「全く面倒なことだ」
魔王様のその低い声で、私は我に返りました。
魔王様は水晶玉を見つめたまま、不機嫌そうに唇を歪めて続けます。
「大体、私はこれっぽっちも女などには興味がないのだ!」
「は?」
私は思わず困惑した声を上げました。しかし、魔王様は私の声など聞こえなかった様子で、さらに声を張り上げました。
「私が第一に重要とするのは筋肉! しっかりと念入りに鍛え上げられた流麗な筋肉と、さらに尻の穴をきつく閉ざすことのできる括約筋である! 間違っても余計な脂肪のついたぷよぷよとした女の身体ではない! 解るか、いくら顔の造作が整っていようとも、完璧な美というのは筋肉にあるのだ!」
「は、はあ……」
魔王様はいつの間にか玉座から立ち上がると、まるで水晶玉を握りつぶすのではないかと思えるくらい指先に力をこめ、それを睨みつけました。
「まさに、勇者の尻は私のためにあるのではないかと思えるくらい完璧である! しかしだ!」
そこで魔王様は私を正面から睨みつけるようにしてきたものですから、私は思わずそっと後ずさりしました。何となく、じゃあ、女性が身体を鍛えて筋肉隆々となったらどうなんだろう、と疑問を抱きましたが面倒なので口には出しません。すると魔王様は私を睨みつけたまま、苛立ちの混じる声で続けます。
「何故、勇者の周りにはそういう誘惑が多いのだ! 女など近づかないようなところにいればいいのに、何故関わろうとするのだ!」
ふとその言葉に首を傾げ、私は魔王様の手の中にある水晶玉を見つめ直しました。すると、確かにそこにはクレイグの姿も映っていました。
銀色の髪の少女のすぐそばに、クレイグが困惑した表情で口を引き結んで立っています。そして、その横にはコンラッドも。
そこはどうやら、クレイグたちが寝泊まりしている宿屋のようでした。質素ともいえる見覚えのある部屋。そこに結構な人数が集まっているようで、とても狭苦しく感じられる空間になっています。
一番目立っていたのは、窓際に立っている男性です。
六十歳すぎと思われるその男性は、とても高級そうな布地でできた神官服に身を包み、何か話をしているようです。そのすぐ横に立つ年若い神官も、同じような神官服を着ていました。
クレイグたちといつも一緒にいる神官もその場にいましたが、明らかに神官服の仕立ての違いから、身分の違いというものを感じさせています。そして、二人の神官を見つめながら、僅かに緊張した面持ちで話を聞いていました。
何を話しているのだろう。
そう思いましたが、水晶玉の中の会話は全く聞こえてきません。しかし、魔王様が懸念しているような、銀色の少女が勇者を口説く、なんてことはなさそうに思えるのですが……。
と、そこで銀色の少女が少しだけ不安げに睫毛を震わせ、神官たちの視線が自分に向いていないのを確認してから、僅かにクレイグとコンラッドの方へ救いを求めるような表情をしてみせます。すると、案の定というべきか、クレイグがその表情を僅かに強張らせ、何事か考え込んでいるように見えたのです。コンラッドは相変わらずの無表情でしたが。
――なるほど。
私はそっと頭を掻きました。
勇者はいつだって勇者らしい。
いえ、クレイグが、というべきでしょうか。真面目な彼のことですから、その少女の様子に何か感じるものがあったということなのでしょう。
「……あの、恐れながら、魔王様」
私はそっと口を開きました。「一体、何が起きているのでしょうか? ラースがここにきていたのは……」
「ああ、あやつは村で何か奇妙な気配がしたから、と私に報告しにきた」
魔王様は急に我に返ったように動きをとめた後、静かに言いました。「だが、何が起きているのは私にもよく解らん」
「魔王様でも?」
「でもとは何だ、でも、とは!」
おっと、失言です。
私は何とか笑みの形を唇に作ると、ぎこちなく続けます。
「いえ、魔王様にはできないことなど一つもないと思っていたものですから」
