それから数日の間、私はずっと魔王様のそば、城の大広間から一歩も外に出ませんでした。
魔王様は相変わらず水晶球などを使ってクレイグたちの姿を見ていたりしています。そして私は、そんな魔王様のそばにいることに安堵を覚えていました。
私の居場所はここにある、という感覚。
忘れていた感覚が戻ってきていました。
だからなのか、魔王様が外出する時は不安になりました。もしも魔王様に何かがあったら、と考えるといてもたってもいられず、できるだけ魔王様に同行しようとしました。最初のうちは私の存在など目に入っていないようで、同行しようが何をしようが気にされてはいなかったようですが、だんだん迷惑そうに私を見たことに気がつくと、私は諦めて大広間へと戻らざるを得ません。そして、魔王様の帰りを待ちました。
待つことは苦痛ではありません。
そう、帰ってきていただけるなら。
「おい、シェリル」
私はずっと、ぼんやりとしていたようです。
魔王様の帰りを待って、ただ大広間の壁際のところに立っていると、そこに声がかかりました。その声に驚いて、私は顔を上げます。
すると、そこにいたのは見慣れない顔。
しかし、その声には聞き覚えがありました。
「シーザー?」
「おうよ」
シーザーは今、人間の格好をしていました。
獣人の姿のまま、中庭にいることが多かった彼ですから、こうして人間の姿をしているところを見るのは初めてです。
彼はとても身長が高く、がっしりとした体つきをしています。そして、あまり身の回りのことを気にしないといった感じの彼のイメージ通り、その髪の毛はワイルドに伸ばし邦題。しかし、髭は伸びてはいませんでした。だから、彼の男らしい精悍な顔立ちが露わになっています。
しかし、白いシャツに黒いズボンといった簡素的な服装は、彼には似合っていないような気がしました。もっと違う服の方が……と考えた時、彼のことだからあまり人間の姿の時に着る服など持っていないのだろうと思いつきます。
「どうしたんですか、こんなところにまで来るなんて、珍しいんじゃないですか?」
私がゆっくりと彼の方に近寄ると、シーザーはぼりぼりと頭を掻きながら笑いました。そして、その背後から頭を覗かせたのは。
「魔王様はいない?」
グラントでした。
少しだけおっかなびっくり、といったような様子でグラントは大広間を見回し、その場に魔王様の姿がないと解るとほっとしたように私に飛びついてきます。小さな身体がどん、と私の腰に当たり、その腕が力強く巻き付いてきました。
「すまんな、少し脅かしすぎたらしい。魔王様のことをな、何というか、怖いお方なんだぞ、と言ったらこれだ」
シーザーがわざわざ大広間までやってきたのは、グラントがここに一人で来たくなかったからのようでした。さすがのシーザーも、魔王様がいつもいる場所にやってくるとなれば、獣人の姿のままではいられなかったようで。
「だって、シーザーがいけないんじゃん。喰われるとか言うから」
私に抱きついたまま、グラントが少しだけ首を捻ってシーザーへと顔を向け、軽く睨みつけました。
「だが、その喰われるというのは」
「なるほど」
私は納得して小さく笑い、それからグラントの頭を撫でます。「大丈夫ですよ、喰われるのは大人になってからですから」
途端、グラントが厭そうに眉を顰め、その隣でシーザーが苦笑を漏らします。
「あまり脅してやるな」
とか言いながら。
「でも、会えてよかったー」
グラントはやがて、その表情を和らげて私をさらにきつく抱きしめてきました。「最近、部屋にいってもいつもいないからどうしたのかと思ってた」
「そうでしたっけ」
私はただ首を傾げ、グラントの髪の毛を弄びます。そういえば、ここのところ部屋に戻っていないかもしれません。もともと、私はあまり睡眠を取らなくても大丈夫な種族です。ただ、睡眠するということは、消耗した魔力を復活させるということにもつながりますので、できれば眠った方がいいのかもしれませんが。
「だから、今夜は一緒に寝よう」
ぐっと親指を立てつつにやりと笑ったグラントに、私は思わず吹き出してしまいます。
何だろう、とても可愛くて。
