「ユーイン、大丈夫か」
血の味が口の中に広がった瞬間、背後から凄まじいまでに大きな気配が近づいてくるのを感じました。
それは恐怖以外の何物でもありませんでした。
草が踏みしだかれる音と、男性の静かな声。
そして、私が噛みついている男性の苦笑交じりの声が上がります。
「大丈夫です。ちょっと、怖がらせてしまったようです」
ユーインと呼ばれた男性は、私を背後から抱きしめたままでした。私は地面に座り込んでいて、彼に押さえつけられています。その腕の力は確かに強かったのですが、私を傷つけないようにと優しい押さえ方でもありました。
「……ごめんね、同族を見かけたのは久しぶりだったから」
ユーインが私の耳元で囁きます。その声の優しさに戸惑い、『同族』という言葉に反応して、私はゆっくりと彼の腕に噛みついていた口を離しました。
その途端、彼の腕から噴き出た血。それは確かに、私の体内に流れているものと同じ色をしていました。闇夜でも輝く銀色の血。
「血気盛んな子供だ」
もう一人の男性の声が、頭上から降ってきます。
笑い交じりの声はユーインと同じように優しく、そして悠然としていました。
恐る恐る見上げると、そこにいたのは黒い髪をした背の高い男性でした。暗闇をまとうのが似合うような男性。それほど長くはない髪の毛、整ってはいるけれど女性的ではない顔立ち、静かな笑顔がとても似合う方でした。
「怪我は?」
その男性が短くユーインに訊いています。
「怪我は……治りかけのようですね」
ユーインが私を抱きしめていた腕をゆっくりと緩め、そろりと私の背中を撫でました。私はあまり気にしていませんでしたが、人間に襲われた時、私の背中には大きな傷ができたはずです。おそらく、身にまとっていた服も破れたままでしょう。その素肌を撫でる感触が、酷く温かい。そして、限りなく優しい。
敵じゃない。
私はそこでやっと、そう実感できました。
「いや、まずはお前の怪我のことだ、ユーイン」
男性が呆れたように笑います。
「え、ああ」
ユーインがいかにも驚いたように息を吐き、一瞬後に苦笑を返します。「大丈夫です。舐めておけば治ります」
「そうか。誰に舐めてもらうのかは訊かずにおこう」
「自分で舐めますのでお気遣いなく!」
ユーインの声に慌てたような響きが混じります。そして、明らかに話題を変えようとするのが解りました。
「……我々は怪我の治りだけは早い種族ですが、この子の傷は……魔法によるものか、もしくは神官によるもの。いえ……神官かもしれませんね。完治するまでまだしばらくかかるでしょう」
ユーインが私の背中に手を置いたまま、小さく呟きます。
すると、男性が私の目線の高さになるよう、その場に膝をついて身を屈めました。
「少年、名前は?」
私は少しだけ身体を震わせながら、小さく応えました。
「……シェリル、です」
「シェリル、か」
すぐにその男性は優しく頷き、酷くゆっくりと手を伸ばしてきました。思わず身を引いたものの、彼の手が私の頭を撫でる感触と……そして強大なまでの魔力を感じて身動きすら取れなくなってしまいました。
「怯えてます」
ユーインが心配そうにそう言って、すぐに私の耳元に唇を寄せました。「大丈夫です、我々はあなたを保護します。人間から守ってあげますから、安心してください」
「……ごめんなさい」
私はそこでやっとユーインに謝罪しました。恐怖から彼を噛んでしまったこと、それを思い出したからです。
でも、ユーインは笑ってその腕を私に見せてきました。すっかり傷の塞がった綺麗な腕。
「印はついているか?」
男性が少しだけ声を低くさせて続けました。
すると、ユーインは緊張したように私をもう一度抱きしめ、私の顔を覗き込んできました。
「ごめんね、少し服を脱がせるけど何もしないから」
「……うん」
私は何をされるのだろう、と少しだけ不安になりつつも、素直に頷きました。すると、彼はゆっくりと私の服を脱がし、その場に立たせて何かを探しているようです。私の身体に何かあると考えているのか。
「ありませんね。おそらく、怪我だけです」
「そうか、それなら安心だ」
何のことだろう。
私が困惑したまま立ち尽くしていると、ユーインは自分の服の袖をまくりあげ、私に見せてきます。
その服に隠れていた部分。白い肌の上にある、大きい痣というか、模様のようなもの。赤黒い線と、何かの記号。そして、厭な気配すら放つもの。
「……それ、何? 印って?」
私は小さく問いかけます。
すると、彼は形の良い眉を顰めて見せました。