「おだてても抱いてなどやらんぞ!」
いえ、それはお断りしたいです。
ええ、それはもう全力で。
「神官の連中はな、厄介な力を持っておるのだ」
そこで、魔王様は苦々しく吐き捨てるように言った後、もう一度玉座に腰を下ろしてため息をこぼします。「私にも見えないものがある。いわゆる、山の神殿の内部のことはまるっきり見えん」
「山の神殿とは……ミアス山にある神殿のことですか」
「ああ、そうだ」
ミアス山というのは、この国の北部にある一番高い山のことです。
そこに、神殿の本部ともいうべき建物があるというのは聞いたことがあります。もちろん、そこに近づくのは危険なため、ほとんどの魔物は生息するどころか近寄ることすらしません。
ミアス山は『神の山』、と呼ばれることもあるようです。それは、そこにある神殿の持つ力が強すぎるからです。
この国にはたくさんの小さな神殿が点在していますが、それらは言うなれば子供のようなもの。ミアス山の神殿――魔王様いわく、山の神殿はそれらの親。一番の力を持つ神官――神官長は山の神殿にいるという話です。
「山の神殿で神官どもが何かを企んでいるのは解っているがな、その何か、が解らん」
魔王様は不機嫌な表情のまま呟きます。「何しろ、あの神殿には『神の石』というものがある。あの石が全ての神官たちに力を与えているし、さらにその力で山の神殿に防御壁を作っているせいで、私の水晶玉ですら内部を見ることができんのだ」
「神の石……」
「まさか、女を囲っていたとはな……神官と言えどやることがゲスいな」
魔王様は限りなく真剣な表情でそう呟きましたが、私はただ力なく微笑むことしかできませんでした。
囲う……絶対に違うと思います、それは。
「まあいい、お前も様子を見てこい。同族なんだろう」
やがて、魔王様は玉座にふんぞり返り、つまらなそうな口調で言いました。私はすぐに「はい」と頷いたものの、やっぱり胸の中に不安の塊のようなものがあったのは事実です。
自分でも説明のしようがない黒い影。
何でしょうか、これは。
「ああっ、いた、シェリル!」
大広間を出るとすぐに、グラントが寝ぐせのついた頭のまま駆け寄ってきました。「起きたらいないから寂しかったよー」
そう言って、私の腰に抱き付いてきた少年を抱き寄せ、私はただ笑います。
「すみません、用事ができてしまいました。お留守番お願いします」
「つまんないの」
グラントは眉根を寄せ、唇を尖らせましたがやがて素直に頷きました。「でもいいや、待ってる。いってらっしゃい」
そう無邪気に笑う少年を見下ろしながら、私は心の中で苦々しく感じます。
私のやっていること。
まるでユーインの真似をしている。そうとしか思えなくて。
でもだからこそ、私は自分に言い聞かせます。
グラントは戦いに巻き込みたくない。できれば、安全な場所にいて欲しい、と。
私が村に到着したのは、それから少し時間が経った後のことです。魔力を使って移動すれば、もっと早かったでしょう。でも、村に神官たちがいるのなら、大きな魔力の動きは簡単に読み取られてしまいます。
村の入り口に立った時、私は『それ』に気づきました。
同じ魔力を持つ存在の位置。
あの少女です。そう遠くない場所にいる。
でも、逆に思うのです。
私が感じているということは、きっとあの少女も気づいているはずです。そう、私の存在に。
村の中は相変わらず長閑な雰囲気です。人間によく似た私の存在など、彼らは全く気にした様子もなく日常生活を送っています。店先で買い物をし、笑い、世間話に花を咲かせています。
そんな中、クレイグたちのいる宿屋の方に足を向けながら、私はただ唇を噛んでいました。
ユーインは昔、人間に捕まっていたと言いました。つまり、人間は我々……同族を捕まえる理由があったということです。そして今も、あの少女を捕まえているということなのでしょう。
しかし、捕まえて何をするのでしょうか?
人間に逆らえないように術をかけて、それから?