「だから、の意味が解りませんよ?」
私がついそんなことを言うと、シーザーが少しだけ真剣な口調で口を挟んできました。
「しばらく俺も、夜はこいつにはかまってやれそうにないし、お前が一緒にいてくれるなら助かるんだ。どうだ?」
「いてやれない?」
「しばらく、俺たち獣人の皆は夜に森の番に出ることになる。魔王様の言いつけでな」
ふ、と私は口を閉ざしました。
森の番、という言葉に急に不安になったのです。そういえば、こんなことが以前にもあった、と思ったからです。
「人間が襲ってくる、ということですか?」
私がかろうじてそう言葉を吐き出すと、シーザーも少しだけ歯切れ悪く続けます。
「魔王様はそうお考えのようだ。……場合によっては、あんまり楽しくないことになるかもしれん」
「そう、ですね」
私の手が、自然とグラントを強く抱き寄せていたようです。グラントがばたばたと私のお腹の辺りで暴れていて、慌てて我に返ったりします。
しかし、私が手を緩めて自由になったグラントはといえば、少しだけ残念そうに私を見上げるのです。
「何だか悔しいなあ。いつになったら僕はシェリルと同じくらいの身長になれるんだろ?」
そんなことを呟きながら。
そこへ、大広間の入り口の方から声が飛んできました。
「シーザー、探したぞ」
そう言ったのはギルバートです。彼は大広間の中までは入ろうとせず、廊下側に立ってこちらを見つめていました。彼もいつになく、その表情は真剣でした。
「森の番の連中の編成を組んだけど、とりあえず来てくれ。城に残す連中、頭数が少ないんじゃないかって話になってる」
「解った」
シーザーはぼりぼりと頭を掻き、しかしどこかほっとしたようにギルバートの方へ歩み寄りました。その手がシャツの喉元にかけられていて、「さっさとこんなものは脱ぎたかった」とか呟いているのが聞こえます。
そして私は、ギルバートのどこか冴えない輝きを放つその目を見て、そういえば、と気になっていたことを思い出しました。
「あの、コンラッドは無事ですか?」
すると、ギルバートが小さく鼻を鳴らしながら私を見つめます。
「めっちゃ忘れたいことを言うなよ」
彼は苦々しくそう言って、いつもとは違う笑みを口元に浮かべました。そして、困ったようにため息をこぼしてから続けました。
「うん、多分、駄目だな。シェリルの言った通り、駄目なもんは駄目だった」
やっぱり、と私が声に出さずに唇だけでそう呟くと、ギルバートがわずかに首を振って、にやりと笑います。
「でもな、一応、話し合いはしたぜ? それなりに真面目に色々話をして、その上で駄目だと思った」
「どういう意味ですか?」
「うーん、どうやっても人間と俺たちは敵同士だってことだな。コンラッドに言われたんだよ。戦いの場面で、お前は人間側につくことができるか、ってな」
そこで一度、ギルバートは言葉を切りました。少しだけ何事か考えこんだ後、彼はそっと肩をすくめてみせました。
「俺は無理だな。仲間が人間に殺されそうになったら、間違いなく仲間の命を助ける。死にそうな仲間を見捨てて人間側につくことはできない。だから、終わりなんだ。人間が俺たちを殺そうとしている以上、戦うしかないってこと。俺がどんなにコンラッドのことを気に入ったとしても、あいつは俺の仲間を殺すだろう」
そこまで言うと、彼は視線をシーザーへと向けました。シーザーはもうすでに廊下を歩き始めていて、ギルバートもすぐにその後を追います。
そんな二人の背中を見送りながら、私はただ唇を噛みました。
人間と我々は敵同士。
それは当たり前のことでした。
昔も今も変わらず、きっとこれからも変わることはないでしょう。
「シェリル?」
身動きできずにいた私のことを心配したのか、すぐ横でグラントが気遣うような声を上げました。私はすぐに彼のことを見下ろし、そっと微笑みます。
「私の部屋にいきましょう。……あ、そうそう、何か食べますか?」
私がそう言うと、彼はこくこくと頷きながら眩しい笑顔を見せてきました。
グラントはとても可愛い。
でも、何だか急に切なくなりました。