「神官による……封印のようなものです。私は以前、人間に捕まっていたものですから。その時、これをつけられました」
「痛い?」
私が恐る恐るその『印』に手を伸ばすと、触れた瞬間に微かな痛みが伝わってきました。魔力同士のぶつかり合い。我々魔物が持つ魔力と、人間の持つ魔力。そうなのだと思います。
「痛くはありませんが、これを一度つけられてしまうと、人間を攻撃することができなくなるんですよ。つまり、神官による魔物封じです。これさえなければ、私はかなり強い魔物なんですがね」
ユーインの声は穏やかです。そして私から脱がせた服を見下ろして小さく唸ります。
「新しい服が必要ですね。シェリル、我々と一緒にいきませんか? 魔王様の城に」
「魔王様?」
「ええ」
そこでユーインの視線が男性に向かいます。
そして唐突に、私は理解しました。
この方が魔王様なのだ。
魔王様の城までの距離は、結構ありました。
私はユーインに抱きかかえられるようにして、森を抜けていきます。その時、魔王様の姿は遥か頭上に浮かんでいて、どうやらこの広大な森を観察しているようだと解ります。
その後の生活で私が解ったことは。
魔王様がこの森を統治していること。
この森にはたくさんの魔物がいて、それを完全に配下として率いていること。
人間がこの森に入ってくることは最近は稀ではあるけれども、魔王様を、そして魔物たちを殺すために何度も攻め入られていること。そのたびに、魔王様が配下の魔物たちを守り、人間たちを追い返していること。
「ここで暮らしていきましょう?」
ユーインは私にそう言いました。
それを断る理由なんてありませんでした。
私にはもう、家族はいない。
唯一の家族、一緒に暮らしていた母親は、人間に殺されてしまいました。人間が襲ってきた時、ただ混乱の中にいたと思います。それでも、「逃げなさい!」と叫んだ母親の悲鳴だけはずっと耳の中に残っています。
複数の人間に囲まれ、逃げ場を失いそうだったあの時。彼らの攻撃が私の母親に向かったことに気づき、母を庇った時に負ったのが私の背中の傷でした。
「母親は殺してもいい! 子供は生け捕りにしろ!」
怒号交じりの人間の声を聞きながら、私は必死に母を連れて逃げようとして。
でも結局、子供の力ではどうにもならず。
母が目の前で死んでいくのを見ました。
そこからは、記憶が曖昧です。
「人間って、結構残酷ですよね。敵と認めた相手には、容赦などしませんから」
ユーインがそう言ったことも覚えています。
魔王様の城での生活は、とても穏やかなものでした。
私は背中の傷を魔王様に治癒の魔力で治していただいて、すっかり健康な生活を始めていました。城の中では多種多様な魔物たちが仕えていて、自由気ままに生活していたと思います。森の中にはたくさんの食料がありましたし、毎日が平穏でした。
ただその平穏も、魔王様による統治によるものだとすぐに解りました。
魔物たちは森の見回りの番を交互にやっていて、人間がこの森に入ってこようとするのを防いでいました。
「あなたもそのうち、魔王様を手助けするために強くなってください」
ユーインはさらにそう言ってきました。「戦い方は私が教えます。我々はね、随分と人間に殺されてしまいましたが、それでもかなり強いのですよ」
「うん」
私はそうやって、自分の居場所を確保したのです。
魔王様に助けられ、ユーインに守られながら。
森の中を散歩していた時のことでした。
ユーインの姿が城の中になかったので、やることがなかったからとも言います。いつもだったら、ユーインに魔力の使い方を教えてもらったり、戦い方を実戦で教えてもらったりしていたわけですが。
昼間でも、鬱蒼と茂った森の中は薄暗いのです。それでも、とても心地よい場所です。
そこに、微かに魔力の流れを感じました。
それは確かに身に覚えのあるもので、私はそうっとその方向へと近づいていきました。気配の消し方、それもユーインに習ったばかりです。
森の奥にいたのは、ユーインです。
それと、見たことのない男性。いえ、城の中で見かけたかもしれない。いつもは獣人の姿であったから、あまり人間体では見かけないというだけで。
ユーインはその男性と剣を交えていました。
剣の稽古。きっと、そうなのだと思います。木の陰に隠れつつ、その様子を遠巻きにして観察していると、二人の剣の腕はかなりのものだと解りました。
ただ、獣人である男性――赤銅色の短い髪の毛を持った背の高い男性は、ユーインよりも腕力が強い。だから、剣の振り方はユーインよりも豪快で、時折、力でユーインを押しているように思えます。