私は足をとめました。
宿屋のそばにきて、少女の気配が強くなったのを感じたからです。
下手に近寄るのも躊躇って、さりげなく道端で時間を潰している旅人のようなふりをしつつ、宿屋が見える場所を確保しようと辺りを見回しました。そして気が付きます。
ラースの気配。
私が物陰に潜んでいると、クレイグたちのいる宿屋のすぐ前のところに、ラースが立っているのが見えました。今の彼は、まさに人間そのもののような姿をしていました。きっと、村で目立たないようにするための変装なのだと思います。
いかにも剣士といった服装で、その背中しか私には見えませんでしたが、仮面もつけていないのだろうと予想がつくような姿。
そしてちょうど、宿屋の入り口の辺りに、神官二人に挟まれるようにして出てきた彼女の姿が見えました。その後に続いて出てきたのは、クレイグとコンラッド、そしてその元々の連れであった神官。
ラースはさりげなくその場を離れようとしたようでしたが、そんなラースを見つけたのはクレイグでした。彼は驚いたように微かに表情を動かしたものの、何故か何も言わずにラースから目をそらしました。
そして、神官に挟まれるようにして歩いていた少女がラースに視線を向け、微かに眉根を寄せたのが見えます。
彼女は一瞬だけ左右に視線を走らせた後、唇だけを動かしました。
『助けてください』
そう、声を出さずに動かしたのが見えたのです。
ラースがまた足をとめました。その動きに何か感じたのか、年配の神官がラースに目をやった瞬間。
「……近くにいます」
少女が鋭く言いました。
神官二人が素早く少女に目をやります。そして、銀色の少女は無表情のままこちらへ――私がいる方向へ顔を向けてさらに言いました。
「向こうです」
すると、神官の気配が動きました。
何だか危険な予感がして、私は慌てて地面を蹴って近くの建物の屋根の上に飛び移りました。その瞬間、辺りを行きかう人間たちの驚いたような声が上がりましたが、私は気にせず安全な場所を探してまた隣の建物へと。
「待ちなさい!」
そう地上から声をかけてきたのは、年配の神官の方です。
私が屋根の上で足をとめて彼らを見下ろすと、私を追おうとする神官二人がすぐ近くにまでやってきているのが見えました。
「こんな街中で戦う気はない。話を聞きなさい」
重ねて彼が言い、私はただ困惑して眉を顰めます。そのまま宿屋の方へと視線を移動すると、さらに困惑すべき光景がありました。
銀色の少女がラースに近寄り、軽く抱き付いているのが見えました。不安げに微笑み、何か話しかけているのも。
ラースは背中をこちらに向けているので、どんな表情をしているのかは解りません。ただ、少女の腕を拒みはしませんでした。
そして少女からラースのそばを離れると、元の場所――先ほどまで立っていた宿屋の入り口に戻ると、その表情を消しました。水晶玉の中で見た、何事にも無感動のような静かな顔。きっと、神官がそちらを見ても、先ほど何があったのか解らないだろうと思われる表情。
「君も見ただろう」
神官の声が続いています。「君と同じ種族の少女を保護している」
私が彼らに視線を戻すと、年配の神官が穏やかに微笑んでいるのが目に入ります。それは、とても優し気な笑みであったのは確かですが、明らかに作り物でもありました。緊張しているのが一目で解ります。
「保護したのは何年も前になる。傷つけてはいない」
――何を言いたいのでしょうか。
私は彼らを見下ろしたまま、首を傾げました。すると、神官はできるだけ私に近づこうとしつつ、穏やかに続けました。
「君たちが強大な魔力を持っているのは解っている。だからこそ、魔王に利用されるのは避けたいとも考えているのだ」
「奇妙なお話ですね」
私は言葉を探しつつ、冷ややかに聞こえるように声色を変えました。「あなたがたは昔、私を殺そうとしました。それは、私を敵だと認めたからなのではありませんか? 私は……あなたがたの同胞を殺しましたから」
「確かに、君のことを危険だと言う仲間はいる。殺すべきだと言う人間も」
彼は苦笑しつつ一歩また前に進みます。そして、ゆっくりと腕を開き、何か演技でもしているかのようなわざとらしさを見せつつも親し気な雰囲気を作り出しました。
「しかし、今は状況が違う。できれば、力を貸して欲しいのだ」
「力を?」
私は思わず吹き出してしまいました。何ともバカバカしい言葉じゃないでしょうか。魔物が神官に力を貸す? どう考えてもおかしい話です。あり得ないことだと思います。
絶対に何か、裏がある。
そう考えるのは当たり前です。
私はそっと彼らから目をそらし、宿屋の方へ――銀色の少女へと目を向けました。すると、少女は真正面から私を睨むようにして立っていました。
とても友好的とは思えないその色。
私が眉を顰めた瞬間、彼女の表情からはあらゆる感情が消え、先ほどまでの人形のような無表情へと変化します。
少なくとも、彼女にとって私という存在は、歓迎すべき相手ではない。
一体、どういうことなのでしょうか。