もしも人間たちがこの城を襲ってきたら、せめてグラントのことだけは守ってやりたい。私が森で拾ってきたこの少年の命は、最後まで私が守ってやらなくては。そう考えながら、私はグラントの髪の毛を掻き回しました。
城には一応、厨房があります。魔物たちには、食事などあまり必要としないものもいれば、獣人たちのように大食漢もいるわけですから、料理するためにこの城にいる者たちもいます。
私は厨房のそばにある食堂に寄り、厨房へと続くカウンターへと立ちました。
もうすぐ太陽が落ちる時間帯ということもあって、食堂にはたくさんの魔物たちがいて、人間の姿をしている者もいれば巨大な魔物の姿のまま石造りの椅子に腰をおろしている者もいました。
「シチューだ、シチュー」
隣でグラントが嬉しそうに跳ねるのを見下ろしながら、我々は出てきたトレイを受け取ります。私は少しだけ、グラントは山盛りに積まれたパンやら大きなシチュー皿やら、チキンのグリルやら。
座る席が見つからなかったので、トレイを手に私の部屋へと向かいます。
そして、久しぶりに誰かと取る食事。
それはとても心が温まるものだと思いました。
グラントは終始笑顔で、最近の訓練のことだったり、森で見つけた生き物のことだったり、シーザーのことだったり、とりとめもなく語り続けます。
私はずっとその話を聞いて、何度も頷いて。
この生活が終わることもあるのだ、と悲しくなりました。
「やっぱり、シェリル、変だよね」
カラになった食事の皿をトレイに乗せて厨房へと返しに行くと、一緒についてきたグラントがそう言ってきます。
「どこがですか? 顔が?」
私が冗談めかしてそう言うと、グラントは真剣な眼差しで続けます。
「ううん、顔はキレイ。変なのは、多分、淋しそうだから?」
「淋しそう?」
私は苦笑します。「全然淋しくなんかありませんよ? だって、グラントが一緒にいてくれるじゃないですか」
また、私は彼の頭をくしゃくしゃと撫で回し、グラントはそれを心地よさそうに受け入れながら笑います。でも、その彼の口調はまだ心配そうでした。
「よく解らないけど、シェリルのことが心配だよ。あんまり、寝てないみたいだし」
心配されてしまった。
私はちょっとだけ反省します。こんな小さな子にまで気を遣われてしまうのは困ったことです。
「とりあえず、今夜は一緒に寝るよー」
食器を片付けてまた部屋へと戻ると、グラントは我先にとばかりにベッドに飛び乗り、ちょこんと座って自分の隣の辺りをぽんぽんと叩きました。
私は促されるままに彼の隣に腰を下ろしましたが、ただ笑うことしかできませんでした。
「何で笑ってんの」
突然、グラントが私の方へ寄りかかってきて、私の身体はそのままベッドへと沈みます。上にのし掛かってきた少年の顔を見上げながら、私は思わず言いました。
「いえ、ただ、誰かと一緒に寝るのは久しぶりだと思って。さすがにこのベッド、狭いですねえ」
そう言ってから目を閉じると、グラントの重みが消えて、私の横へと寄り添ってきます。自分よりも高い体温。それが心地よい。
「守ってあげるよ、シェリル」
ふと、グラントが小さく呟きました。「僕、すぐに大きくなるから、そしたら守ってあげる。いつも一緒にいるから、そうしたら淋しくないよ」
すり寄ってくる彼の小さな頭。
私はそんなグラントの身体を抱き寄せ、心の内で呟きました。
――いいえ、私が守ってあげるんですよ。
ユーインがいつも私にしてくれたように。
この小さな手を引いて城へと連れてきたのは私なのだから。
久しぶりの睡眠は、私に夢を見せてくれました。
過去の夢です。
記憶を取り戻してから、眠るといつも魔王様が亡くなった時のことを夢に見ていました。それがつらくて、眠るのが怖かったほど。ああ、だから私はこのところ、大広間で魔王様のそばにいたのだろうか、と気づきます。
悪夢から逃げたくて。
もう、苦しみたくなくて。
でも、隣にグラントの体温があることが、いつもと違う。
だから、見る夢もいつもと違っていた。
夢は、私の最古の記憶から始まりました。
そう、森の奥で一人きりで、『何か』から逃げているところから。
――逃げろ!
