人間との戦いはそれなりにありましたが、平和な毎日でした。
それは、魔王様があまり――というか、ほとんど自分から人間たちに攻撃しようとかしなかったからなのでしょう。魔王様は統治する森を守り、配下を守り、必要な時以外は人間にその魔力を使うこともありませんでした。
だから、我々は魔王様の城でのんびりと生活できていたのです。
時は過ぎて、私はユーインの身長に届きそうなほどになりました。まだ子供と言われても仕方ない風貌でしたし、明らかにユーインには子供扱いされていた私ですが、戦い方も森の見回りの仕方も、他の魔物たちと同じくらい上手くやれるようになった頃のことです。
ある夜のこと、大広間の片隅で私とユーインが会話をしていると、魔王様が外出から帰ってこられました。急にバルコニーに強大な気配が現れたかと思うと、瞬時にその姿が大広間の中へ移動します。
いつになく厳しい顔つきの魔王様でしたが、ここに我々の姿があると気づくと、少しだけ表情を和らげて声をかけてこられます。
「……暇なのか、お前たち」
魔王様はからかうような目つきでしたが、ユーインが表情を引き締めて次の言葉を言うと、その目に陰りを落としました。
「最近、人間たちの様子を見にいっておられるようですが」
「ああ、確かに」
魔王様は幾分疲れたように目を細めると、ゆっくりと大広間の壇上にある玉座に腰を下ろしました。そのまま乱暴に足を組み、ひじ掛けで頬杖をついてこちらに視線を向けてきます。
「どう思う、ユーイン」
「何がでしょうか」
「神殿の……神官どもの動きだよ。どうも、活発化しているようにしか思えん」
「そうですね」
ユーインは困惑したように微笑み、微かに首を傾げて続けました。「昔から、多少はきな臭いと感じていましたけども」
「過ぎた力はいつか、安定を崩すものだ。奴らは強くなりすぎた。つまり、王族に対する発言力という意味で」
「王族……」
私はじっと魔王様たちの会話を聴くだけでした。
二人の会話の意味は解りますが、おそらく、私の知らない情報を魔王様もユーインも持っているのでしょう。彼らだけにしか通じない会話。
「困ったことにな」
魔王様は苦く笑います。「近いうちに、ここにやってくるだろう」
「……何が、いえ、誰がでしょうか」
ユーインの眉が神経質そうに顰められました。明らかに警戒したような口調。
「村の噂ではな、王の近衛兵団だそうだ。騎士団ではなく」
近衛兵団?
私もつい眉を顰めつつ、魔王様の顔を見つめ続けていると、その視線に気づいたのか魔王様が小さく笑って私に言いました。
「王族を守るための任務についている奴らのことだ。貴族の血気盛んな若い連中もその中に含まれる。王族を守るのだから、腕は確かにいい連中が集まってはいるが、普通は城を出ることはない。些細な見回りなどは、平民出の多い騎士団連中に任せておけばいいわけだしな」
「……つまり、どういうことでしょうか?」
私は少しだけ考えたものの意味が解らず、正直にそう問いかけました。すると、魔王様はさらに笑みを強くしました。
「派手な戦いになるということだよ。つまり、飾りの戦いというわけだ。派手に我々を攻撃し、魔王である私を殺し、国民に近衛兵団の……そしてそいつらを率いている人間の優秀さを見せつけるためだけの戦い」
「率いている人間……」
私は魔王様から視線をそらし、ユーインに助けを求めるように見つめます。すると、ユーインは苦笑して言いました。
「率いるのは王族。まさか国王直々にというのは考えられないでしょうから」
「ああ、王子だろう」
魔王様も笑います。「派手に勝利を収め、城に凱旋する。そうすれば、戴冠式も盛り上がるだろう。どうやら、国王はそろそろ危ないようだ。だから、派手に告知する方法を選んだのだろうな。何しろ、今の国王は神殿にかなりの信頼を置いている。いいように操られているとも言うが、きっと今回の進軍も神官連中にけしかけられたのだろうな」