魔王様は様子を見てこいとおっしゃいました。ここで彼らに拒否の意を伝えるのは簡単かもしれませんが、彼らの考えていることを探ることは不可能になるかもしれない。そう思うと、もう少し歩み寄りを見せた方がいいのかもしれないと考えました。
「すぐには決められません」
私はやがて、小さく言いました。「私は魔王様のために存在するだけの生き物ですから。魔王様のそばを離れるわけには……」
そう言葉を濁していると、彼は意味ありげに笑いました。
「君が魔王を守りたいと考えるのは当然だ」
「……そうですか?」
「だから、こう考えたらどうだ? 我々は遅かれ早かれ、君の敬愛する魔王を攻撃するために森に入るだろう。君たち魔物を制圧するために、その数を減らしたいと考えるのが人間として当然のことだ。しかし、もしも、だ。君が我々と一緒にくるというのなら、その戦いは必要ない」
「必要ない?」
私は思わず足を蹴って、隣の建物の屋根の上に移動しました。どうも、何か落ち着かない。彼の言葉は信用できない。そう感じるからこそ、苛立ってしまう。
「何故必要ないと言えるのですか? あなた方が約束を守る種族だと誰が証明してくれると言うのですか?」
「我々の目的は、魔物……いや、魔王が持つ力を弱めることだ。せいぜい森の中でおとなしくしてくれていれば、こちらとしても何もしない」
「何もしない?」
私の声が知らず知らずのうちに低くなりました。
前だって、私たちは――魔王様は何もしなかった。自分から人間の村を攻撃することなんて一度もなかった。それなのに、襲ってきたのは人間たち。
「だが、君のような強大な魔力を持った魔物が、魔王の配下として存在しているのは後々の不安の種になる。だから、無力化しておきたいのだ」
「奇妙な話です、ええ、本当に」
私は何とか言葉を探して続けました。「魔王様はあなた方人間たちにとって、それほど危険な方ではありません。それはもちろん、ある一部の……いえ、とある一人の人間の身は危険ですけども、わざわざ攻撃する理由なんてないと思いますが」
「とある、か」
神官は苦笑して、ちらりとその視線をクレイグの方へと向けました。
途端、クレイグが渋い表情で首を横に振ります。
「……俺は関わりたくない」
そう言った彼の言葉を聞き流し、神官はこちらを見ずに続けました。
「ある意味、尊い犠牲というべきかもしれんな」
「は?」
「何?」
私とクレイグの言葉が重なりました。
神官が僅かに申し訳なさそうにクレイグに微笑みながら、さらに言うのです。
「交換条件として、彼……勇者を魔王に差し出す代わりに君が」
「断る!」
クレイグの悲鳴じみた声が上がりました。「話が違う! 俺は戦うために!」
「そうとも、違うぞ!」
急に、凄まじい魔力の弾けるような風圧と共に、聞き覚えのある声が朗々と響き渡ります。
屋根の上にいる私よりも遥か頭上に、魔王様の姿が突如として現れていました。風にたなびくマントと、長い黒髪。そして、恐ろしいまでに美しい笑顔。
「まるで人身御供のように差し出された勇者を抱いて何が楽しいというのか! 本気で私を殺そうとしている男を、無理やり押さえつけて足を割り開いて強姦し、やがては性奴隷にまで貶めていい声で鳴かせるのが楽しみだというのに、お前らは何も解っていない!」
「解りたくもないが」
クレイグが頭を抱えてそう言っているのが聞こえましたが、誰も彼に気を留める人間などいませんでした。同情します。
「それに、これも私のものだ!」
と、急に魔王様が私のそばに降り立ち、私を背後から乱暴に抱き寄せると大声で笑います。そして、地面に立つ神官二人を見下ろして続けました。
「我々と交渉したいなら、お前らの親玉――神殿長を連れてやってこい!」
「神殿長を?」
さすがに年配の神官は呆れたように笑います。もう一人の若い神官は、どうやら魔王様の強い魔力に当てられたのか、顔色を失って後ずさっています。
「そうとも。そうしたら話だけは聞いてやろう。だが、こいつはやらん。こいつの命は私のものだからだ」
魔王様はそう言って、酷く優しく私の腹の辺りを撫で始めました。その手がゆっくりと腹から胸、喉の辺りにまで。
ひー。
「だが……」
神官が口を開きかけるのを遮るようにして、魔王様は笑いながら私の喉にかけたその手に力を込めました。
「神官よ。余計なことをしたら、こいつは殺すぞ」
魔王様の鋭く伸びた爪が、私の喉へと食い込んできます。ちくりとした痛みがさらに強くなるまで、時間など必要ありません。
「待て!」
神官の顔色が変わります。慌てたように手を挙げて、苦々しく続けました。
「とにかく、考慮はしよう。ここはいったん、引かせてもらう」
そう言った彼は、若い神官の肩に手を置いてゆっくりと宿屋の方へ足を向けました。気づけば村中の人間がその場に集まっているのではないかというくらい、人が集まっていました。その人ごみを掻き分けるようにして、神官たちが銀色の少女の方に歩み寄り、その腕を掴んでさらに歩いて宿屋の中に姿を消しました。
「本当に奇妙だな」
急に魔王様は私を解放し、苛立ったように舌を鳴らしました。「どうやら本当に奴らの狙いはお前らしい。何か心当たりはあるか?」
「……え」
私は喉を押さえながら考えます。そして、すぐに首を横に振りました。