そんな言葉が頭の中を駆けめぐっていて、私はただ恐怖に囚われていました。
逃げ込んだ森は暗く、遠くから獣の唸り声が聞こえてきます。
誰かと一緒に逃げた、と思ったのに、気がつけば自分一人で巨大な木の根もとに立ちつくしていました。
辺りを見回しても誰もいない。
でも、確かに獣の気配がする。
恐ろしくて声も出せない。
だから、逃げて逃げて逃げて。
ふと天を見上げれば、明るすぎる月が自分を照らし出している。
本能のままに逃げ続けます。敵が何ものかも解らず、何かの気配がするたびにそれらから逃げ回り、どんどん森の奥へと入っていきました。
たった一人で。
でも、大丈夫。私は強い。この手足は頑丈だとも知っていました。
幾度か野犬に出くわしましたが、それらが私に飛びかかってくるたびに必死に応戦しました。すると、自分の爪が長く伸びて、敵を切り裂くことができるということも理解しました。
大丈夫、大丈夫。
自分はとても強いのだから。
そう言い聞かせ、私は身体を休めることができる場所を探し、ずっと森の中を歩き回りました。
敵は野犬ではない。もっと強い何かがいる。
それを直感していたからこそ、隠れる場所を探さなくてはいけないと感じていたからです。
そうして、森の奥に小さな湖と、それを取り囲む巨大な木々を見つけます。足元に生えている草は、何者かに踏み荒らされた形跡もなく、ひときわ大きな木の根もとには、大きな洞を発見することができました。私の小さな身体くらい、すっぽり隠せるくらいの。
じっと耳を澄ませてみても、鳥の羽ばたく音、虫の鳴き声しか聞こえません。
ここは安全。
私はやっと、生活できる場所を見つけた、と思いました。
そう、しばらくの間は。
平穏な一人きりの日々。
それは突然途切れました。
『人間』を見たのは、風の強い日のことでした。
まだ太陽が高い時間帯のことですから、たくさんの音が辺りに響いています。風に揺れる木々の枝の音、森に住む動物たちの気配。
しかし、それらに紛れて人間の足音がわずかに聞こえてきて、私は木の洞から這い出てきました。
鋭い聴覚が、金属音のぶつかる音まで聞き取ってくれます。
厭な感じがしました。
すぐに木の上へとよじ登り、高い場所から彼らを探そうとします。そして、すぐに見つかったのです。
武具を身につけた人間たちが、柔らかな草を踏みしだいてこちらの方へとやってこようとしているのを。
すぐに、彼らは敵だと気づきました。
腰に下げられた剣の鞘が武具に当たってがちゃがちゃと音をたてます。彼らは酷く警戒した視線を辺りに走らせ、ゆっくりと森の奥へと進んできました。
どうしよう、と思った瞬間、森の木々の合間から飛び出してきたのは野犬の群れでした。
野犬の唸り声と、飛び交う怒声。
そして、風に乗って漂ってきた、血の匂い。
私はただ、それを見ていただけでした。
住んでいる場所を追われるのは厭です。だから、彼らが相打ちで全部死んでしまえば、私はまだここで暮らしていける。でも、彼らがここにたどり着いてしまえば、またどこかに逃げなくてはいけない。
不安で仕方なくて、ただ身体を強ばらせていました。
そして、気がつけば夜になっていました。
恐怖のあまりなのか、記憶が途切れています。
辺りはしんと静まっていて、動物の気配すら感じられません。私は木の上から飛び降りて、地面へと座り込みます。心臓が冷えている、そんな気がしました。
私はまた木の洞へと身体を滑り込ませ、じっと身動きせずに夜明けを待ちました。
この時の私は、眠るという感覚が解りませんでした。いつ何者に襲われるかも解らない状況でしたから、目を閉じて休むことはあっても、何かの気配にはすぐに気がつくように意識を張り巡らせていたのです。
だから、その気配にもすぐに気づきました。
暗闇。
足音は聞こえません。
でも、確かに何かがやってくる気配。
恐る恐るまた木の洞から這い出て、木の上へと跳躍した瞬間、身体が震えました。自分では理解できない何かが、私の身体の中に芽生えたような気がして怖かったのです。
怯えながら高いところに立って辺りを見回した瞬間。
目が合った。
そう直感して私は木から飛び降ります。
何かがいる。
何かに姿を見られた。
怖い。
闇雲になって走り出すと、後ろでざざざ、と何かが揺れました。
そして、あっという間に背後から何者かの腕が伸び、私を掴まえて抱き寄せます。
「敵じゃありません。落ち着いて」
耳元で優しく囁かれたのですが、その時にはもうすでに彼の腕に噛み付いていたのです。