「……バカバカしいことですね」
ユーインは苦々しくそう吐き捨てると、私を見つめ直して続けました。「大変でしょうが、シェリルには頑張ってもらわないといけません。戦わねば殺されます。いくら、飾りの戦であっても」
「はい、もちろん」
私はすぐに頷きました。「魔王様のためなら何でもします」
「やめてくれ」
魔王様が呆れたように両手を上げます。まるで、お手上げと言いたげな様子で。
「シェリルは真面目すぎる。若いんだから、あまり無茶はさせるな」
「しかし」
ユーインが何か言いかけるのを遮り、私は必死に続けました。
「若いとか関係ありません。魔王様に助けていただいた命なら、魔王様のために死ぬのが私の使命です」
「おいおい」
魔王様はそこで笑みを消して、困ったようにこめかみを指で揉んでため息をこぼしました。
「ありがたい言葉ではあるが、重い。凄まじく重い」
「重い?」
「そうだ」
魔王様はそこで乱暴に髪の毛を掻き上げました。いつも整っている前髪。後ろに流れている前髪の一部が、はらりと目元に落ちて。
そんな仕草、困ったような双眸、苦笑、指先にすら。
私は、何とも言いようのない感情に胸の中がざわざわして仕方ありません。最近、魔王様の言葉一つ一つに、簡単に気持ちが浮き沈みしてしまう。
魔王様の力になりたい。
でも、迷惑はかけたくない。
そばにいたい。
でも、いつも一緒にいるわけにはいかない。
何でこんなに乱されるのか、自分でもよく解りません。とにかく、魔王様の笑顔だけが見たかった。魔王様のお役に立って、褒められるのであったら何でもやろう。そう思うだけなのに。
「ユーイン、席を外してくれ」
魔王様がやがてそう小さく言って、ユーインが軽く頭を下げてから大広間から出ていきます。その背中を見送りつつ、私はただ困惑していました。
「いいか、シェリル」
「あ、はい!」
私は慌てて魔王様に向き直り、その言葉一つ一つを聞き洩らさないよう、じっと息を詰めて立ち尽くしていました。すると、魔王様はさらに深いため息をつきました。
「何というか……な」
魔王様の言葉はとても歯切れが悪く、そして何事か悩んでいるように物憂げでもありました。その表情にすら、また私の心臓が暴れてしまう。
「お前は子供だ」
魔王様はやがて、玉座から立ち上がると私に近づいてきます。さらに私の心臓が早鐘を打って。呼吸すら苦しくなってきます。でも、それを隠そうと必死に冷静な表情を作ろうとしているのに。
「おそらく、お前が感じているのはアレだ。雛鳥が親鳥について歩いていく時のような感情」
「え?」
「よく考えるといい。まだ若いんだからやり直しはきく。勘違いはするな」
「勘違い?」
「そうだ。よく言うだろう。憧れと恋は似ているとか」
一瞬、私は固まっていたと思います。
魔王様の言葉の意味が、頭の中に浸透するまで時間がかかりました。
「……勘違いじゃありません」
私はやがて、ぽろりとそんなことを呟いてしまいました。しまった、と思ったのは確かです。でも、どうしても弁解したくて仕方なかったのです。
「この気持ちは勘違いでも何でもないです。私は、私は」
「シェリル」
「魔王様のことが好きなんです。だから、その」
ただ、必死でした。
魔王様の役に立ちたいと感じるのは、誰よりも魔王様のことが好きだからです。もちろん、ユーインのことだって他の仲間のことだって好きですけども、それでも、魔王様に対する気持ちだけはもっと……もっと、何て説明したいいのか。
「もし、それが本当だとしても」
そこで、魔王様は眉を顰めました。男性らしい、整った眉。
「私は、お前の気持ちには応えてやれん。無駄な期待などさせてやれないのだ」
その声音には、僅かな申し訳なさのようなものが。
ああ、そんな顔をさせたいわけじゃなくて!