対してユーインは、彼より腕力がない分、素早さでその攻撃を躱している。少ない動きで確実に攻める、そんな戦いです。
やがて、勝敗の結果は出ました。
腕力よりも素早さの勝利。
剣の切っ先が男性の喉元に突き付けられると、男性が両手を上げて笑います。その途端、髪の毛の中から獣人特有の三角の耳が立ち上がりました。それに、長くふさふさした尻尾も。
お互い、何か言葉を交わしているようでした。
獣人の男性は終始にこやかで、そしてユーインの表情もいつになく……。
二人がやがて軽く唇を重ね、ユーインがすぐに身を離そうとしましたが、獣人の彼はそれを乱暴に引き留めました。
そして、もう一度重ねられる唇。先ほどよりもずっと深く、そして。
「覗きはいけません」
気づくと、目の前にユーインの姿がありました。
酷く焦ったような目つきで、その目元に朱が散っているように思えました。
「何、してたの?」
私がただそう無邪気に訊くと、ユーインは喉の奥で何か声を押し殺したような音を立てました。
「何って……」
彼は少しだけ視線を泳がせた後、にこりと微笑みます。「彼の精気を分けてもらっていました。彼ら――獣人は精気が有り余ってますからね、ちょっとくらい吸いすぎても大丈夫です」
「精気?」
「ええ。人間相手にやると、殺すこともできます。まあ、精気を分けてもらえれば私も疲れが取れますし、魔力の回復も早くなりますし、いいことが多いのは確かですけどね」
「ふうん」
私が納得して頷くと、急にユーインの背後に獣人の男性が立ってユーインを背後から抱きしめました。
「ま、それだけじゃねーけどな」
獣人の男性はにやにやしつつ言って、ユーインのうなじ辺りに唇を当てました。「こいつの口は精気以外にも色々と吸い……」
と、そこでユーインが笑顔のまま獣人の男性の頭を殴りつけました。しかし、男性は一瞬だけ怯んだ後、ユーインを抱きしめたまま彼の服に手をかけて脱がせようとして。
さらに激しく殴り飛ばされました。
「俺、時々、すげえマゾなんじゃないかって思うわー」
その場に座り込み、頭を痛そうに抱えている男性はぶつぶつと呟いています。
「子供の前で何をしようって言うんですか? バカですか、あなた」
ユーインの笑顔はいつになく――怖い。
私は思わず後ずさり、首を傾げます。
「……ケンカ?」
そう小さく質問すると、男性が酷く真面目な顔で首を横に振ります。
「仲がいいゆえの愛情表現」
……暴力にしか見えないけど。
私は眉を顰めてしまいます。
「情操教育っていうんだぜ、こういうの」
男性は立ち上がりながらそうユーインに声をかけましたが、ユーインはそんな彼を睨みながら鼻を鳴らします。
「子供にはまだ早いです。こんな可愛い子はあらゆる悪いものから守ってあげないと……」
「って、まさか」
そこで男性が何かに気づいたかのように目を見開いて、手を口元に当てて続けます。「その可愛いのを自分好みに育成して、食べごろになったらいただくっていう、正に外道で鬼畜な狙いを」
「ラインホールト」
ユーインの笑顔が凍りました。「後で尻尾を引っこ抜いてあげますから覚悟してください」
「やっぱり俺ってマゾなんじゃないかって思うわー。ないわー」
仲がいいというのは本当かもしれない。
ユーインは冷ややかにラインホールトと呼んだ男性を見つめていましたが、完全に冷たいわけではないようでした。その横顔には親しみが感じられましたし、すぐに冷たさは和らいで口元には苦笑も浮かびました。
「ね、シェリル」
やがて、ユーインは私に屈みこんで真顔になって続けました。「ああいうのは……唇を重ねるのは、できれば好きな人とだけしなさい。いつか、きっとあなたにもできるはずです。本当に……一番に好きな人が」
「……そうかな」
私は困惑したまま訊き返します。「今、ユーインが一番好きだよ」
「それはきっと」
「浮気よくない」
ユーインが何か言いかけた瞬間、ラインホールトがユーインを抱きしめて私を見つめます。「こいつは俺のだからな!」
そして結局、ラインホールトはユーインに無言の鉄拳制裁を受けていました。
ある夜のことでした。
魔王様の城が酷く騒々しい感じがして、私はベッドから降りて与えられた部屋を出ました。
石畳の床は酷く冷たく、慌てて靴を履いて廊下へと出ます。すると、異形の魔物たちの姿が夜中だというのに廊下を走って通り過ぎていくのが見えました。
「シェリル!」
私が困惑して廊下にある窓に近寄り、魔王様の城の中庭を見下ろそうとしていると、背後からユーインの声がかかりました。
緊張感のある声。
私は何が起きたのかと不安になりました。
