必要としてやろう。そうだ、お前が必要なのだ」
「必要……」
 ただ漫然と繰り返した言葉。
 でも、でも。
 何てそれは心に響くのだろう、と思いました。魔王様の声はとても優しいものでした。いつもの魔王様とはとても思えないくらいに。だからこそ、私は混乱もしていました。まるで、夢の中にいるようで。
「やめろ!」
 クレイグが鋭く叫びます。「そいつは今、馬鹿みたいに心が弱ってる! そんなことを言ったら!」

「嬉しい……です」
 私の声が震えていました。
 魔王様が、今の魔王様が私を必要としてくれる?
「私が死ねと言う時に死ねばよい。それまでは私のためにその力を使え」
 その声が頭の中に直接響いたような気がして、私は眩暈すら覚えました。こんなにも直接的に私におっしゃってくれたことなど今までなかったような気がします。魔王様が、私のことを必要だと。本当に、本当なのだろうか? だとしたら、だとしたら。
「はい」
 と、素直に頷いた時。
「この、馬鹿!」
 クレイグがさらに大きな声で叫びました。「魔王の言うことなど聞くな! 俺だってお前のことが必要だ!」
「はい?」
 頭が働いていなくて、ぼんやりとしたままクレイグの方へ視線を向けます。
 そこには、剣を下ろして困惑したような表情をしているクレイグがいました。彼もまた、私と同じように、頭が働いていないような感じで――。
「その、多分、そうなんだと思う」
「え?」
 クレイグがまっすぐに私を見つめていました。
「俺は、お前が好きなんだと思う」

「痴話喧嘩だ」
「痴話喧嘩だ」
 今度は別のざわめきが辺りに響きました。
 何だかよく解りませんが、何か厄介な展開になっているような気がしました。
「それは違うぞ!」
 クレイグが慌てたように周りの人間たちを見渡して叫んでいます。
 ラースだけがどうしたらいいのか解らないといった感じで、我々のことを交互に見つめています。
「そうとも、違うな!」
 魔王様も叫びます。「私の狙いはただ一つ! 勇者を強姦することだ!」
「それも違うっ!」
 クレイグの顔が青くなったり赤くなったりしているような気がしました。
 クレイグは何か続けたかったような気もしますが、そこで魔王様のテンションが一気に上がってしまったのか、魔王様の上機嫌な声だけが朗々と辺りに響きます。
 しかし、響いている台詞というのが問題で。
「私の目的は、勇者を城に閉じこめて、全裸にして椅子に縛り付け、ピー(検閲により削除)を嬲りながらピー(検閲により)に私のピー(検閲)をぶち込み、厭がりながらも感じてしまう肉体を持てあます姿を楽しみ、最終的には肉奴隷にする! 私のピー(検)をその顔にぶっかけたらさぞかしふははははは!」
 相変わらずのテンションです。
 私はつい、吹き出してしまいました。
 何だか、私の心のどこかが軽くなったような気がしていました。それはとても不思議な感覚でした。
「変態だ」
「変態だ」
 また、人間たちがざわめいています。
 でも、変態だっていいじゃないですか、とか思ったりします。
「しかしこの展開だと、3Pも軽いな」
 魔王様が何事かぶつぶつと呟いています。そこへ、遠くから人間の声が飛びました。
「あんた、魔王なんだろー?」
 と。
「いかにも!」
 魔王様が嫣然と微笑みながら返します。
「魔王ってのは人間を襲うものだろー?」
「私が襲うのは勇者のみだ! しかも性的に!」
 余計な言葉を付け足したせいか、クレイグが「いいから黙れ!」と叫んでいました。
「じゃあ、他の人間は襲わないのかー?」
 そう飛んできた問いに、魔王様は胸を張って答えました。
「私を攻撃してこない限りは面倒なので襲わん! ただ、勇者を襲ったら殺す! 勇者のピー()は私のモノだ!」
「……勘弁してくれ」
 クレイグが冴えない顔色をしています。そのまま、疲れたように首を振りました。
「おい」
 突然、ラースが私の腕を掴んできたの慌ててそれを振り払います。触れられただけだというのに何だかしびれたような感覚がして、驚いたというのが一番に感じたことでした。
「……はい」
 かろうじてそう声を出しましたが、その時にはラースは完全に失望したような目つきで私を見つめていました。
「俺にはそういう態度かよ。気分が悪いな」
 小さな舌打ちも聞こえてきて、私の胸がきりきりと痛みます。
 私のことなんか、どうでもいいんでしょう?
 そう心の中で呟きます。あなたは私のことを必要としてくれない。そうですよね? だったらもういいじゃないですか。
 私のことは、魔王様が必要としてくれる。
 あなたが必要としなくても、魔王様だけは。
 それは、嬉しいけれども切なくもある事実でした。
「さて、色々動きがあるようだ」
 ふと、魔王様が声を低くして言いました。
 何だか辺りを見回して、その表情を険しくしています。何か感じたのでしょうか。
「そろそろ城に戻るぞ」
 やがて魔王様はそうおっしゃって、その姿を消しました。私もそれを追おうとしてから、ふとクレイグの方を振り返りました。そして彼の前に歩み寄り、微笑んで見せました。
「あの、嬉しかったです。嘘でも、ああ言ってくれて」
 そう言うと、彼は眉を顰めました。
「いや、嘘では」
「でも多分、そろそろ決着がつく頃なんでしょうね」
「決着?」
「我々と、人間との戦いです」
 それを聞いて、クレイグの表情が強ばりました。
 多分、終わりが近いような気がします。
 私はただ小さく笑い、その場を後にしました。
 ラースの気配は追ってきませんでした。

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