私は、ただ一緒にいられるだけで満足で!
「期待なんて!」
私は慌てて微笑んで見せました。当たり前です、何も求めたりしていないんです。私が欲しいのは、私の居場所。できるだけ魔王様と近い場所で、魔王様の力になりたくて。そう、ユーインと同じように、魔王様に信頼されて、何でも命令してもらえるようになれれば、それだけで。
その時。
魔王様が一瞬だけ逡巡らしきものを見せました。
自分でも何が起きたのか、解りませんでした。
気づけば、魔王様の顔がすぐそばにあって。
自分の唇に、一瞬だけ触れた感触が。
「すまんな。私はこのくらいしかお前にしてやれることはない」
そう、遠ざかった魔王様の声が聞こえてきて。
「いえ!」
私はただ心臓の上――胸の上に手を置いて、その暴れまくる鼓動をどうにかしなきゃいけないと考えたような。
そして、その後、何を言ったのか解りません。ただ、ぎくしゃくとした動きで大広間を出たような気がします。気が付いたら、私は大広間の扉を閉めて、廊下の上に座り込んでいました。
唇。
魔王様の……キス。
……キス?
「……どうしよう」
私はただぼんやりと廊下を見下ろし、自分の唇を撫でました。ただ触れただけのキスだったのに。
「……どうしよう、嬉しい」
自分でもよく解りません。気づいたら涙がぼろぼろと零れ落ちていて、それはただ、嬉しかったから。嬉しいから泣く。こんなのは初めてで。
混乱から覚めると、私は自分の頬に手を当ててさっきのが夢ではないと実感できて。
そして思うのです。
もう、充分だ。
たとえ受け入れてもらえなくても、もういい。
だって、私が勝手に魔王様のことを好きなんですから。
だから、何があってもこの気持ちは大切にしよう、と。魔王様以外の誰かになんて、きっとこんなに気持ちを惹かれることなんて絶対にないでしょう。そう、絶対に。
だから。
だから、私は魔王様のために死のう。魔王様のために戦って死ねれば、それでいい。そうじゃありませんか。
一緒にいられれば。
それだけで。
それは、必死に自分に言い聞かせていたことなのかもしれません。
そう自覚してしまったのは、魔王様が『彼女』と出会ってしまった後のこと。
魔王様がおっしゃっていたように、近衛兵団の進軍は始まったようでした。
近衛兵団だけではなく、神官や魔法使いといった人間も多く参加しているようで、森への侵略はじわじわと、そして確実に始まったのです。
森には魔王様による防御壁がしかけられています。ただ、この広大な森を全部覆いつくす壁はかなりの魔力を消費するようで、いくら魔王様といえど完全な防御を誇るというわけではありません。特に、神官たちの力は魔物の力を弱める術を使います。
壁は突破されました。
でも、一気には攻めてこない。おそらく、彼らは魔王様の城がどこにあるのか、把握しているはずです。しかし、その歩みは酷くゆっくりでした。
だから、魔王様が怪訝そうに窓の外を見て呟いたのです。
「どうも、奇妙な気配だな」
「どういうことですか?」
近くに控えるユーインが小さく訊きます。
そして、私はユーインの数歩後ろで、ただおとなしくしている。いつものように、ただ静かに。
「様子を見てこよう」
魔王様がそう言うと、ユーインがいつになく鋭く声を上げました。
「いえ、今回は危険です。神官が力をつけているとおっしゃったのは魔王様、あなた様ですが」
「解っている」
魔王様は苦笑を返し、ユーインの肩を優しく叩きました。「無理はしないが、お前を連れてはいけん。お前には印がついているからな、神官に見つかったら簡単に誘拐されるぞ」
「……それは否定しません。ですから」
「大丈夫だろう。念のため、シェリルは連れていく」