「何事も勉強になります。素早く身支度して、大広間にきなさい」
振り向くとユーインが腰に剣を下げて立っていました。そして、それだけ口にするとその姿が空気に溶けるようにして消えてしまいます。
何が起きているのかは解らないけれど、急がなきゃ。
慌てながらも部屋に戻り、動きやすい恰好に着替えるとユーインに言われた通り大広間へと向かいます。
大広間にはたくさんの魔物たちが集まっていました。
そこで、魔王様が皆の顔を見回しながら静かに言いました。
「またいつものように人間が……人間たちが森に入ってきたようだ。おそらく、魔法使いも神官もいるだろう。軽く追い返してこようか」
普通、この森に入ってくる人間は武装しています。
時には単純に道に迷ってしまった人間もいますが、ほとんどが魔物退治のための集団です。
しかし魔王様はとても強く、そして配下の皆も強いので、人間を追い返すことは難しいことではありませんでした。
ただ、不安要素はありました。
一番に魔王様が懸念していることは、神官の力の強さが年々増していっているということらしいのです。神の力というものは、魔物の力を弱めます。このまま強くなりすぎれば、我々の敵対関係のバランスも崩れる……と。
「実戦は初めてでしょうが、大丈夫、怖くありません」
私が緊張しながら大広間の隅に立ちすくんでいると、そんな私を見つけたユーインが歩み寄ってきました。「私は魔王様と仲間の護衛に回ります。あなたも守ってあげますから、心配しないで大丈夫」
「……うん」
と頷いてから、慌てて私は首を振って言い直しました。「はい」
ユーインはとても強い魔力を持っているのは事実です。
でも、人間にそれを封じられてしまっているから戦闘の先陣を切るわけにはいきません。どうやらいつも、護衛の任務についているようでした。
「あなたは印がついていない。だから、きっといつか魔王様と一緒に戦えるでしょう。でも今日は見ているだけでいいでしょう。大丈夫ですよ」
ユーインが優しく微笑み、私はただ緊張を隠したまま頷きます。
そして。
皆と一緒に城を出ました。
森の遠い場所。人間の村が近い場所、そこで人間たちとやりあうことになったのです。
敵は――人間は私が考えていたよりもずっと大人数でした。剣士らしき姿が一番多く、十人以上はいたでしょうか。それに、複数の魔法使いたち、神官らしい人間は一人。
こちらも結構な人数でした。城を守るために半数を置いてきたとはいえ、かなりの人数の獣人たちと、背中に翼を持つ種族、異形の生き物たち。
それらの先頭に立つのが魔王様。
私とユーインは、結構後ろの方に控えていました。ユーインは時折、人間がこちらを襲ってくるのを躱し、味方の魔物たちを守るために動いていました。でも、基本的には私のそばにいてくれました。
そして、私はただ彼らの戦いを見つめていました。
魔王様の強さはあまりにも圧倒的でした。
あまり血は流れなかったと思います。魔王様の戦い方は、敵を殺すのではなく、戦闘能力を奪ったらそれで終わりにするというものでした。なぜ、そういう戦い方をするのか、と以前ユーインに訊いたことがあります。
「……敵を殺せば、次はその恨みを持った人間が攻めてきますから。敵が増えるんですよ」
確かに、なるほど、と思いました。
でも。
私は人間が嫌いでした。母を失ったことによる心の傷は、まだ癒えてはいません。きっと、二度と癒えることはないでしょう。だからむしろ、魔王様が人間を全員殺してしまったら世界が平和になるんじゃないかと思ったくらいです。
それでも。
魔王様がその腕を上げて魔力を解放させるたび、人間たちが逃げまどい、退却していくのを見るとこれでもいいのかもしれないとも思ったりします。
そしてそれ以前に。
自分でもよく解らないのですが。
魔王様が穏やかに、まるで城でくつろいでいるときと同じように微笑みながら人間と戦っている姿を見て。
酷くまぶしい、と。
ただ、格好いいと。
息をつめて魔王様を見つめている自分に気が付いて戸惑っていました。
魔王様の背中はとても大きくて、とても頼りになって。
あの魔王様の後ろにいる我々は、ただそれだけで安全だと理解できて。
「簡単だな」
人間を森の外へと追い出して、退却してもう戻ってこないだろうと判断すると肩をすくめて笑います。その笑顔があまりにも綺麗で。綺麗という表現がおかしいと思いながらも、私の心臓が奇妙に震えるのも感じました。
心臓が震えるだけじゃなく、それは痺れのように全身にと伝わり、指先すら震えるのです。
こんな感情は今まで知りませんでした。