「シェリルを?」
ユーインの視線と魔王様の視線が同時に向けられて、私は内心慌てましたが表情には出さずに済みました。私は静かに微笑むと、ユーインに短く言いました。
「絶対にお守りします」
「重い」
瞬時に魔王様がそうおっしゃったのだけが、納得できませんでした。
目が覚めると、見覚えのある天井が見えました。
ああ、夢が覚めてしまった。
そう気づくと、私は両腕で自分の顔を覆います。もう少し、夢の中にいたかった。魔王様のそばにいたあの頃の夢の中に。
胸が痛い気がします。
魔王様に対する想い、あれは特別だった。今でもそう思います。
そして。
似たような痛みを、また。
私は、また知ってしまった。
どうしよう。
私は、どんなに自分に言い聞かせてももう無理だと理解してしまいました。どう誤魔化しても、どんなに目をそらしても。
私は、ラースのことが好きなんです。そうです、ただ認めたくなかったんです。あの時、魔王様以外に誰も好きになどならないと思ったから。だから、それを嘘にしたくなかった。誰か他に好きな相手ができてしまったら、魔王様に対する『恋』が、消えてしまいそうで。何もかも、薄れていってしまいそうで。
それが厭だったから認めたくなかった。
でも。
魔王様のそばにいた時のあの胸の痛みと、焦燥。一挙一動に振り回される感覚。ラースのそばにいても、同じような自分がいる。
ラースは優しかった。記憶のない私に、とてもよくしてくれた。
でも、どうしても受け入れたくなくて自分に嘘をついた。そして、彼を傷つけた。もうどう謝罪しても許してはもらえないほどに。
どうしよう。
自業自得とはこのことなんでしょう。もしかしたら、ただ認めていれば。ラースに歩み寄っていれば、こんな状況にはならなかったのかもしれません。いえ、確かにその通りなんです。
謝れば楽になるでしょう。
そう、私だけは。
でも、ラースの気持ちは? さらに不愉快になるだけでは?
私はのろのろとベッドから起き上がりました。ベッドの隣には、グラントが酷い寝相で眠っています。すっかり熟睡している彼をそのままに、身支度を整えて部屋を出ます。まだ朝は早い時間で、窓の外からは鳥の鳴き声が聞こえ始めたところのようでした。
今日も快晴になるのだろう、と思えるような空が窓の外に見えました。雲ひとつない、朝焼けの空。でも、全く私の心は晴れない。
ラースに合せる顔がない。つまり、そういうこと。
いつものように大広間へと入ると、もうすでに魔王様が起きていらっしゃったことが解りました。玉座に座り、目の前に水晶玉を掲げながら魔王様は何事か唸っています。
そして意外なことに、ラースの姿もそこにありました。
私は一瞬だけ、息を呑んでラースの背中を見つめます。きっと彼は私の気配に気づいただろうと思うのに、振り返ろうとはしませんでした。当たり前なのかもしれませんが。
「確かに、お前の言う通り、奇妙だな」
魔王様が水晶玉を見つめ、胡乱気に目を細めて言いました。「偵察にいってこい。気が向いたら後で私もいこう」
「かしこまりました」
ラースが静かに頭を下げ、踵を返します。明らかに私の存在を視界に入れたくないようで、ただその視線はまっすぐに扉へと向かっています。
私は何も言わず、彼に軽く頭を下げました。ラースの横顔は静かで、ただ冷たい。私の横をすり抜けていくのを見送った後、そっと顔を動かして魔王様の手のひらの中にある水晶玉を見つめました。
そして息を呑みます。
銀色の長い髪。銀色の瞳。
限りなく白い肌と、長い睫毛を持った形の良い瞳。若く、とても美しい少女がそこに映っていました。
同族。
私と同じ種族だと一目で解ります。
そして、酷く厭な予感がしました。